水道民営化をすれば水道代が安くなるという幻想水道事業へのコンセッション方式による公設民営制度の導入。私自身は水道事業のような費用逓減産業は経済学的見地から公営であるべきだと考えている一方で、以前から述べている通り、多様性を消費生活においても実現させるべきだと考えているので、何からの方法で広く市井のアイディアを取り込む仕組みを構築すべきであると考えています。今回の水道法改正のコンセッション方式による公設民営制度は、その観点から言うと役に立たないように思えるので、この改正案を急ぎ導入しなければならない必要性を感じてはいません。「不要ではないか」の立場です。しかしながら上掲引用元記事の主張は、今回の水道法改正による水道事業におけるコンセッション方式導入に限定して批判すればいいものを、広く公設民営化を否定する内容になっており、「言い過ぎ」であると考えているところです。
12/28(金) 8:33配信
HARBOR BUSINESS Online
先日、極右系フェイクニュースをリツイートしているような人物から「水道を民営化をすれば行政の無駄を省き、画期的なアイディアで水道代を値下げできる」という主張を受けました。一般的に「ネトウヨ」と呼ばれるジャンルの人なのですが、とにかく「水道民営化をすれば水道代は下がるんだ」という主張をしており、140文字のTwitterで一生懸命返信を試みたのですが、文字数に制限があると、なかなか伝えたいことが伝えられないので、このたび、しっかりと記事を書くことで納得していただこうと思いました。
(中略)
◆「民間ならば無駄のない経営ができる」という幻想
「行政の仕事は無駄だらけだけど、民間企業なら無駄のない経営ができる」というのは完全なる幻想です。
行政はその会計を非公開にすることはできません。請求があれば情報を開示する義務があり、何にどれだけお金がかかっているのかをチェックされる運命にあります。もちろん、無駄なものにお金がかかっていることもあるかもしれませんが、それらは原則として住民がチェックでき、「これが無駄だ」と指摘し、改善させることができます。
これが民間の会社になってしまうとどうなるのか。何にどれだけお金がかかっているのかを開示する義務は基本的にありません。「そこらへんは自治体と契約する時にうまいこと開示するように義務づける」という人もいるかもしれませんが、企業も企業でそこらへんはうまいことやるのです。
日産のカルロス・ゴーン会長がうまいことやって退職後にも巨額の報酬をもらおうとしていたのと一緒です。行政だと絶対にあり得ませんが、キャバクラ代を接待交際費として領収書を切ってもらうこともできるようになります。また、民間企業の場合には、働かずにお金を儲ける「投資家」という存在が入ってくることもコストを高くする原因になります。株式を上場して企業の価値を高めれば、株価が高くなり、株主の資産も大きくなります。株主配当を奮発すれば、ますます株価は上がり、株主の資産はもっともっと大きくなります。利益を配管などのメンテナンスに使うのではなく、株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こるのも民間企業の特徴です。つまり、民間企業なら無駄のない経営ができるというのは、「メンテナンスにかかる費用を最小限にするに違いない」という極めて部分的な話をしているに過ぎず、それ以外の「本質的な無駄」の部分を完全に無視していると言えると思います。
◆行政サービスを採算だけで判断する愚かさ
「過疎地の買い物難民のためにドローンを使った物資の供給などを提案したり、試行錯誤しているのも民間企業である。採算性の薄いところに新しい切り口で提案できる能力は行政より民間の方が高い」という話もされました。
ドローンには競争性があり、水道民営化には25年から30年の独占契約が結ばれることを考えると競争性がなく、ドローンと水道はまったく異なるのですが、ドローンの会社がどうして試行錯誤をしているのかと言えば、それは彼らが「ドローンに将来性を感じていて、きっと物資を運ぶためにドローンが活用される社会が来るはずだ」と考えているからです。
もちろん、本当にそんな世の中が来たら、今から取り組んでいる企業には既にノウハウを蓄積されているわけですから、ライバル会社に差をつけ、先行者利益でバクバクに儲かる可能性を秘めています。
つまり、彼らはボランティアのためにやっているのではなく、将来の利益のためにやっているのです。
この「選挙ウォッチャー」という仕事も、今はまったく儲かりません。もっと読んでくれる人が増えてもいいと思うのですが、選挙を面白いと感じてくれる人がまだまだ少ないため、ビジネスとして成立しているとは言い難い状況です。しかし、儲からないのに、それでもやり続けている理由は、この仕事が世の中に必要だということもあるのですが、将来的にめちゃくちゃ儲かると考えているからです。将来の利益のことを考えれば、今の苦しさは耐えるに値するものだと考えているのです。
このように「採算性が薄いのにやる」ことには何らかの理由があって、理由もないのに採算性の合わないことをやっている人は、よほど何も考えていない人です。また、ドローンを使ってどのようなビジネスをするのかを考えるのは行政の仕事ではありません。行政は「利益」を考えるところではなく、市民や国民に何をしたら有益であるかを考えるところであり、それは図書館のように運営だけを見たら赤字になるようなことでも、市民や国民のために有益であると考えればやるところです。
そのうち「図書館を作るなんて税金の無駄だ!」と言い出すバカタレが出てくるんじゃないかとヒヤヒヤしていますが、行政サービスにおいて「採算が合うか合わないかだけを見る」というのはバカのすることです。民間企業が新しい切り口を提案するのは、いつも「儲かるから」であることを忘れてはなりません。
(中略)
何か一つでも国民にメリットがあればいいですが、水道事業をする企業が儲かる以外のメリットは何もありません。何の解決にもなっていないので、一つ一つ丁寧に説明していく必要があると思います。水道民営化の問題はいろいろと真っ黒なので、竹中平蔵の思惑通りに事を進めないためにも、みんながしっかりとした知識を持つことが必要です。
以前から申し述べている通り、私は、いわゆる「準市場」の概念と制度を発展させて、公共・行政部門と民営・民間部門が協調・協同・協働的に連関する社会経済を指向しています。社会主義の立場に立ちつつも民間企業や市場メカニズムを参考的に取り込み、融合して行こうと考えている立場です。社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――を僭越ながら模索しています。その観点から以下、考察してまいります。
■我々の日常生活は民営企業・民間部門によって支えられているという事実
引用元記事の執筆者である、ちだい氏は、民間部門には「何にどれだけお金がかかっているのかを開示する義務は基本的にない」から、「キャバクラ代を接待交際費として領収書を切ってもらうこともできるようになる」し、「利益を配管などのメンテナンスに使うのではなく、株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こる」が、一方で、「行政はその会計を非公開にすることはできず、請求があれば情報を開示する義務があり、何にどれだけお金がかかっているのかをチェックされる」から、公営の方がいいと主張します。本当でしょうか。
この論点を考えるに当たっては、何よりも「事実から出発すること」が必要でしょう。以前から繰り返し述べていますが、我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは、儲け主義・営利目的の民営企業・民間部門です。利益至上主義的行動によってとんでもないコトになっていそうなところですが、その割には言うほど利益至上主義的な不祥事は起きていないというのが厳然たる事実であります。
この事実から出発すべきです。交際費云々について、企業経営や生産活動、ひいては我々の日常生活が大きく揺らぐほどの事態にはなっていません。売り上げを金持ち同士で山分けして、設備投資やサービス改善が後回しにされて、消費者が困り果てるという事態は、皆無ではないものの、蔓延しているとは決して言えません。むしろ、激しさを増す市場競争や世論によって、とりわけサービス改善の圧力に晒されて苦労しているのが多く見られています。その点、ずいぶんと一方的で事実と異なる内容が書き立てられていると言わざるを得ません。引用元記事の執筆者である、ちだい氏の主張は、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは言い難いと思われます。
■民営企業・民間部門はガバナンス強化に向かっている一方で、行政機関におけるそうした動きは依然として鈍いという事実
背任的な不正行為云々について言えば、経営学的な意味で所有と経営が分離されている現代の民営企業・民間部門の場合、所有者としての株主(資本家)の眼が光っています。大きな企業であればあるほどコーポレート・ガバナンスが確立されています。雇われ経営陣や一般社員が会社の財産を私的に使えば、所有者としての株主が黙ってはいないでしょう。広い意味での公設民営化としてのコンセッション方式では、行政が親玉として君臨します。株主が雇われ経営者を監視するガバナンス機構を流用してはいかがでしょうか? ちなみに、政府・行政が株主の立場から企業経営を統制するというタイプの社会主義論もあります。このことについて引用元記事では「企業も企業でそこらへんはうまいことやる」と言いますが、この程度では説明したうちには入りません。
これもまた事実から出発すれば、雇われ経営陣や一般社員が所有者としての株主に対して背任的行為を繰り返し、経済社会全体を揺るがす事態にはなっていません。カルロス・ゴーン会長の件についても、無事にバレました。やはり、お天道様とビッグ・ブラザーと特捜部様は見ていらっしゃいます。
民営企業・民間部門での不正について取り上げ、以って行政機関の優位性を相対的に印象付けようとしているのが本文の主張構造ですが、公文書改竄・隠蔽がこれだけ世間を揺るがせ、行政に対する信頼が低下している昨今において、「行政には情報開示義務があるが、民営企業・民間部門にはそれがないのか・・・フムフム」と納得する読者がいったいどれだけいると言うのでしょうか? 説得力に欠けると言わざるを得ません。引用元記事の表現を借りれば「事実として、行政も行政でそこらへんはうまいことやっている」のです。まして、民営企業・民間部門はガバナンス強化に向かっている一方で、行政機関におけるそうした動きは依然として鈍いわけです。
■生活に不可欠な事業だって既に民間部門が担当している事実
「水道事業は生活に不可欠な事業であり、一般的な消費財生産・販売事業と混同されるのは困る」という主張もあるかも知れませんが、今回の水道法改正は、コンセッション方式=広い意味での公設民営化であります。民間丸投げというわけではありません。先にも触れたように、純粋民営企業における所有−経営関係と同様な関係性で行政が所有者として控えています。株主が利潤最大化を要求し監査するのと同等の構図で、行政が公益に基づく要請を展開し、監査する経路があります。いやまあ、「自分たちの不祥事の後始末もできない公務員たちが、委託先の監査などできるはずがない」というのなら理解可能ですが、そういう論理構成ではなく粗雑な「民間悪玉論」に留まるものです。
「生活に不可欠」という観点についても事実から出発したいと思います。一歩間違えると取り返しのつかない不可逆的な結果をもたらす医療界の現状はどうとらえるべきでしょうか。医療界は現時点では株式会社の参入は認められておらず、医療法人の営利目的の事業展開は認められていません。しかし、株式会社の企業立病院は認められています。これらの企業立病院は、表向きは営利を掲げてはいません(掲げられません)が、株式会社的手法による経費削減は当然、展開されているところです(もっといえば、企業立病院に限らず、公立病院だってこのご時世、民間的手法を参考にしてコスト削減に挑戦しています)。企業立病院で患者がバタバタと死んでいますか?
医療ほど生活に不可欠で、かつ失敗が許されない事業は他にありません。水道事業は命に関わる事業ですが、医療事業は「直ちに」命に関わる事業である点、水道事業と同等以上の重要性を持っています。そうした超重要事業においても、当然課せられるべき一定の制限の下で、既に非行政・民間部門が立派に担当しているのです。
■両極端な2つの「民営化幻想」
以前から述べているとおり、手抜きや背任的不正行為は、「官だから起こる」とか「民だから起こる」といった問題ではなく、人間の組織に共通する問題であると言えます。旧式な二分法で考えることは不適当であり、危険であるとすら言えます。官民二分法的発想・悪玉論的発想から脱する必要があります。
また、民営企業・民間企業の社会的影響力が大きくなってきている現代において、昔のように「株主・オーナーの私有財産だから」といって、情報開示を必要としないわけには行かなくなっています。また、「事実として、行政も行政でそこらへんはうまいことやっている」時代になっています(昔から官僚組織はそうだけど)。この点からも、官民二分法的発想・悪玉論的発想から脱する必要があります。
「民間ならば無駄のない経営ができる」というのは、無邪気にも「民間善玉論・行政悪玉論」的に考えているとすれば、たしかに幻想と言うべきに違いありません。特に水道事業について言えば、そもそも現行の比較的安価な価格体系がかなり無理をしたものである以上は、公営であろうと民営であろうといずれ値上げ自体は不可避的な点において、このご時世に「コンセッション方式で民間参入を認めれば水道料金が安くなる」というのは、まずあり得ないと言ってよいと私も思います。上がることはあっても下がることは考えにくいものです。
しかしながら同時に、「行政なら透明性のある事業が期待できるが、民間では不正が横行するようになる」と強弁するこの手の言説もまた、事実から出発すればこそ前述のとおり、幻想であると言うほかありません。こちらは「行政善玉論・民間悪玉論」と言うべきものです。水道法改正を巡って、官民二分法的発想・悪玉論的発想に由来する両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」が展開されています。
■自由の効用は「効率性」よりも「多様性」
引用元記事では、筆者のちだい氏は「行政サービスを採算だけで判断する愚かさ」を論じています。私も、彼とは違った意味ではあるものの、重要な観点だと考えています。この問題を単なる合理性・効率性の問題に矮小化することに私は反対です。自由の効用は「効率性」よりも「多様性」にあると考えているからです。人々の生活を第一に考えればこそ、多少「非採算的・非効率的」であっても「多様性」を目指すべきだとさえ考えています。
「民間企業が新しい切り口を提案するのは、いつも「儲かるから」であることを忘れてはなりません」というのは正しい指摘です(忘れている人なんているのかな? ご教示いただくまでもないような。誰と闘っておられるのでしょう?)。このことは、アダム・スミス以来の経済学の基本的原理です(『国富論』第1篇第2章)。この点を忘却しきってはならないものの、しかしながら、多くの事業家たちが、必ずしも「博愛精神」によるわけではなくそれぞれの目的・魂胆を以って新規参入することによって新しいアイディアが生まれ、サービスに多様性が生じることもまた厳然とした事実であります。今回の水道法改正の制度においては受託者との間で25年から30年の長期の独占契約が結ばれる点を以って、「競争性がない」と書かれていますが、それでも行政独占では生じ得なかった新しいアイディアが入り得る点には注目すべきでしょう。
「多様性」が多方面で重視される昨今において、生活密着型のサービスの多様性だけが認められないのはおかしな話です。「こども宅食」に関して取り上げた8月26日づけ「福祉政策の進歩;協働・協同社会への第一歩」でも述べましたが、行政機関は、公益目的という点においては純潔な目的意識を持っていますが、ひとりの人間・少数の集団が思いつくアイディアの幅には限界があります。より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ巻き込まなければなりません。
チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」でも述べたとおり、自由化の本質的優位性は、「効率性」ではなく、多様な供給主体によってサービスが多様化するところ、すなわち「多様性」にあります。もちろん、福祉やインフラ産業は営利目的とはそぐわない点あるので全面的に自由化すべきではありません。特に水道事業は費用逓減産業です。しかし、多様性にこそ自由の優位性がある点、「供給主体の多様化」という点に注目して、いわゆる「準市場」の概念を援用し、制度を整備しつつ取り組むべきでしょう。生活に密着した分野であるからこそ、制度・ルールをしっかりと整えて、少々「不純」な動機を持っている人も含めて多くの人々を巻き込み、多様なアイディアが提案・実践されうるプラットフォームが整備されるべきです。
このことについても、事実から出発しましょう。当ブログでも繰り返しご紹介しているように、スウェーデンを筆頭とする北欧の福祉国家においては、かつては福祉サービスは公共・行政部門が独占しており、日本でいうところの「措置制度」のようなものでした。福祉は生活そのものですが、画一的な福祉サービスしかありませんでした。こうした現実に対して、福祉サービスの受給者自身が声を上げて、長きにわたる闘いの結果、行政による福祉サービスの供給独占が廃され、多様な供給主体によるサービス提供が実現しました。
このとき北欧福祉国家群は、行政によるサービス供給独占を廃すると同時に、一定のサービス水準を定めてそれを担保するように求めました。1990年頃の話です。あれから30年。経済状況や生活環境の不断の変化によって試行錯誤は続く(当然)ものの、基本的な方針に大きな変化はありません。「公益的要求に基づくサービス基準の順守」と「サービス供給主体の多様化」をセットとする北欧の実践例、公共・行政部門と民間部門の合作的事例は、重要な先例であると言えます。
もっと最近の例では、前掲8月26日づけ記事でご紹介した「こども宅食」における「コレクティブ・インパクト」が挙げられるでしょう。行政・企業・NPOらが対等にパートナーシップを組んで協働するという方法論ですが、行政からの委託ではなく対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれているとのことで、供給主体の多様化による効果が出ているようです。
なお、「水道は大切だが福祉はどうでもいい」という主張は容認できません。水道も福祉も生活そのものです。
■公民の協調・協同・協働社会へ、多様性の確保へ
引用元記事では「図書館」が引き合いに出されています。当ブログでもチュチェ104(2015)年10月5日づけ「図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」」において、図書館運営における外部委託について、東京都千代田区における図書館運営の外部委託の成功的事例を取り上げて論じています。佐賀県武雄市や神奈川県海老名市で惨憺たる状況に陥った図書館運営の外部委託は、東京都千代田区立図書館では比較的上手く実践され、行政直営運営時代では思いつかなかった発想が、外部委託によって導入できたという事実があります。
上掲過去ログにおいて私は、次のように述べました。
(引用元の)記事では、重要なキーフレーズが登場しています。「図書館も出版文化を担う施設ですから、経営効率を求めるものではない」と「指定管理者制度は経営効率性ばかりが強調されますが、千代田区の場合はサービスの充実に寄与しています」です。つまり、東京都千代田区の民間委託は、まさに民間委託の「財・サービスの多様性の充実」という側面を上手く実現させていると言えるのです。お互いの長所・ノウハウを対等な関係性から掛け合わせる――この姿勢は、コンセッション方式=広い意味での公設民営化を目指す水道事業においても重要になるでしょう。また、こうした試みを通じてさらなる公民の協調・協同・協働社会を切り拓いていくべきであると私は考えています。
(中略)
民間委託の本旨が「多様性」であれば、あるべき運営の姿は、役所直営の独占体制ではなく、民間丸投げでもありません。管理能力が高い直営時代からの図書館司書と、民間企業のノウハウを掛け合わせる形で「多様性」を探究してゆくことにあるでしょう。「多様性」という文脈においては、公共部門も民間部門もそれぞれ異質の文化を持っており、新しい文化の重要なベースを提供し得るという点において立場は対等です(効率性の文脈では、やはり公共部門が民間部門に打ち勝つことは難しく、どうしても「民間部門信仰」のようなものができてしまいます)。
引用元記事は、「行政サービスを採算だけで判断する愚かさ」を主張していますが、これもある意味において「採算だけで判断する愚かさ」に陥っています。企業は確かに「利益」という個別的利益を狙っているでしょうが、その結果として、「多様性」というかけがえのない社会的利益が提供されるのです(これは、バーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話――私悪すなわち公益』にみられ、スミスが継承した考え方ですが、最近はたとえば松尾匡氏のようなマルクス経済学者も肯定的に捉えるようになっています)。サービスの供給主体の多様化の効用は、「効率性」にあるのではなく「多様性」にあるのです。そして、引用元記事の表現を借りれば、「市民や国民のために有益であると考えれば」こそ、多少「非採算的・非効率的」であっても「多様性」を目指すべきであるとさえ言えるのです。
■準市場の概念と制度をさらに洗練させる必要性、「事実からの出発」に徹する必要性
今回の水道法改正を巡っては、水道民営化推進論者の言い分は、原則論や印象論が先行しがちでしたが、反対の論陣を張る引用元記事もまた、原則論や印象論に立脚していると言わざるを得ません。「極右」だ「ネトウヨ」だは、特にそうです。
いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちに統一的な経済政策論はありません。そもそもネトウヨは経済政策に関する主張によって形成されるグループではないからです。基本的に経済オンチだとは思いますが、あえて傾向的なことを言えば、ネトウヨ層は、官公労批判の文脈で民営化を提唱したり「反日メディア」批判の文脈で電波オークションがどーのこーの言ったりする(たぶん経済学的な意味は分かっていない)ものの、保守左派から国家社会主義にかけて分散しており、その点においては、かつての「日本型社会主義」への憧憬だったり、集産主義(Collectivism)や全体主義(Totalitarianism)への親和性はあっても、新自由主義との親和性は低いというべきです。むしろ、ひょんなタイミングで共産党を絶賛することさえあります(共産党もいい迷惑でしょう)。
今も昔も「ネトウヨ」は蔑称ですが、必要性がまったくない文脈で敢えてネトウヨと呼ぶ点、何らかの印象操作狙っていると推察するところです。
こうした印象操作的で中身に乏しい言説が飛び出してくる現状は、公設民営制度をさらに洗練させること、準市場の概念と制度設計をさらに進化させる必要性を示していると言えます。冒頭でも述べたとおり、私自身は今回、水道法を急ぎ改正する必要性を感じていないのですが、引用元記事の主張は、今回の水道法改正による水道事業におけるコンセッション方式導入に限定して批判すればいいものを、広く公設民営化を否定する内容になっており、「言い過ぎ」であります。今回の水道法改正はどうでもいい(擁護・弁護する義理はないから)として、公設民営制度一般に関してはきちんとお答えできるようにしておく必要性を改めて感じました。
一人ひとりの生身の人間はみな千差万別の個性を持っています。その点、人間生活の本質的特徴は「多様性」にあります。人間の文化的な生活には消費活動が不可欠ですが、多様な個人が思い思いの生活を送るには、多様な消費活動が保障される必要があります。消費活動は生産活動を前提とします。つまり、消費の多様性のためには、生産の多様性が大前提です。一人の人間・少数の集団は、いかに天才的であったとしても、そのアイディアには限りがあるので、生産の多様性確保のためには、より多くの参加者を生産活動に巻き込む必要があると言えます。自由な取引は、そうした人々の活動をコーディネートする機能を持っています。前述の北欧諸国における福祉多元化の例を見れば分かるとおり、人々の多様な欲求を充足させるには優位性を持っています。
他方、スミスが正しく指摘しているように、自由な取引における各参加者の行動原理は、博愛精神ではなく利己心です。現代経済学が正しく指摘するように、パレート最適と公平性は別問題です。その点において、公益を基準とした修正もまた必要とされていることは間違いのないことです。
措置制度と契約方式との中間形態・混合経済の一形態として位置付けられる準市場の概念は、こうした難しい調整において重要な思考の枠組みを提供すると考えられます。多様性にかかる要求と公益にかかる要求を両立するためにこそ、準市場の概念を洗練させ、制度設計に応用してゆくことがますます大切になっていると考えます。このことは最終的には、社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――に繋がるものであると社会主義の立場に立つからこそ考えております。
引用元記事では、行政については「「利益」を考えるところではなく、市民や国民に何をしたら有益であるかを考えるところ」であるとする一方で民間企業については「株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こる」とする、原理・原則を現実に演繹的に展開して断定する物言いが目立ちました。必ずしもこうとは言い切れない現実が目の前に広がっているにも関わらず。私自身も類似事例の援用や演繹を多く行っているので、教訓的でした。「人の振り見て我が振り直せ」。あくまでも「事実からの出発」に徹して制度を考える必要性を改めて認識しました。