2019年02月18日

リベラリズムとマルクシズムとを密接に連関させることの困難性

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190129-00192232-diamond-bus_all
国境の壁やブレクジット支持の裏にある「変貌したリベラル派」への失望
1/29(火) 6:00配信
ダイヤモンド・オンライン


(中略)

 ところが、実際に、労働者階級や低所得者層が支持したのは、「非リベラルなポピュリズム」だった。彼らはリベラル派を支持しなかったのである。

● リベラル派の関心は個人に 「連帯」「平等」より「多様性」
 なぜ、こうなったのか。

 その理由は、リベラル派の変質にある。

 もともと、1960年代後半までのリベラル派は、経済社会を「資本家階級対労働者階級」という階級闘争の図式で考えるマルクス主義の影響を強く受けつつ、経済社会の変革を求めていた。

 この頃のリベラル派は、確かに労働者階級の味方だった。

 しかし、1968年以降、フランスや日本などで学生運動が過激化して失敗に終わり、同時に、ソ連や中国など社会主義国における抑圧的な体制の現実が明らかになっていくと、リベラル派の社会変革のビジョンは急速に色あせていった。

 こうして、リベラル派の知識人たちの多くは、経済社会を階級闘争とみなすマルクス主義から離れていった。それだけではなく、次第に、資本主義体制そのものの構造的な問題に真正面から取り組むことすら、やめてしまったのである。

 こうしたリベラル派が「階級」の代わりに関心を寄せたのは、「アイデンティティ」(女性、エスニック・マイノリティー、LGBTなど)だった。
 冷戦が終了し、社会主義体制が崩壊した後の1990年代以降は、リベラル派の「アイデンティティー」重視は、ますます決定的になった。

 こうした流れに伴って、リベラル派の関心は、社会・階級・団体のような「集団」から、「個人」のアイデンティティーへと移った。

 リベラル派が好むスローガンも、従来の「連帯」「平等」から、「多様性」「差異」「解放」「エンパワーメント」へと変わっていったのだ。

● 「体制派」化して 弱者の「受け皿」になれず
 だが、「階級」より「アイデンティティー」に関心を寄せ、「集団」よりも「個人」を重視するようになったリベラル派には、グローバリゼーションに反対する理由はなくなってしまう。


(中略)

 しかし、一握りの企業や個人に富が集中するグローバル資本主義そのものを批判することはないのである。

 こうして今のリベラル派は、グローバリゼーションによって苦しむ労働者階級や低所得者層の受け皿ではなくなってしまった。

 むしろ、労働者の苦境をよそに、「共生」だの「多様性」だのと説教を垂れる鼻持ちならない「エスタブリッシュメント(体制派)」と化していたのだ。

 これでは、労働者階級や低所得者層が非リベラルなポピュリスト勢力へと走ったのも、当然だろう。

 このリベラル派の変質の問題を象徴するのは、2016年の米大統領選だった。


(中略)

● 原点回帰の動きも サンダース氏らの登場
 結論を言えば、「非リベラルなポピュリズムの台頭」を招いた責任の一端は、変質したリベラル派にあるということだ。

 リベラル派は、非リベラルなポピュリズムを見下したり、嘆いたりする前に、グローバリゼーションに苦しむ人々の受け皿となり得なかったことを反省すべきだろう。

 そして、労働者階級のために戦っていた頃の原点に回帰すべきなのだ。

 
(中略)

 (評論家 中野剛志)
一握りの企業や個人に富が集中するグローバル資本主義そのものを批判することはない」「労働者の苦境をよそに、「共生」だの「多様性」だのと説教を垂れる鼻持ちならない「エスタブリッシュメント(体制派)」」――ブレクジットやトランプ大統領当選に関連して、いわゆる「リベラル」に対する批判を、生身の生活者・労働者階級の利益擁護・自主権擁護のためにチュチェの社会主義の立場から展開してきた私としても納得できる説明です。私以外・チュチェの社会主義者以外の人士からも、以前からちょいちょい指摘されてきていたことです。たとえば、以下。
https://news.nicovideo.jp/watch/nw4250735
左派賢人の過激な問い。"世界のトランプ化"はリベラルのせい?
2018/11/26 06:00週プレNEWS

『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、"世界のトランプ化現象"について語る。

* * *

ブラジル大統領選挙で、性的少数者や女性、黒人への差別発言を繰り返してきた極右政治家ジャイル・ボルソナロ下院議員が当選しました。国際的な右派ポピュリズムの波は、まだまだ拡大していきそうです。

この"世界のトランプ化現象"について、反資本主義の旗手として知られるスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが、英紙『ガーディアン』のインタビューで興味深い発言をしています。


(中略)

ジジェクは、リベラル陣営がトランプら右派政治家の言動ばかりに目を奪われるのは「バカげている」と喝破(かっぱ)します。極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である。

にもかかわらず、右派陣営に煽(あお)られるがままに、反差別や多様性といった"些末(さまつ)なこと"を追いかけても、この社会はよくならない。いや、むしろ右派ポピュリズムは拡大していくだけだ――。

身もふたもない言い方をすれば、ジジェクは「左派はきちんとゼニの話をしろ」と言っているのです。


(以下略)
しかしながら、「マルクス主義の影響を強く受けつつ、経済社会の変革を求めていたリベラル派が1968年以降、マルクス主義から離れていき、次第に資本主義体制そのものの構造的な問題に真正面から取り組むことすら止めてしまった」という趣旨の説明には違和感を感じざるを得ません。一時的であったとしても、「経済還元論」とまで言われることがあるマルクシズムの立場に立った人々が、いわゆる「リベラル」のような根無し草の観念論にまで後退するものか、疑問に思います。たとえば、マルクスは『資本論』の序言で次のように言明しています(マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12)。
・・・ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。
「リベラル」の発想とは大きく異なると言わざるを得ません。マルクシズムからの直接的影響は、本文中で描かれているほどではなかったのではないでしょうか。

同じく中野氏の別記事を併せて読むと、違和感は確信に変わります。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190208-00264149-toyo-soci
「起業家が育たない日本」はまともな社会だ
2/8(金) 8:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

 「トランプ政権の『ポスト真実』『もう一つの事実』は、一般的には、不可解で常軌を逸したアメリカの『新たな』現象だと考えられている。だがこれは、アメリカ史全体を通じて(実際にはアメリカ史が始まる前から)受け継がれてきた意識や傾向から当然導き出される結果なのである」(『ファンタジーランド 上』、p17)

 トランプ政権を生み出したのは、アメリカ人の国民性である。その国民性とは、現実と幻想の区別がつかないということだ。


(中略)

■「ポスト真実」の根源は1960〜1970年代の若者文化
 もっとも、この気質が本格的に花開いたのは、1960年代から1970年代である。

 リベラル派(左派)は、この時代の若者文化を理想視し、いまだにその反体制的な価値観を信じている。そして、保守派(右派)のトランプ政権が振りまく「ポスト真実」に怒りの声を上げている

 しかし、1960〜1970年代の若者文化の価値観とトランプ政権の「ポスト真実」とは、同根であることをアンダーセンは暴いていく。
 「(1960年代の平等の拡大によって)一人ひとり誰もが自由に、自分の好きなことを信じ、好きなものになれるようになった。こうした考え方を突き詰めていけば、競合するあらゆる考えを否定することになる。もちろん個人主義は、アメリカが生まれ、幸福の追求や自由が解き放たれたときから存在する。以前から、『夢を信じろ』『権威を疑え』『好きなことをしろ』『自分だけの真実を見つけろ』と言われてきた。だがアメリカでは1960年代以降、法律が一人ひとりを同一に扱うだけでなく、一人ひとりが信じていることはどれも一様に正しいというところまで、平等の意味が拡大された。絶対的な個人の自由を容認するのがわが国の文化の原則となり、国民の心理として内面化された。自分が信じていることは正しいと思っているのであれば、それは正しい。こうして個人主義は、自己中心主義となって蔓延した」(『ファンタジーランド 上』、p314〜315)

 権威を疑い、体制に逆らい、自由と平等を絶対視した結果、リベラル派は「一人ひとりが信じていることはどれも一様に正しい」という相対主義に行きついた。

 しかし、リベラル派の「権威を疑え」「自分だけの真実を見つけろ」という相対主義を徹底すれば、客観と主観、あるいは現実と幻想の区別がなくなっていくのも当然であろう。リベラル派はトランプ政権を批判するが、「ポスト真実」「もう一つの事実」といった相対主義を振りまいてきたのは、本をただせば、リベラル派なのである。


(以下略)
「リベラル」の観念論っぷりに関する説明としては説得力があるように思われるのと同時に、科学的社会主義を掲げるマルクシズムとは根本的に異なる発想である点において、リベラリズムとマルクシズムとを密接に連関させることの困難性を示している内容です。科学的社会主義は、19世紀的に素朴な科学主義に立つ(それゆえ、現代科学の観点から見れば誤った世界観を開陳しているケースも少なくない)点、この手の「相対主義」を徹底的に排撃します。この哲学レベルでの差異は、相当に大きなものがあります。考え方が哲学レベルで根本的に異なるので、マルキストはリベラリストにはなれないし、リベラリストはマルキストにはなれないでしょう

リベラリズムとマルクシズムは生まれた文化的土壌が同じなので、両者にはある程度の発想や問題意識の類似性はあるかも知れません。「敵の敵は味方」的な意味で、独占資本と頑迷的保守派の結託に対して共闘的に歩調を合わせていたこともあるでしょう。しかし、やはり共通点よりは相違点の方が多い「別物」であり、この記事が描くほどはリベラリズムとマルクシズムは近しい関係とは言えないのではないでしょうか。

ちなみに私は、社会主義とリベラリズムは哲学的にも実践的にも大きく異なり、リベラリズムでは現代社会の諸問題は解決し得ないと考えています。その観点から、リベラルな言説には批判を展開しているところであります。
ラベル:お左翼
posted by 管理者 at 23:08| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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