2019年04月07日

新元号へのケチつけに見られる日本リベラル界の危機的状況

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190401-00000021-tospoweb-ent
ウーマン村本「平成ノブシコブシもついでに終わりますように。。」
4/1(月) 15:00配信
東スポWeb


(中略)

 ジャーナリストの江川紹子氏(60)は「私なんかは『令』の字からは『命令』とか『令状』とかって言葉が思い浮かんでしまうのだけど、若い世代には『れい』という音がウケるかも、という気がしなくもない」とコメントし「元号は漢籍から引くという長い伝統と慣例を破ってでも国書にこだわったようだけど、元をたどれば漢籍という…」と続けた。

(以下略)
新元号へのケチつけが面白い。今回は江川紹子氏。リベラル派知識人の代表格である江川氏の思考回路・社会歴史観をあぶりだしている点において、「リベラルの正体」を見破るにあたって貴重なサンプルになっています。

『令』の字からは『命令』とか『令状』とかって言葉が思い浮かんでしまう」というのは今回はスルーすることとして、「元号は漢籍から引くという長い伝統と慣例を破ってでも国書にこだわったようだけど、元をたどれば漢籍という…」というくだりに注目しましょう。

■あぶりだされるその社会歴史観
こうした言説について、奈良大学文学部の上野誠教授は以下のように述べています。江川氏の見識の浅さに対する強烈な直撃弾といってもよい内容になっています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190403-00010007-abema-soci
国書からの引用は日本の右傾化?複雑化する東アジア情勢・グローバル化を反映?万葉集の研究者が新元号「令和」を読み解く
4/3(水) 14:12配信
AbemaTIMES


(中略)

 上野教授は「万葉集ではない方が良かったという人もいるが、だったら書経とか易経とか詩経を皆が読んでいるのか、という話になる。万葉集は源氏物語と並んで、先生と一緒であれば読むことのできる並ぶ国民文学。そこから取るということで元号が身近になる。また、この序文自体が漢文である中国の『文選』という書物の『帰田賦』から取っている、という点からの批判もある。しかし古典というものは、過去にあるものをちょっとずつ変えながら作っていくもので、いきなりピカソやダリのようなものが出てくるというのは近代的な考えだ。『帰田賦』だって、その元がある。“重ね絵“のように作っていくものだし、それが日本の文化の素晴らしいところだと考える。日本はオリジナルを作るのは不得意で、“改良型“。逆にいうと、それが良でもあると思う」と指摘する。

(以下略)
古典というものは、過去にあるものをちょっとずつ変えながら作っていくもので、いきなりピカソやダリのようなものが出てくるというのは近代的な考えだ」というのは、社会歴史観として的確なご指摘です。

文化は積み重ねの上に築き上げられるもの。政治も経済も社会も、すべて過去からの積み重ねの上で形成されるもの。物理学でいう相転移のような社会現象――平たく言えば、革命的現象――だって、何もないところから湧いてくるものではなく過去からの積み重ねの上で発生するものであり、その点において過去からの継続であるわけです。自然界には、過去と断絶し無関係なものはあり得ません。そこに至るまでには積み重ねがあるのです。すべてにおいて無から有は生まれ得ず、すべては過去からの継続です。

上野教授のご指摘を踏まえるに、リベラル派知識人の代表格である江川氏にあっては、社会や歴史には彗星の如く登場する「飛躍」があり得るという、事実に反する観念が存在していると推察できます。江川氏の社会歴史観があぶりだされています。

■偏狭なそのオリジナル論の危うさ
そもそも、知識人たる者はいつの時代も必読文献の表現・内容を引用しつつ自分の作品を展開するもの。万葉集はさまざまな身分・階層の人々が詠んだ和歌の歌集ですが、漢籍の表現を踏まえた表現が出てくることは至極当然のことでしょう。何を踏まえる・引用するかは詠み人の感性・判断であり、その点においてその作品は、漢籍を踏まえていたとしても詠み人の作品であり日本の作品であると言えます。

毎日新聞は、識者コメントを紹介する形で次のように報じています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190401-00000087-mai-soci
令和の出典、漢籍の影響か 1〜2世紀の「文選」にも表現
4/1(月) 20:55配信
毎日新聞


(中略)

 平安前期ごろまでに成立した日本書紀をはじめとする古典は、中国古典の表現を元にして書かれた部分が多いとされる。元号の出典にする場合、「中国の古典の表現を孫引きすることになる」との指摘が出ていた。だが、元号に詳しい所功・京都産業大名誉教授は「日本人は外国から取り入れたものを活用してきたわけで、単なるまねではなく、自分たちのものとして利用してきた」と評価する。

 中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。

 今回初めて漢籍から選ばれなかったことに注目が集まるが、中国哲学の宇野茂彦・中央大名誉教授は「日本の文化というのは漢籍に負うところが非常に多い。文化に国境は無い。漢籍を異国の文化だと思わないでほしい」と語る。


(以下略)
古来より日本人は異文化の中からも柔軟に「いいとこ取り」を続けてきており、「完全オリジナル」にはあまりこだわらず、思い思いの作品を創り上げてきたというわけです。

「文化は積み重ねの上に築き上げられるものである」という事実を踏まえず、「元をたどって漢籍に行き着くのであれば、それは純粋な意味での『国書へのこだわり』には当たらない」と言っているに等しい江川氏の発言からは、「オリジナル作品とは、他人の過去の作品とは一切断絶・無関係のモノを言う」という前提の存在を読み取ることができると言えます。「オリジナル性の担保のためには他者由来の要素を徹底的に排撃しなければならない」という結論に至らざるを得ない点において、これはかなり偏狭な「オリジナル」の定義であると言わざるを得ません。

江川氏が実行力あるいは扇動力を持っていなければよいのですが、こうした人物が何らかの新しいアイディアを思いついて実行または扇動した時が怖い。革新性やオリジナル性を強調するあまり、他者由来の要素を徹底的に排撃すべく何のためらいもなく過去を断絶しかねないからです。幾世代にも渡る試行錯誤の上で形成されてきた方法論・先人たちが積み上げてきた歴史的な英知の結晶をいとも簡単に破棄しかねないわけです。

■総括
江川氏の「元号は漢籍から引くという長い伝統と慣例を破ってでも国書にこだわったようだけど、元をたどれば漢籍という…」からは、彼女がいうところの「オリジナル」の定義は相当に偏狭なモノであり、その発想の根底には、過去断絶的な「飛躍」がこの世には存在し得るという事実に反する観念が存在すると考えられます。このような人物は、革新性やオリジナル性を強調するあまり、他者由来の要素を徹底的に排撃すべく何のためらいもなく過去を断絶しかねない恐れがあります。もちろん、物の道理に反する発想に基づいているのだからそのプランが成功するはずがありません

このような人物が所謂リベラル派の代表的論客として君臨していることは、日本リベラル界の危機的状況を示しているとも言えると考えられます。

■余談
万葉集は漢籍を踏まえつつ成立している日本の歌集であることは疑いのないことですが、かといって日本人は、万葉集について「オリジナル」を無理筋にも声高に主張しているわけではなく、漢籍からの引用を事実に即して認めている点、偏狭な国粋主義・民族主義とは一線を画する態度を取っていると言えます。まさに、古来より異文化の中からも柔軟に「いいとこ取り」を続けてきた日本人の姿そのものと言えます。

これこそが、リベラル勢が昨今声高に主張している「異文化に対する寛容な精神」ではないでしょうか。この精神は、伝統的な日本精神においてこそ実現されているのです。そしていま、そうした精神のなかから新しい元号が制定されました。「異文化に対する寛容な精神」の旗振り役を(誰も頼んでいないのに勝手に)自認しているリベラル勢こそ、伝統的な日本精神に倣いそれを我が物とするくらいの勢いで、「令和の時代を多文化共生の時代に!」と運動を展開するくらいの勢いであるべきでしょう。
posted by 管理者 at 22:27| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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