橋下徹氏 大阪都構想は「しょぼい構想」に激高「学者ほど哀れなものはない」やっぱり「鉄砲玉」橋下徹氏が表舞台から引退してよかったと改めて思った一報。激高している橋下氏の言い分ほど一方的なものはないので、ここはまず、槍玉に挙げられている上久保教授の主張を読んでみましょう。
4/9(火) 9:24配信
元大阪市長の橋下徹氏(49)が9日、ツイッターを更新し、立命館大学政策科学部教授の上久保誠人氏に言及した。
上久保氏は9日にインターネットサイト「ダイヤモンド・オンライン」の中で、維新が掲げた大阪都構想について「『夢』がないのだ」「ピンとこない」「しょぼい構想」とコキ下ろした。
橋下氏は「ほんと自分の間違いを素直に認められない学者ほど哀れなものはない。(中略)学者は言いっ放しでいいから楽な商売だ。どう実行するか考えろ。来月出す俺の本をしっかり勉強しろ」と激高。
(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190409-00199166-diamond-soci&p=1
大阪ダブル選挙で自公と共産が「共闘」できた深い理由「大阪維新の会の姿勢こそ、「穏健な保守中道二大政党制」における、中道陣営のあり方であると考える」というくだりが明白に示している通り、上久保教授は維新の功績をかなり高く評価していることが分かります。また、「維新の会に必要なのは、大阪都構想のような局地的な構想ではなく、日本の国家像を変えるようなより大きな構想を考え、国民全体に訴えることではないか」というくだりは、都構想の成立後を見据えたさらに大きなビジョンを展開してほしいと期待するものです。
4/9(火) 6:01配信
ダイヤモンド・オンライン
(中略)
これらの大阪維新の会の政策の打ち出し方は、保革のイデオロギー対立にこだわり、「なんでも反対」し、「なにも変えてはいけない」と主張し、審議拒否を繰り返した結果、安倍政権が国会提出した問題だらけの法案を無修正で通してしまう、国会の「左派野党」のあり方とはまったく異なるものである(第189回)。
私は、大阪維新の会の姿勢こそ、「穏健な保守中道二大政党制」における、中道陣営のあり方であると考える。安全保障を政争の具とせず、経済財政・社会保障政策など内政面では、「改革が手ぬるい」「よりよき政策がある」と、保守と中道が競い合って、現実的な政策を作り上げていく体制を築く、野党のあり方である。
(中略)
「大阪都構想」は、大阪府・市の二重行政の解消を訴えるだけで、「府」の上位の行政区分が「都」だからというだけのものだ。「都」といえば「首都」のはずだが、実際に首都になるという構想ではない。首都の機能の一部でも担うということなら、それが日本国の政治・行政・経済・社会にどんな好影響を与え、将来的に日本の国家像をどう描くかの構想もない。
端的にいえば、大阪がどのような都市になり、日本がどのような国になるかの「哲学」がまったくみえない。大阪府・市という狭い範囲の行政をどうするかのテクニカルな話に終始しているだけで、「夢」がないのだ。だから、大阪都構想は、大阪から一歩外に出れば、まったく理解を得られていない。
(中略)
維新の会に必要なのは、大阪都構想のような局地的な構想ではなく、日本の国家像を変えるようなより大きな構想を考え、国民全体に訴えることではないか。例えば、この連載では、以前から憲法改正による参院改革を維新の会に奨めてきた(第69回)。
参院を、ドイツのような「連邦国家型二院制」の上院に改革し、知事や市長、県会議長など地方の代表が上院議員を兼務する形にする。上院を「地方代表の院」とすることで、地方の意向をダイレクトに国政に反映できるようにするのだ。
維新の会はこれとは真逆で、国会の意思決定が迅速になるという短絡的な理由だけで「一院制」の導入を訴えている。しかし、維新の会の主張である「道州制」と同じ政治・行政制度を採用している「連邦国家」はすべてが二院制で、上院は地方を代表する院を設置している国が少なくないことを知るべきだろう。大胆にいえば、地方主権を実現したいならば、中央から離れることばかり考えるのではなく、中央に乗り込んで、中央を支配するという発想を持ってもいいのではないかということだ。
要するに、今回のクロス選挙で大阪都構想という「しょぼい構想」のみに注目が集まったことを、私は残念に思う。本当に評価されるべきは、大阪における維新の会の「改革姿勢」であるべきだと考える。そして、国政レベルにおいて、中道で改革的な政党が再び育っていくきっかけになってほしいと思っている。
上久保教授は、維新に対して大きな期待をもっており、当該記事は、圧倒的強さを見せる大阪でも「自民党議員団を切り崩して何人確保する・・・」だのと頭数合わせにも腐心せざるを得ない現状、全国レベルにおいては社民党には勝てるけれども共産党には及ばない支持率に低迷している維新の現状からの脱皮を図るための一策を提言しているものと読めます。そしてその提言は、たしかに実践ベースではなく即物的には使えるものではないものの、哲学レベル・実践を支える国家論としては興味深いものです。政治には遠大なビジョンが不可欠。日帝統治が盤石だった時代、父から受け継いだ「志遠」を座右の銘とし祖国独立の志をもって闘争に挺身された首領様のように!
政治は実践ですが、その実践の背後には即物的には使えないが実践を支える哲学・国家論があり、これらは帰納と演繹の関係にあると言えます。学者が実践に明るくないのは無理もないし、即物的ではない国家論を語るのは当たり前のことです。このことについて「実践を知らない」と罵るのではなく、学者の理論的提唱を実践に落とし込むのが政治家の役割です。実践担当者としての政治家が目の前の政治課題に忙殺され、狭い経験論に拘泥し、見識がタコツボ化している可能性だってあるでしょう。そうした事態においては、あえて実践から距離を置き、抽象化された理論的・鳥瞰的な見地は有用でしょう。
その上で、実践の結果として得られた知見を学者に提供し、また新たなビジョンの構築に期待するというのが正常な学者と政治家の関係、理論と実践の関係ではないでしょうか? 自然科学の世界ではこのことは自明なことですが、根っからの文系人間には分からないのかな?(バカにし過ぎ?)
そのことを確認した上で、橋下氏の言説に戻ってみましょう。
橋下氏はTwitterで「現実の政治行政では全く使えないシロモノばかり」や「政治なんて、机上で学ぶものではなく、実践するものだ」、「上久保は実践経験がないから、金融都市とか連邦国家的二院制とか、宝くじを当てます!みたいなことばかり言っている」「しょうもない役立たずの研究ばかりせず、政治の実践を少しは研究しろ」などと大声をあげて喚いています。
一方で、「地方側に拒否権を持たせようとが、そこまではできなかった。しかしこれが連邦国家的二院制の第一歩だ」と述べている点、ギャーギャーとヒステリックに喚いた末にこう言っているわけですから、要するに、自分でも不足があると分かっていることを他人からズバリと指摘されたことに、いたくご立腹されたというのが実態のようです。言われたくないことをピンポイントで抉られたら誰でも不快に思うものですが、本当のことを指摘してきた人(それも橋下氏の個性を理解してか、その功績を賞賛した上で最後に少しばかり不足を指摘しているに過ぎない)に対して口汚く罵って返すのは、これはみっともない部類に入ると言わざるを得ないものです。
橋下氏は昔っからそうですが、弁護士なのに相手の主張の全体を見ずに些末な表現に突っかかって脊髄反射的に罵倒し始めるところがあります・・・まあ、民事裁判においては場合によってはそういう「弁護」も戦術としてアリなので、その延長線上の確信犯的方法なんでしょう。最後に「ブレグジットと大阪都構想の正確な分析・評論と、上久保の研究がなぜクソの役にも立たないのか。この本を読んでしっかり勉強しろ」と言って自著を宣伝している点、上久保教授が基本的には自分にとっての論敵ではないし、弁護士時代から「鍛えて」きた「大声でまくし立てる方法」をもってすれば万一の展開でも勝てると踏んで、上久保教授をダシに自著を宣伝しているというのが実態なのでしょう。
しかし、裁判に勝てばいい弁護士としてではなく自著を売り込む商売人としてでもなく、人民大衆の指導者としての政治家としてと考えると、控えめに言っても賛否分かれるスタイルと言わざるを得ません。私はこういう指導者を戴きたいとは思わないので、橋下氏が表舞台から引退してよかったと改めて思った一報でした。反対論を説得するなどして社会をシステムとして維持しようという意思を見いだせず(システム的世界観・社会観がないからこそ、彼はこの手の文革的手法に手を染めていられるわけですが)、「勢いで突破できればいい」が前面に出過ぎていて誠実さも見いだせない点。そして、個人人格攻撃になってしまいますが、「偉大な領導者」という感じがせず、ただただ「些細なことで激高する器の小ささ」が目立っています。
上久保教授は、「維新の会に必要なのは、大阪都構想のような局地的な構想ではなく、日本の国家像を変えるようなより大きな構想を考え、国民全体に訴えることではないか」と指摘されます。私も維新は、大阪都構想を超える遠大なビジョンを掲げたうえで目下の課題に取り組むべきだと考えているので同感です。それに加えて私は、橋下氏信者がいる点において昔からの支持者を繋ぎ止めるために橋下氏の「援護射撃」は活用しつつも、党とは無関係の個人として一線を引いておくことを徹底すべきと考えます。
『「非橋下化」こそ維新が全国規模で支持を広げる秘訣』て、それをやろうとして「石原慎太郎の立ち上がれ」と合併し、民主党離党組まで受け入れたのに、結局「石原ら旧立ち上がれ」「松野頼久など民主党離党組」を離反させて今の惨状になったという理解はこの「バカ」「頭のおかしい変人」にはないようです。
かつ「非橋下化」なら既に「大阪以外の維新」ではとっくの昔に実現しています。
なぜなら大阪以外においては維新は「候補者を選り好み出来る立場にはなく」、結局「自民や旧民主党系から立候補したいが、出来ない人間」の駆け込み寺になってるからです。』
ご無沙汰しております(以前から何度かコメントを寄せていただいているbogus-simotukareさんですよね?)。「頭のおかしい変人」や「バカ」などと、コメント冒頭から戦闘的で驚きました。なぜそういつも喧嘩腰なのでしょうか?
とはいえ、「頭のおかしい変人」「バカ」のブログ記事を細かくチェックしていただいた上でコメントまでいただけたことについては、少し不思議には思いますが、まずは御礼申し上げます。
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コメントにご記入いただいた範囲内でお答えしようと思ったのですが、bogus-simotukareさんが一体何にご不満をお持ちなのかが分かりかねるところです。維新への支持表明に読めますか? 反維新・反橋下の立場を一貫してきたので、このようなコメントを頂戴するとは思ってもいませんでした。
維新の党勢を巡る基本的な認識は、私もbogus-simotukareさんと同じようです。石原慎太郎氏や民主党離党組を巻き込み、政界の斬り込み隊長として時代の寵児として飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、あくまで「橋下商店」の域を脱しておらず、あっという間に空中分解してしまったという情勢認識。大阪以外での維新が自民党などから公認や推薦を取れなかった候補者たちの駆け込み寺・雑多な寄せ集めと化しており、「維新」と名乗ってはいるものの大阪のそれとは似ても似つかぬものになっており、党組織が脆弱であるという情勢認識。いずれも私には特に異論はありません。
bogus-simotukareさんのご指摘には入っていませんが、「大阪以外で通用する政策がない」というのも大きな要因としてあると私は考えています。また、維新の文革的手法は、信者には大ウケでも良識ある有権者には受け入れられないので、どうしても頭打ちになってしまって全国規模の支持基盤を構築できないものです。結果、全国レベルで見れば自民・公明両党はもちろん、共産党にも及ばず、わずかに社民党に勝る程度に党勢が低迷していると考えられます。
他方、以下に述べるように、「非橋下化」が指し示すところに相違があるようには感じています。
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この記事の趣旨は、維新の現状に対する上久保教授の提言、そしてそれに脊髄反射的に噛み付く橋下氏のTwitter発言を話題のタネとして、(1)遠大なビジョンと目下の課題の整合性を取ることの重要性、(2)政治家と政治学者の関係性(理論と実践の関係性)に対する正しい認識を持つことについて、の2点について論じたものです。たまたま維新が使いやすい実例として転がっていたので拾っただけで、いま現在の維新が党勢を拡大することを願っているわけではありません。松井・吉村体制になってから多少「丸く」なってきているとは思うものの、依然としてその政治手法は支持しかねます。
要点を搔い摘んで申せば、遠大なビジョンを構想するにあたっては、あえて実践から距離を置いた理論的・鳥瞰的な学術的意見も参考になることが少なくないので、これに耳を傾けるようにすべきだということ。そのためには、政治家と政治学者の関係性を正しく捉える必要があるということです。また、少しでも持論に異を唱える人物に対して口汚く罵る姿勢は、良識ある有権者には受け入れられないので、それを辞めることも必要でしょう。こうすることによって党の「厚み」が増して政策立案能力が向上し、大阪の地方政党としてではなく全国規模の国政政党として自立した党を組織できるようになり、有権者の間で支持を広げることが出来るようになるだろうというわけです。
橋下氏の手法は、これとは逆の手法です。端的に言えば「他人の話を聞かない」に尽きます。反維新・反橋下の私には維新の心配をする義理はないのですが、橋下式手法の頭打ちが既に見えているのだから、方向転換が必要だと考えます。他人の話に聞く耳を持つように改めなければなりません。政治家と政治学者の関係性・理論と実践の関係性を再構築し、遠大なビジョンと目下の課題の整合性をつける必要があります。そのことを端的に「非橋下化の徹底」と表現しました。
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bogus-simotukareさんは、維新は、大阪以外では候補者を選り好み出来る立場にはなく、結果として自民や旧民主党系から立候補したいが出来ない人間の駆け込み寺と化していることを以って「非橋下化が実現している」と仰いますが、これは私が指し示すところの「非橋下化」とは異なるものです。雑多な寄せ集め・駆け込み寺になることで「橋下色も薄いけれど党としてのカラーも薄い」という意味での「非橋下化」ではなく、「橋下色のない組織化」という意味での「非橋下化」、もっと言えば「非橋下党」を目指すべきだと述べているのです。
石原慎太郎氏や民主党離党組の巻き込みについては、石原慎太郎というビッグネームを担ぎ出すことで橋下氏なりに自分の色を薄めて党勢拡大を図ったのでしょうが、私が述べている意味での「非橋下化」には該当しません。似た者どうしが結託したに過ぎないからです。問題の所在は、彼(ら)の政治手法なのです。
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もっとも、記事中でも書きましたが、橋下氏は、「参議院の連邦国家型二院制化」に関してギャーギャーとヒステリックに喚いた末に「地方側に拒否権を持たせようとが、そこまではできなかった」と告白している点、要するに、自分でも不足があると分かっていることを他人からズバリと指摘されて、いたくご立腹されているというのが実態です。
維新は、非橋下化だけではなく政策の洗練・政策立案能力の向上も必要でしょう。はっきり言ってしまえば、いま現在の維新には上久保教授が期待しているような遠大なビジョンを描くことは出来ないだろうと私は思っています。「大阪都構想」が精いっぱいの知恵で、それ以上のことは何も考えていない・考えることもできないのでしょう。
その原因は何と言っても「他人の話を聞かない」に尽きます。目の前の政治課題に忙殺されているにも関わらず、他人の話を聞かないから学者の鳥瞰的視点からの提言を取り入れることが出来ず、遠大なビジョンと目下の課題の整合性を取ることが出来ない。文革的手法は信者には大ウケでも良識ある有権者には受け入れられないので、公明党のように全国規模のネットワークを構築することができない(今回の統一地方選挙で公明党は「全国規模のネットワーク」を前面に押し出していました。維新には到底できない芸当です)。よって、全国規模の支持基盤を作れない。結果として、いつまでも・これからも地方政党のままでしょう。
>維新への支持表明に読めますか?
ええ、読めました。非橋下化云々が「そうすればのびるのに」というエールでなく「どうせできねえだろうけどね」つう皮肉ならば特に反対する理由もないので「同感です」とコメントしておきます。