2019年05月13日

Thesisとしての「道路交通法」、Nomosとしての「松本走り」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190513-00000056-dal-life
無理に右折「松本走り」止めてと市民に訴え 各地にはびこる危険運転
5/13(月) 12:41配信
デイリースポーツ

 今月8日、滋賀県大津市の交差点で車同士が衝突、巻き込まれた保育園児らが死傷した悲惨な事故で、改めて便利な車は時に凶器になることを思い知らされた。


(中略)

 そのうちの1つ「松本走り」の当地、長野県松本市では市民へ向けて広報誌で、「交通マナーを守り、思いやり、ゆずりあいの気持ちを持ちながら運転しましょう」と大々的に危険運転の根絶を啓発している。広報まつもとは、今年3月号で「危険 知ってますか?松本走り」というタイトルで2ページにわたり特集した。そのなかで “松本走り”とは「長野県松本市内で見られる、右折車優先の迷惑で危険な運転のことです。県外の方から『危険な運転』『マナーが悪い』と指摘されています」としている。

 その特徴に「対向車がいるのに、強引に右折」「左折車にかぶせるように右折」「青信号と同時に、内回りに右折」「前が詰まっていても交差点に進入」「ウインカーを出さずに道路変更」と挙げている。特集ページを企画した同市の交通安全・都市交通課の担当者に企画した理由や、その思いを聞いた。


(中略)

 −危険な運転が横行しているのは何か事情があるのでしょうか

 「松本市は城下町でして、中心街にも狭い道路があり、右折レーンのない道路も多くあります。平成30年警察のデータによると右折時の人身事故が78件ありました。この数字は“松本走り”だけではなく、あくまで右折時の事故件数ですが、多いと思っています」

(まいどなニュース・佐藤利幸)

最終更新:5/13(月) 16:22
デイリースポーツ
■なぜ「松本走り」なるローカル・ルールが生まれたのかを構造的に分析する必要性
「直進・左折が優先」というのは教習所で習う道路交通法の基本。「右折優先」のごとき「松本走り」(長野県松本市に限らないと思いますが・・・)は、法律に照らせばまったく「グレー」な余地のない違反ド真ん中と言わざるを得ません。

しかしながら、「松本走り」対策を講じるにあたっては、単なる啓蒙活動や取り締まりを展開するのでは不十分でしょう。現象には何らかの原因・経緯があるものです。こうしたローカル・ルールがどういった経緯で生じたのかということについて問わねばなりません

【追記】啓蒙活動や取り締まりが無意味であるとは言っておらず、これはこれで意味のある重要な取り組みです。これだけでは不十分だと言っているわけです。詳しくは、本年5月16日づけ「短期的対策と長期的対策との混同は議論を噛み合わなくさせる」をご覧ください。【追記おわり】

当ブログではチュチェ106(2017)年12月31日づけ「チュチェ106(2017)年を振り返る(2)――各種ルールと自主性・多様性の問題」において、「松本走り」と名指しこそしなかったものの、「右折優先」が非公式の習慣となった経緯について、オーストリア生まれの哲学者・経済学者であるF.A.ハイエクの理論的枠組みを参考にしつつ以下のとおり述べたところです。再掲します。
ハイエクは、ルールをnomos(ノモス)とthesis(テシス)に分類します。nomosは、社会の中で自生的に生成、発展してきたルール(自生的秩序)であり、thesisは権力的に制定された命令の形をとる組織規則としてのルールです。ルールは、自生的に生成、発展してきたものと、権力的に制定されたものに分けられるというわけです。

(中略)

いま「交通整理」という言葉を使いましたが、交通ルールにもこうしたnomos的な側面が大いにあると考えられます。道路交通法はthesisですが、交通ルールには法律としては制定されていない慣習的なルールが多数存在しています。たとえば、パッシングやハザードランプでメッセージを伝えることは、法定の正式なルールではありませんが定着しています。また、法律に従えば、規制速度は表示通りに遵守すべきものですが、実際の交通の流れ次第では逆に規制を越えた速度を出すことが求められる場面もあるものです。さらに、地域によっては、交差点では「右折優先」というコンセンサスが成立しているケースがあります。どうやら、法律通りに左折・直進車を優先させていると右折車はいつまでたっても右折できないので、自然発生的に「右折優先」になったようです(「なったようです」ってところが、いかにも自然発生的ですね)。

「規制速度超過」や「右折優先」などというのは、法律の規定に照らせば、「自己判断のルール破り」以外の何物でもありません。しかし、ルールをnomosとthesisに分類する観点から考察すれば、「規制速度超過」や「右折優先」というコンセンサスが自生的秩序として成立し、皆がそれに従っている点において、既にこれ自体がnomos的な意味でルール化されているのです。「自己判断のルール破り」どころか、「ルールに従っている」ということになるのです。


(中略)

具体的な紛争に成文法を当てはめるにあたっては解釈が必要になりますが、解釈には常識や慣習、伝統からの影響が入り込むものです。前述の交通ルールについて述べれば、「右折優先」は警察の取り締まり対象になっているそうですが、「規制速度超過」は、敢えて超過した方が交通ルールの目的;「円滑で安全な交通の実現」に沿うケースがあります。そうしたケースにおいては、thesisを操る権力側からも黙認・容認されるのです。権力的な取り締まりを受けず、有効な社会秩序として作用するのです。

(中略)

このことは、ルールを考える上で極めて重要なことです。@thesisの観点からはルール違反だが、nomosの観点からはルールには違反していない行為の存在。Aまったくの自己判断と、成文法的ルールとの間に自生的秩序があること。そしてまた、Bどこまでが「まったくの自己判断」になり、どこからがnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか――私はハイエクの法哲学を学んでいる真っ最中ですが、伝統や慣習などの役割にスポットを当てる彼の法思想は、本当に興味深いフロンティアであると日々実感しているところです。
道路交通法に照らせば「グレー」な余地のない違反ド真ん中たる「右折優先」を結果的に「弁護」している形になるのは、書いている自分でも不本意です。私も「右折優先」とばかりに交差点に突っ込んでくる馬鹿には日々イラッとしているところです。しかし、「上に政策あれば下に対策あり」という言葉があるように、自生的秩序・自然発生的ルール(nomos)の存在を無視して成文法(thesis)に基づく権力的取り締まりばかりに気を取られるようでは、「イタチゴッコ」になるのがオチでしょう。

なぜ、「右折優先」というnomosが自生的・自然発生的に生じたのか。その根本を解決しない限りは「右折優先」は根絶し得ないでしょう。

■道路整備の問題
記事中、「松本市は城下町でして、中心街にも狭い道路があり、右折レーンのない道路も多くあります。」と構造的問題について若干の言及があります。コメ欄には「松本は右折車線が少ないから松本走りをしないと渋滞ができるため、それが風土になったんだろう」とも指摘があります。「松本走り」についてよく指摘されていることです。

まずはこの点について構造の問題として改善に取り組むべきでしょう。私は基本的に「ルールを自己判断で破ることを認め始めると際限がなくなる」という点においてルール破りを安易に認めるべきではないという立場です。しかし、私もときどき見かけますが、いくら直進・左折優先が法律だからといって、直進・左折車が多すぎ、青信号・黄信号のうちでは辛くも1台が右折できるのみで、すでに赤信号なのに3〜4台がスピードを上げて右折する(交差する車・歩行者は当然待たされる)ような交差点において、「早い者勝ち」的に右折したくなる気持ちは分からないでもありません。法律の定めや信号機が現実の交通にあっていないような交差点もあるでしょう

■総括
繰り返しになりますが、「直進・左折優先」を定める道路交通法というthesisがあるにも関わらず、それとは異なる「右折優先」という「松本走り」と言う名のnomosが形成されているケースについては、なぜそのようなnomosが自生的・自然発生的に生じたのかについて構造的に分析した上で、thesis的に対策を講じるべきでしょう。構造的問題に斬り込まない限り、単なる啓蒙や権力的取り締まりでは根絶し得ないでしょう。

なお、thesisとnomosの差を埋めるような立法的措置を講じたのちでもなおルール違反行為に手を染める手合いについては、thesisにもnomosにも準じていない点において、「まったくの自分勝手な判断」というべきであり、これは厳しく取り締まるべきでしょう。構造的問題では説明しきれない利己主義分子は存在するものです。

■留意点
なお、勘違いしないでほしいのは、「自生的秩序・自然発生的なルール」と「まったくの自分勝手な判断」は、まったく異なるものだということです。

しばしば、「道路標識どおりに走行しようものなら、むしろ周りの車の迷惑になるから」という理由で、標識=法律を相対化し「法律やルールは絶対的でなく、場合によっては自己判断で破っても構わない」などと言ってのける手合いが出て来ます。「松本走り」常習犯も、捕まえてみれば同じように言い逃れするかもしれません。

しかしながら、ルールを、@国会の議決によって成立する成文法としてのthesisとA自生的秩序・自然発生的ルールとしてのnomosに分ける観点から言えば、こうした言説は概念を混同させ、思考が錯綜・混乱していると言わざるを得ません。

この手の手合いが持ち出す「周りの車の迷惑」は、言い換えれば「自生的秩序・自然発生的ルールとしてのnomos」に準拠しているものです。たしかに、たとえば周りの車が60〜70km/h程度走っているところで、律義に40km/hの表示規制速度を守っていたら迷惑だし、逆に危険でしょう。「自己判断」で法律を破って走った方がよいかもしれません。しかし、いくら「自己判断」でもここで120km/hを出すのは不適切です。なぜなら、「周りの車」が60〜70km/h程度走っているからです。

法律を「自己判断」で破るのが正当化されるのは、法律が「周りの趨勢」と合っていないとき、つまり、thesisがnomosに反しているときだけであり、「自己判断」が常に正当化されるわけではないのです。「まったくの自分勝手な判断」は正当化し得ないのです。

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ラベル:社会
posted by 管理者 at 21:32| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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