川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい神奈川県川崎市での通り魔的殺傷事件に関する藤田孝典氏の当該記事が炎上しています。当該記事については、当ブログでは5月28日づけ「日本における刑事政策議論の「難しさ」と、その「語り方」(案)」で刑事政策の観点から概ね同意見の立場ながらも、あいかわらず事実からではなく想像から出発しており、慎重さに欠ける論理展開であると述べました。いったんは論じ尽くしたつもりだったのですが、一晩明けてみるとどうにも論じ尽くした感がしない・・・
藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授
5/28(火) 13:10
(以下略)
悶々としているところ、リベラル界の重鎮:江川紹子氏や、尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が参戦してきました。江川氏や尾木氏の言説も含めて更に理由を突き詰めてみたところ、「結局のところ、こんなのはキレイゴトに過ぎないから」という身も蓋もない結論に至りましたので、以下で更に論じたいと思います。
藤田稿において問題となるくだりは、以下になりましょう。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。前回記事でも述べたとおり、本事件を教訓として分析した上で潜在的な逸脱分子を社会の側に引き留める刑事政策・社会政策に繋げる上ではこの心構えは大切でしょう。しかし極めて残念ながら、「社会はあなたを大事になどしていないし、何かするつもりもない」「社会はあなたの命などどうでもいいと思っている」「死んでほしい人は結構いる」というのは、事実から出発すればこそ指摘しなければなりません。事実として、現代日本社会は、朝鮮民主主義人民共和国の歌謡≪세상에 부럼없어라≫(この世に羨むものはない)に歌われるような≪우리는 모두다 친형제≫(我らは皆、親兄弟)の社会ではないです。
「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。
やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。
その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。
そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
我々の社会はそれだけ同胞愛・人類愛が廃れている社会なのです。この社会において「社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき」などと述べるのは、高潔であり人類の夢ではあるものの、現時点では実に空虚であり、白々しく、お育ちの良い御仁のキレイゴトの域を脱していないと言わざるを得ません。かつて藤田氏が労働問題について論じていたとき私は、「ブラック経営者・資本家が「奴隷の陳情」に応じるなどと思い込んでいる甘っちょろい「ブルジョア博愛主義者」」だと述べましたが、今回もまたそうした彼の思考回路がよく現れているようです。
社会福祉や労働問題について積極的に発信されている藤田氏には、僭越ながら、F.エンゲルスの『フォイエルバッハ論』に立ち返ってみることをお勧め申し上げたいと思います。次に挙げるエンゲルスの指摘は、今日のブルジョア「自由」主義社会の本質を見抜いたものです。藤田氏の言説がまさしくブルジョア「自由」主義の提灯持ちたるリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の域に留まる「キレイゴト」に過ぎないことを明白にすることでしょう。リベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の「優しさ」など何の役にも立たぬ空想的社会変革論です。
今日、われわれにとって、他の人びととの交際で、純粋に人間的な感情をあじわう可能性は、すっかりいためつけられている。それは、われわれが行動しなければならないこの社会は、階級対立と階級支配に基礎をおく社会だからである。(エンゲルス著・森宏一訳『フォイエルバッハ論』新日本出版、1998年、p55)
「階級対立と階級支配に基礎をおく社会だから」という論拠は、事実を単純化しすぎているようにも思いますが、同胞愛・人類愛がが廃れている現実とその原因を踏まえた上で次の一手を考えるほかないでしょう。繰り返しになりますが藤田氏の主張は、現時点では社会的土台に欠けた非現実的な理想であると言わざるを得ないのです。
藤田氏のような立場であればこそ、エンゲルスの指摘に立ち返り、それを指針とすることで、朝鮮民主主義人民共和国の歌謡≪세상에 부럼없어라≫(この世に羨むものはない)に歌われるような≪우리는 모두다 친형제≫(我らは皆、親兄弟)の社会:同胞愛・人類愛が社会にあふれる理想的社会を目指すべきです。
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