厚労相、無給医「早急に改善を」 労基法違反を指摘■19世紀的主張を21世紀になっても恥ずかしげもなく公言する医療界――医師の常識を疑う
7/2(火) 13:41配信
共同通信
労働として診療をしているのに給与が支払われない「無給医」が50の大学病院に計2191人いた問題で、根本匠厚生労働相は2日の閣議後の記者会見で「給与が支払われない医師がいたのは誠に遺憾。賃金不払いは労働基準法違反であり、速やかに改善が図られる必要がある」と述べた。労基法違反が確認されれば、対応していく考えも示した。
大学病院には、教育を受ける大学院生のほか、自己研さんや研究目的の医師が在籍し、その一環で診療に携わる場合には給与を支払わない慣習が存在している。(以下略)
労働法の観点からいえば至極当然の結論であり、まったく驚くに値しないことです。しかし、こんな当たり前のことをわざわざ厚生労働大臣が公言するということはすなわち、医療界には労働法の常識とは懸け離れた力学が働いているということを証明するものです。
いま医療業界誌で「医師の働き方改革」がテーマにならないことはありませんが、どの雑誌・記事でも必ずと言ってよいほど「医師の業務には自己研鑽の部分があり、その部分は労働時間には当たらない」や「労働基準監督署には病院に対して謙抑的な対応を求める」といった論調が出てきます。本件は大学病院における事象ですが、それ以外の病院――公立・私立を問わず――についても、有力団体の幹部(すなわち、有力病院の理事長・院長等)が、大真面目に主張しています。医師の偏在という問題が医師の長時間労働の重大な要素であるという事情を最大限に酌んでも、「謙抑的な対応を求める」とは、特別司法警察職員たる労働基準監督官に取り締まられる犯罪者の側がいったい何様のつもりなのかと驚かざるを得ません。
この手の言い分は、他人を自己の指揮命令下に置いて労働者として使役する事業では通用しません。この手の主張は、いまのような労働法制がまったく未整備で「工場法」さえ整備途上だった19世紀から使い古されてきた雇い主側の言い逃れの最たるもの。時代錯誤も甚だしい。現代労働法制は、こういった言い逃れ的主張に対してとっくに回答を出しています。
そもそも、どんな労働であってもその成果は労働者の熟練に左右されるものです。労働者は勤務を通して習熟・熟練します。労働時間から労働者の習熟・研鑽時間を分離させることは極めて困難です。労働者(勤務医)を使役しておきながら、まして顧客(患者)から対価を取っておきながら「これは本人の自己研鑽だから労働ではない」とする主張は世の中では通用しません。さすがに最近の一般企業は、表立ってはこんな理屈は口にしていません。一般企業は理解しているのです。
IT業界のようにエンジニア個人の熟練に依るところが大きい業界であっても、たとえ人件費節約が至上命題であっても「プログラミングは本人の自己研鑽だから残業ではない」などという主張は公言はされません。ちゃんと「合法」的に裁量労働制を導入して「解決」している(そして優秀なエンジニアに逃げられるわけです)か、個人事業主との契約という形をとって労働者性を持たないようにしています(そして実態面で労働者性を認定されて裁判に負けるわけです)。陰ではやっているかもしれませんが、医療界のようにお偉いさんが世間様に向かって大々的に宣言することはありません。
「自己研鑽」などと19世紀のような主張を21世紀になっても恥ずかしげもなく公言するのが医療界の現状なのです。医療界の時代錯誤は医師の常識を疑うレベルです。
医師の常識は世間の非常識なのでしょうか。個人事業の感覚のままで雇用を語っているのでしょうか、それとも単なる無知なのでしょうか――若いころから「先生先生」と持ち上げられてきたので、たとえ専門外でも他人に頭を下げて教えを乞うことができないのでしょうか。病院内での絶対権力者に対して敢えて意見を申し上げるような取り巻き衆がいなかったのでしょうか。あるいは、有力団体の幹部、すなわち有力病院の理事長先生・院長先生は経営者ですから、厳しさを増す病院経営のために時代錯誤は百も承知で労働基準監督署に泣きを入れているのでしょうか。馬鹿な勤務医を騙せればラッキーとでも考えているのでしょうか。
■こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か――チュチェの現代資本主義論・階級分析から
病院経営も経営ですから、経営者が労働者をこき使うのは「よくあること」と言えます。ここで注目しなければならないのは、有力団体・有力病院幹部の「勘違い」や時代錯誤な「無知」ではなく、病院経営者の「経営判断」でもありません。こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されて、黙々と無給に耐えている事実です。
使命感・責任感と「無給労働に沈黙すること」は別問題です。「働いたんだから給料払え」と要求を展開するくらいであればバチは当たりません。医師に限らず、給料が遅配になったからといって翌日からすぐにストライキに入る人は少ないでしょう。お客様に迷惑を掛けてはならない等の理由で、支払いを求めながらも取りあえず働き続けるのが普通です。しかし、そのような支払い要求さえも展開されていないのが現状です。雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのです。己の自主性・自主的要求を麻痺させられているのです。
なぜ、雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのでしょうか。キム・ジョンイル総書記の労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)で展開されているチュチェの現代資本主義論・階級分析は、それを解明するカギとなります。そして、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を教えています。
総書記は同労作中で、先進資本主義社会では科学技術の発展に伴いインテリ・知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占めるようになり、労働者階級がブルジョア思想の影響を強く受けるようになったと指摘されました。それゆえ、従来どおりの方法では労働者階級を革命陣営側に取り込むことは困難になりつつあると指摘されています。
第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。この見解を現代日本の医療界に当てはめてみましょう。医師は知識労働の最たるものです。医師は、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多いものです。それゆえ、病院等に雇われて組織的に働く看護師などと比べると、ひとり親方・個人事業主的傾向が強いといえます。総書記が指摘されるように、ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されている恐れが大きいと考えられるのです。
社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。
もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
雇われの身でありながらも個人事業主のような働き方をしている勤務医がプチブル思想に毒されて自己の労働者性を忘却している場合、個人事業主の感覚のまま病院経営者になってしまった大ブルジョアの誤った労務感覚に共感し、健全な自主性・自主的要求が麻痺してしまう恐れがあるわけです。勤務医が「自己研鑽」などというインチキにコロッと騙されている背景には、知識労働者のプチブル化が考えられるのです。
■知識労働者のプチブル思想をどう克服するか――開業すればよしというわけには行かなくなってくる時代で
もちろん、知識労働者は、いかにプチブル思想に汚染されたとしても依然として労働者であることには変わりありません。総書記は次のように指摘されています。
だからといって社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件とみなすことはできません。技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、彼らはいずれも生産手段の所有者ではありません。技術労働や精神労働をする勤労者と肉体労働をする労働者とでは技術・文化水準や労働条件においてある程度の差がありますが、彼らはいずれも資本家に雇われ、賃金をもらって生きているという点で本質的な共通性をもっています。勤務医は、たとえ個人事業主のような働き方をしていたとしても労働者であることには変わりありません。勤務医が有力団体・有力病院幹部のインチキ理論の束縛から脱し、抑圧された働き方ではなく自主的な働き方を達成するためには、まずそのプチブル思想から脱する必要があるといえます。
もっとも、「自分はいいように利用されてきた」という事実に気が付きプライドを傷つけられた勤務医たちは、ほとんどの場合において、プチブル思想から脱するのではなく開業して本当に個人事業主になることを選択しているのが現状です。過酷な労働環境に対して我が身だけを守って一抜けすることが多く見受けられるところです。
「どうせ診察場面では勤務医も開業医もそれほど大差ないのだから、勤務先の労働環境を改善するよりも自分で理想の診療所を作った方が手っ取り早い」とか「勤務先の労働環境を改善する前に死んでしまう」といった事情を考えれば、このことは一概に悪いとはいえないところです。以前から繰り返してきたとおり、「雇い主相手に闘うよりも、さっさと辞めた方がよいケースもある」というのは、私の労働問題に関する基本的認識です。辞職者が連続すれば雇い主側にも労働環境改善のインセンティブが生じるものです。
しかし、医療サービスは今後、組織化が必要になってくるものと考えられます。いままでのようにプチブル思想そのままに開業すればよしというわけには行かなくなってくることでしょう。
一般論として、個人、すなわち脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的ですが、複数人が組織化したときに出来得る仕事の範囲は飛躍的に広がります。産業がますます高度化する昨今では、仕事の組織化は不可避ですが、仕事の組織化に伴い労働者は組織化されてゆき、それにより労働者は組織生活を体質化してプチブル的・個人事業主的発想から卒業してゆくものと考えられます。
このことは、決して医療も例外ではないでしょう。昨今は医療界では、診療技術の高度化・専門化に伴い「チーム医療」という言葉が盛んに口にされています。疾病構造が複雑化し診療科間・病院間の患者紹介がますます広がっている現状では医療サービスの組織化・システム化は不可避でしょう。このことはすなわち、医療従事者もまた組織的・システム的に行動することが不可避になりつつあることを意味します。チーム医療の時代においては、組織生活を体質化できている人だけが職業人として生き残れることでしょう。「チーム医療」がスローガンとして連呼されているということは、現実の医療はまだチームとして動いていないことを示しますが、チーム医療の時代は、すぐそこまでやってきています。
もちろん、必ずしも皆が皆、心を入れ替えて博愛主義者に転向するとは私も考えてはいません。むしろ私は「人間の改心」なるものを基本的に信じない立場です。大の大人が心を入れ替えるはずもなく、利己主義者は死ぬまで利己主義者だと思っています。しかし、仕事を進める上で組織行動が不可欠になる時代においては、利己主義者であればこそ、あくまでも上っ面に過ぎなくても、戦略的に団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。
また、単に過去の症例を基に病名をつけて処置・処方するだけの診療行為であれば、今後はビッグデータとAIの活用で代用されるでしょう。患者の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味のある医療従事者だけが職業人として生き残ることができるでしょう。AIなど所詮は機械。生身の人間が心から寄り添ってくれるからこそ、類的存在としての人間は満たされるのです。そうした時代に職業人として生き残った人間味あふれる医療従事者は、患者のみならず同僚たちに対しても同情心を持つ人物であることでしょう。決して、過酷な労働環境に対して我が身だけを守って一抜けするような人物ではないでしょう。
上記で述べたことは相当に理想論的であり、プチブル思想にかなり毒されている医師・医療界では長期的な課題として見積もっておく必要がありそうです。しかし、産業の高度化は仕事の組織化・労働者の組織化を進めます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。このことは医療界も例外ではありません。博愛主義的利他心か利己主義的戦略かさておき、労働者は組織生活を体質化せざるを得なくなります。また、医療界に特化していえば、他人の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味のある医療従事者以外は職業人として淘汰されてゆく運命にあることでしょう。
これからの時代の医療従事者は、他人の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味を持っているがゆえに、プチブル的振る舞いを見せることなく組織的団結を選択し、個人的な自主性の追求に留まらず集団的に自主性の追求を目指す人たちが増えてゆくものと考えられるのです。あるいは、自分ひとりで開業したところで高度化・専門化した医療に対応しきれず詰んでしまうので、必ずしも博愛精神ではないかも知れないが、利己的動機が大いに秘められているかも知れないが、表向きは団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられるのです。
いずれにせよ、プチブル分子にとって「生きづらい」世の中になっていくものと考えられるのです。
■知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望――チュチェ思想による革命論
ここでキム・ジョンイル総書記の上掲労作に再度立ち返りましょう。総書記は、知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占める先進資本主義社会における革命論を次のように提起されています。この提起は、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を与えるものと言えるでしょう。
今日の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはできません。社会主義社会の労働者階級が無産階級でないのはいうまでもないことであり、発達した資本主義諸国の労働者階級も、マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであると言った、かつての無産者とは異なります。革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということだけにかかっているのではありません。つまり、先進資本主義社会における社会主義革命は、食うや食わずの困窮者たちによる古典的マルクス主義が描くそれではなく、ある程度の物質生活を送りつつも資本家の支配に抑圧されている知識労働者たちが、自己の運命の主人として国家と社会の主人として生きようとするため自主性回復のための闘いだというのです。新しいチュチェ思想による革命論であります。
人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由のみで革命に参加するものとみなしてはなりません。自己の運命の主人として、国家と社会の主人として生きようとするのは、自主的人間の根本的要求です。金日成同志が教えているように、自主性が踏みにじられるところには抵抗があり、抵抗があるところには革命闘争がおこるものです。
解放前、日本帝国主義の支配のもとで、我が国の知識人も、一般労働者に比べては高い待遇をうけ、比較的裕福な暮らしをしました。しかし彼らは、植民地の知識人として民族的差別をうけたので、反帝的な革命性をもっていました。
今日、発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる労働者の生活水準が高くなったとはいえ、彼らは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにあるため、資本主義制度に対して反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求しています。自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します。
前述のとおり、どんな労働であってもその成果は労働者の熟練に左右されるものです。労働者は勤務を通して習熟・熟練します。労働時間から労働者の習熟・研鑽時間を分離させることは極めて困難です。労働者を使役しておきながら、まして顧客から対価を取っておきながら「これは本人の自己研鑽だから労働ではない」とする主張が世の中では通用しません。
勤務医が勤務先の指揮命令下で医療行為を行っているにも関わらず、その対価が支払われないのは決して正当化し得ません。正当な対価を支払わない「ただ働き」は、抑圧に他なりません。その上、勤務医は往々にして過酷な長時間労働までも強いられています。使命感・責任感などは、そういう状況に追い込まれて強制的に引き出されたものです。この「美談」の影に、ほくそ笑む病院経営者たちがいます。こうした手合いが「自己研鑽」などとインチキを恥ずかしげもなく公言しているのです。勤務医の使命感・責任感は、いいように利用されているわけです。
このことは、勤務医の自主性を踏みにじることであり、また、医道への冒涜に他ならないでしょう。組織生活を体質化できている人だけが職業人として生き残っているこれからのチーム医療の時代において、この事実を広めて勤務医の自主的要求の覚醒に訴えるとき、肉体労働者ではなく知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動が始まることでしょう。
ラベル:チュチェ思想 自主権の問題としての労働問題