小泉環境相がステーキを食べたことの何が問題か■エコロジー運動の科学的不十分性(1)――限界原理に基づく合理的意思決定になっていない
橋本淳司 | 水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表
9/24(火) 14:33
牛肉生産は温室効果ガスを排出する
小泉進次郎環境相が国連気候行動サミットに出席したが、米国ニューヨークでステーキ店に入店したことが話題になっている。気候変動対策を議論する会議に出席する環境大臣が「ステーキを食べる」ことが非難を浴びたが、その理由は主に3つある。
1つ目は、牛の温室効果ガス排出量だ。
(中略)
その量は1頭につき1日160〜320リットル。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」によると、メタンは世界の温室効果ガス排出量の16パーセントを占めている。
牛肉生産は穀物を大量に消費する
気候変動は食料生産にも影響を与える。
(中略)
たとえば、鶏卵1キロを生産する場合に必要なトウモロコシは3キロ、豚肉1キロで7キロ、牛肉1キロでは11キロだ。牛肉は飼育期間が長いので飼料の量も多くなる。
牛肉生産は水を大量に消費する
肉を育てるには水が必要だ。なぜなら水をつかって育てた飼料(植物)をエサにしているからだ。
家畜が育つまでにつかった水をすべて計算すると、鶏肉1キログラムには450リットル、豚肉1キログラムには5900リットル、牛肉1キログラムには2万600リットルの水が必要だ。こうした水使用が生産地の水環境を悪化させる。
(中略)
牛肉の大量生産が地球温暖化や環境破壊を引き起こしていることから、欧米では「ミートレス」の動きが活発になっているが、安価な海外産牛肉が大量に出回る日本では、こうした事情に気付きにくい。
だが、ここで述べたように、牛肉の大量生産が、気候変動を促進し、食料危機をもたらし、水不足を引き起こすというのも事実だ。いつまでも「(おいしいから)知らずに買ってました」、「(おいしいから)知らずに食べていました」でいいのか。無知こそ罪深いものはない。小泉環境相だけでなく私たちも、何を食べるか、何を選ぶかを考えなくてはならない。
昨今、よくありがちな環境主義者の定型句的言説。特に目新しさもない主張です。「欧米では「ミートレス」の動きが活発になっている」というものの、大衆レベルで牛肉食が控えられているという話、ステーキ店に入ったくらいで物議を醸す騒ぎなるという話とは聞いたことがないので、こんなものはポリコレの亜種に過ぎないのでしょう。「エココレ」と言うべきでしょうか?
エコロジー運動にしては珍しく経済学的意味における「限界原理」を意識した内容になっている本稿。経済活動における環境保全を議題とするならば、やはり「公用語」としての「科学としての経済学の用語法」に「翻訳」して論ずる必要があります。その点、エコロジー運動は往々にして「総量」で測りがちで、一見して「数量化」という点において科学的エビデンスに基づいているように装うものの、しかし、合理的意思決定においては総量原理ではなく限界原理に基づいて判断すべきなので、この手の言説の多くは科学的には取るに足らないレベルにとどまっているものです。
これに対して限界原理を意識している本稿は、比較的科学的だと言えますが、やはり依然として不十分というべきです。すなわち、牛肉1キログラムを生産するための水消費量・穀物消費量及び温室効果ガス発生量を定量的に示している点、これは限界費用(marginal cost)を示していると言えますが、しかし、牛肉1キログラムを生産することによる限界収益及び波及効果についてはまったく言及されていません。結局、「牛肉1キログラムを生産することでこんなに環境負荷を与えている! だから、牛肉生産・牛肉消費は控えるべきだ!」の域を脱しておらず、その主張には多面性及び深みが足りていません。
直接的には害を発生させたとしても、それを実行することによって更に大きな利益が発生し、かつその利益を基に十分な手当てを講ずることができるのであれば、トータルで見れば実施すべきです。限界原理に基づく合理的意思決定は、限界生産(追加的生産)によって得られる限界利益(追加的利益)と、それによる限界費用(追加的費用)を比較します。また、生産による波及効果についても考慮が必要です。限界利益>限界費用の不等式が成り立つならば、生産を続行すべしとします。
波及効果について考えるためには、経済活動の「共通言語」である金銭に換算することが必要です。つまり、生産によって得られる利益と費用を貨幣に換算して示す必要があるのです。
利益は売価で示せばよいでしょう。これはそれほど難しい相談ではありません。では、費用はどうするべきでしょうか。水消費量・穀物消費量及び温室効果ガス発生量はどう貨幣換算すべきでしょうか。
この問題に解答を与えたものこそが「環境会計」のマテリアルフローコスト会計(Material Flow Cost Accounting)であります。Wikipediaでも解説されていますが、マテリアルフローコスト会計は、環境問題への取り組みが盛んなドイツで開発された、生産工程で生じるロスに着目した環境会計の手法です。製造プロセスにおける資源やエネルギーのロスに着目して、原価計算システムにマテリアルの重量情報や温室効果ガス等の排出情報を統合することで、そのロスに投入した材料費、加工費、設備償却費などを「負の製品のコスト」として、総合的にコスト評価を行ない、これによって、これまで見過ごしていた廃棄物の経済的価値および環境負荷の大きさを可視化できるというわけです。
巷のエコロジー運動には、マテリアルフローコスト会計のような科学的定量化を欠いているケースが多々あります。「見せかけの数量化」と言わざるを得ません。「牛肉1キログラムを生産するために必要なトウモロコシは11キログラム、水は2万600リットル」というものの、比較対象・基準及び閾値等を明示しないようでは科学の体裁を満たしていないと言わざるを得ないのです。
最近のエコロジー運動を科学としての経済学の観点から見ていると、結局、啓蒙主義運動の域を脱しておらず、科学的なレベルに達していないケースが少なくないと言わざるを得ません。科学の出発的である「数量化」さえも満足に行われていないのが現状なのです。
■エコロジー運動の科学的不十分性(2)――単なる啓蒙・個人レベルでの行動改善といった観念論
本稿の問題点は、数量化が不十分であることによる科学性の不足だけではありません。「小泉環境相だけでなく私たちも、何を食べるか、何を選ぶかを考えなくてはならない」という締めくくりの言葉が示しているように、結局、単なる啓蒙であり、個人レベルでの行動改善に幻想を抱いている点にあります。端的に言えば「観念論」に留まるのです。
たしかに牛肉生産は環境負荷が比較的大きいと言えるでしょう。しかし、それで生計を立てている人が全世界で相当数います。その点を考慮に入れれば、「小泉環境相だけでなく私たちも、何を食べるか、何を選ぶかを考えなくてはならない」という提起に応えて「考えた」結果、「じゃあ牛肉生産・消費をやめよう」などと安直に言えるものではありません。
「エココレ」の様相を呈しつつある最近のエコロジー運動がほぼ完全に忘却ないし無視している事実は、地球温暖化対策に消極的なトランプ米大統領がラストベルトの労働者の強い支持を背景に当選した事実を筆頭とする「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々の存在」であると言えます。
多角化した現代大企業であれば、「社会的責任」だの「持続可能性」だのといったお題目で沈黙させることができるでしょう。そもそも、経済活動・生産活動は「生身の人間」の「生存のため」のものであり、優先すべきは「生身の人間」です。企業活動を優先させることは本末転倒であります。
しかし、「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々」が環境負荷のある産業で生産活動することは、彼らにとって「生存のため」以外の何者でもなく、「社会的責任」だの「持続可能性」だのといったお題目で沈黙させることはできないでしょう。「地球環境の未来」のために「自分自身の今日の、唯一の飯のタネ」を放棄するよう要求することもまた、本末転倒と言うべきです。悪魔的に酷です。その決断を自ら下せる人は、ほとんどいないでしょう。
マルクス主義が影響力を持っていた時代であれば、こんな「観念論」と言う他ない粗雑な言説がここまで大手を振ることはなかったことでしょう。マルクス主義は、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、啓蒙などでは社会は変革され得ず、社会経済制度を根本から変革しない限りは問題は解決し得ないと主張しました。本件に引き付ければ、「環境負荷のある産業」を廃止するためには、その社会的・経済的・制度的条件を整備することが必要であり、それはすなわち、「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々」を別産業に配置しなおすことを要求します。
こうした社会経済制度の問題、とりわけ、「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々」に触れず、お手軽にも「小泉環境相だけでなく私たちも、何を食べるか、何を選ぶかを考えなくてはならない」で止める本稿、及び類似の言説が氾濫している最近のエコロジー運動は、結局は単なる啓蒙であり、個人レベルでの行動改善に幻想を抱いている点において、「観念論」に留まると言わざるを得ないでしょう。
■総括
たしかに気候変動は危機水準であり、環境問題は喫緊の対策が必要だと言えます。だからこそ、限界原理に基づく科学的思考及び、単なる啓蒙・個人レベルでの行動改善といった観念論的発想ではなく社会経済制度的な問題として位置付ける科学的発想が必要だと考えます。
ラベル:社会 世界観・社会歴史観関連