自家製ロケットで不時着して救急車……2019年に「地球平面説」支持者が増えている理由■前近代的な世界観を本気で信じている人が存在している根本を問うべき
9/28(土) 17:00配信
文春オンライン
「地球」のかたちは「球」ではない……「平面」なのだ! 今、地球平面説を信奉する人々が爆増している。アメリカでは、18〜24歳の18%が「地球を球体だと常に思ってきたわけではない」とする調査も出るほどだ。有名バスケット・ボール選手が地球平面説支持を表明したこともあり、授業で球体説を教えて反発を受ける科学教師の悩みも報告されている。
地球平面説を信じる者の言い分とは
Netflixで配信されている『ビハインド・ザ・カーブ ─地球平面説─』は、地球を平面だと信じるフラット・アーサー(Flat Earther)を追うドキュメンタリー映画だ。ここで紹介されるメジャーな地球平面説は「ドーム説」。パンケーキのような平らな地球がドームに覆われている状態を想像してほしい。陸地の終点の南極は高い氷壁に囲まれているそうなので、スノードームのようだとも言える。「ドーム説」を信じるフラット・アーサーたちは学校で教えられる「球体説」および「地動説」をNASAや政府が流した嘘と断じる。
ここで一度、学校で教わることを復習しよう:地球は球体であり、おおよそ時速1,700キロメートルで1日1回転している。フラット・アーサーたちはこれに疑問を呈してゆく。単純に、自分の視界では世界は平らに見える。我々が立つ土地が銃弾よりも速く回っているなんて信じられるだろうか? 海辺や湖では、遠くの景色が見えることがある。本当に我々の惑星がカーブしているなら、見えないはずではないのか?
まぁ、これらの理由も学校で教わるはずだが、平面説の支持者は間違いを指摘してくる専門家を嘲笑する。「数字を出してくる科学者の負け。地球が平らなことは見ればわかる」と。
(中略)
一方、『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』では、高学歴の人ほど自身の考えを補強する情報ばかり集めて極端な思考になっていく「賢い愚か者効果」が解説されている。同書によると、地球平面説の支持者は「自分は一般の人よりも論理的である」と考える傾向が強かったという。
(中略)
反科学の人々が求めるのは「信頼」と「共感」か
「反科学」デマを追う『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』の著者・三井誠氏は、「科学コミュニケーション」の重要性を説く。かつて紀元前に地球球体説を説いたアリストテレスは、演説に大切な三要素として「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(共感)」を挙げた。人々を説得する際、エビデンスや事実だけでは十分ではない。三井氏は、近代科学を広める人々が「論理」に頼りすぎて「信頼」と「共感」のコミュニケーションに失敗した可能性を指摘している。結局のところ、「反科学」旋風の対策は、専門家がインターネット等で知識を魅力的に伝えることなのかもしれない。
「地球平面説」信奉者を扱き下ろすのは、至極簡単なことです。しかし、21世紀が始まってもうすぐ20年経とうとしているのに、こういった前近代的な世界観を本気で信じている人が無視できない数、存在している根本を問うべきでしょう。その点、上掲記事は2つの重要な指摘をしています。
■選民意識を持った賢い愚か者――理性主義の副作用
一つ目は、「高学歴の人ほど自身の考えを補強する情報ばかり集めて極端な思考になっていく「賢い愚か者効果」」です。
「地球平面説の支持者は「自分は一般の人よりも論理的である」と考える傾向が強かった」とのこと。本当の高学歴(とくにアメリカの高学歴)が地球平面説を信奉するはずがないので、これは「中途半端な高学歴」あるいは「自称・高学歴」というべきでしょうが、要するにこの手の人は、自身の考えを補強する情報ばかり集めて極端な思考になっていく上に、自分は特別だと思い込むというタチの悪さも相まって、地球平面説なる前近代的世界観を信じて疑わなくなるというわけです。「賢い愚か者効果」を踏まえて「選民意識を持った賢い愚か者」というべきでしょうか。
「選民意識を持った賢い愚か者」については私も以前から注目し、機会を得るたびに具体的事例をとおして取り上げてき、その正体を「近代理性主義の副作用」と捉えてきました。
たとえば、自称「自分の頭で考える人たち」や「自己の理性を信頼し合理性を追求する人たち」(自称・理性主義者)が各種の社会的規則や規制に対して、その歴史的経緯や実績等を踏まえず、「自分は、この規制には合理的理由付けが存在しないように思う」というだけの理由で廃止しようとする姿を取り上げて、「それは、あなたが実はバカだから理解できないだけなのでは?」と述べてきたところです。
この世界には、その仕組み・カラクリが完全には人々に理解・浸透していなくとも、一定の関係性が確認されていることが数多あります。かつて、F.A.ハイエクは、近代合理主義の極致としての「設計主義」、すなわち、人間理性は客観世界の法則を完全に理解・掌握でき、それゆえに客観世界を合理的に操作できるとする言説を「致命的な思いあがり」と非難しましたが、これは「賢い愚か者」及び「選民意識を持った賢い愚か者」を指していると言えるでしょう。
オブラートに包んで言えば「等身大の感覚」、率直に言えば「素人考え」という他ない、「地球が平らなことは見ればわかる」程度の理由付けで検討を終了させて結論を出してしまい、「地球は平面なのは論理的に自明だ、そして自分は一般の人よりも論理的だ」と天狗になっている「選民意識を持った賢い愚か者」。地球平面説は、あまりにもハチャメチャ過ぎるものの、自分なりに考えて結論を出すという点においてその思考回路自体は、それほど「希少」とは言えなさそうです。むしろ、「自分の頭で考える」ことや「理性重視・合理性重視」の近代的価値観においては、推奨される思考回路です。その点、地球平面説は決して笑ってばかりいられる事態ではないというべきでしょう。
もちろん、いまさら「神秘主義に帰れ」と言うつもりはありません。近代合理主義は、自然現象を取り巻く神秘のベールを剥ぎましたが、これは間違いなく偉大な功績です。しかし、この世界には「等身大の感覚」では理解しきれない仕組み・カラクリが存在します。それゆえに、「等身大の感覚」から導出できる程度のことでは検討を終了させて結論付けてはならないのです。まして、天狗になっている場合ではないのです。
たとえば、以前から述べてきたように、長期的予測が原理的に不可能であることを解明した、物理学におけるカオスの存在などは、それを知っているだけで世界観が大きく変わってきます。カオス理論が示す事実は、決して神秘主義でも不可知論でもなく、ある意味、唯物主義的な近代科学を突き詰めた結果として判明であります。物質によって成り立つ客観世界は、人間の主観とは独立的であり、人智を超える複雑な仕組み・カラクリが存在しているのです。
自分の頭で理解できることだけを信じるのは良いでしょう。理解していないことを信じるというのは、妄信というべき宗教的姿勢であり根拠を重視する科学的姿勢ではありません。しかし、「いまの自分の頭では理解できないこと、未解明なこともあり得る」「未解明なことについては、コメントしない。断定的な結論付けをしない」という姿勢が大切なのです。自分の頭では理解できないだけなのに、断定的な結論付けを展開したり、ましてやそれをバカにするような姿勢は取るべきではありません。
■エトスとパトスの欠落――科学者への不信および科学者の対人活動の不足
二つ目は、「人々を説得する際、エビデンスや事実だけでは十分ではない(中略)近代科学を広める人々が「論理」に頼りすぎて「信頼」と「共感」のコミュニケーションに失敗した可能性を指摘している」という記事本文中のくだりが的確に示しています。
科学者は論理を重視します。もちろん、根拠に基づいた科学的主張の重要な要素に「論理性」があるということに私は異存はありません。しかし、科学は常に社会の中に埋め込まれており、そして社会の他の分野からの影響をうけます。とりわけ、社会の重要要素としての政治や政略からの影響を受けます。
政治や政略は、しばしば科学的主張をツマミ食い・継ぎ接ぎして道具として利用しようとします。人々が科学を正しいものとして「信じている」以上は、科学を利用することは、政治・政略の実践上プラスになるからです。ここに、科学が「信頼されない」素地ができます。
記事中では、地球球体説及び地動説はNASAや政府が流した嘘だと受け止められていると書かれています。「科学への不信感」というよりも「科学者への不信感」が、荒唐無稽な主張に「説得力」を与えているのではないでしょうか?
そうであれば、科学的主張を浸透させるためには、まず「科学『者』が信頼されていない」というところから出発すべきでしょう。数字や理屈を展開して啓蒙するだけではなく、なぜ地球平面説信奉者がかかる言説を信じ込んでいるのかということを、単に彼らの知識不足・勉強不足等に帰結させるべきではありません。
一般的レベルの科学的思考ができる人が麻原何某の空中浮遊や大川何某の霊言を全く信じないのと同様、地球平面論者にとっての科学者は、麻原何某や大川何某と同じなのです。この事実から出発して初めて対策を考えることができるでしょう。
科学者は、理論構築の自己満足に浸るだけでは不十分で、それを広く人々に浸透・納得させて初めて科学者たり得るというべきでしょう。理論構築には論理的厳密さは最重要というべきです。また、広く人々に浸透・納得させるにあたっても論理的厳密さは重要です。しかし、自分以外の他人との交流・意見交換を伴う点において、この過程は「対人活動」であるとも言えるのです。現状が示すことは、対人活動が足りなかったということではないでしょうか?
近代初期であれば、科学は純粋に真理を探究するものであり、科学者は論理的厳密さを追求すればよいだけだったかもしれません。しかし、時代が下るにつれて科学が「邪な思惑と汚い手」によって利用されるようになってきました。にもかかわらず、科学者は依然として「純粋」過ぎるのではないしょうか?
■総括
21世紀が始まってもうすぐ20年経とうとしているのに、いまだ前近代的世界観が残っている事実は、一方において、これは理性主義の副作用であることを示しており、他方において、科学者への不信および科学者の対人活動の不足であると言えるでしょう。
この世界には「等身大の感覚」では理解しきれない仕組み・カラクリが存在します。それゆえに、「等身大の感覚」から導出できる程度のことで検討を終了させて結論付けてはなりません。人間理性は客観世界の法則を完全に理解・掌握できるなどと考えず、自分の頭で理解できることだけを信じるのは良いが、自分の頭では理解できないだけなのに、それをバカにするような姿勢は取るべきではありません。
また、いま「地球平面説」支持者が増えている事実は、科学者が、21世紀に相応しい在り方・身のこなし方を構築すべきだということを示しているとも考えます。17世紀が「科学革命」の時代なら、21世紀は「科学者革命」の時代というべきでしょう。