2019年10月29日

資本主義的・ブルジョア的「平等」が明瞭たる萩生田文科相の反日的「身の丈」発言

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191028-00000030-asahi-soci
萩生田文科相「身の丈に合わせて」発言を謝罪 英語試験
10/28(月) 12:30配信
朝日新聞デジタル


(中略)

発言は24日夜のBSフジ「プライムニュース」でのもの。英検などの民間試験の利用で、受験生の経済状況や地理的条件によって不公平が生じないかと問われ、「それを言ったら『あいつ予備校通っていてずるいよな』というのと同じ」と反論。「裕福な家庭の子が回数受けてウォーミングアップできるみたいなことがもしかしたらあるのかもしれない」と述べた。試験本番では、高3で受けた2回までの成績が大学に提供されることを踏まえ、「自分の身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負して頑張ってもらえれば」と答えた。

 萩生田氏は28日、不公平を容認しているとの指摘に対し、「どんなに裕福でも2回しか結果は提出できないので、試験の条件は平等な制度」と強調。「民間試験なので、全ての人が(本番の)2回しか受けてはいけないというルールにはなかなかできない」などと述べた。

 
(以下略)
資本主義的・ブルジョア的発想が「これでもか」というほどに明瞭にあらわれている、一種の「逸品」と言わざるを得ない萩生田文科相発言。ふつう、小賢しいブルジョア的言説を批判するためには、幾つかの発言を組み合わせ論理的に推論することで「正体」を暴きだす必要があるところ、萩生田文科相は、手っ取り早く「自白」してくれました。

どんなに裕福でも2回しか結果は提出できないので、試験の条件は平等な制度」――形式的な平等、つまり競争に至るまでの条件を無視し、そもそもスタートラインが異なる者同士を「平等」に扱う文化遺産レベルの古典的な「ブルジョア的平等」と言わざるを得ません

ニヒル気取りの手合いは、「人生とは不平等だ、それこそが人生だ」などと分かったような口を利くものですが、こと我が祖国;日本国のような天然資源小国にあっては、人材のみが国富であります。ニヒル気取りの手合いの言い分は、「個人」レベルに留まる極めて視野の狭い言説と言うべきものです。

天下国家・我が祖国の隆盛を願う愛国愛族の立場においては、「ブルジョア的平等」としての形式的平等のドグマに留まって社会的・人的資源を浪費するのではなく、競争のスタートライン設定における実質的平等を期し、国家の社会的・人的資源を極大的に利用すべきと考えます

自分の身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負して頑張ってもらえれば」――身の丈! 資本主義を体現していると言わざるを得ない「素晴らしい」発言! これほどまでにハッキリと「自白」してくれるとは、こちらとしては、だいぶ仕事が楽になります。

済力、そしてそれに起因する「競争のスタートライン」の違いを「身の丈」と表現するその思想は、まさに経済力によって人間の格付けがなされるという意味で極めて資本主義的な発想と言わざるを得ません。いまどき、もう少しオブラートに包んで言うもんだと思いますが、あまりにも正直な萩生田文科相であります。

ところで、本件について「教育基本法に反する」という理屈での批判が出てきています。
https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201910280000034.html
2019年10月28日8時21分
平、菅原、萩生田の共通点は…/政界地獄耳


(中略)

東京24区選出、文科相・萩生田光一だ。24日のテレビで大学入学共通テストに導入される予定の英語民間試験について「(受験生は)身の丈にあった勝負をしてもらえばいい」と発言。「(地方で会場がない受験生に対して)人生で1回や2回は故郷から出て試験の緊張感を味わうのも大事」と中央集権的、新自由主義的差別感満載の教育基本法を無視した文科大臣発言だ。

(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191028-00000573-san-pol
「許し難い発言」共産・小池氏、萩生田氏の辞任求める
10/28(月) 18:38配信
産経新聞


(中略)
 小池氏は「憲法、教育基本法を踏みにじる萩生田氏に文科相を続ける資格はない。辞任を求める」と強調。同時に「国会としてただす必要がある。衆参予算委員会の集中審議(を開き)、萩生田氏も出席してもらい徹底的な審議を行う必要がある」と述べ、厳しく追及する考えを示した。

最終更新:10/28(月) 18:38
分からないでもない理屈ですが、そもそも「教育基本法」なる法律自体が、資本主義社会・ブルジョア社会に強引に「接ぎ木」されたものなのではないでしょうか? そもそも本質的に相容れるなものなのでしょうか? 

萩生田文科相発言は、近年まれに見るレベルで資本主義的・ブルジョア的発想が明瞭にあらわれている大暴言ですが、見方を変えれば、「強引な接ぎ木」を暴露したとも言えるでしょう。
posted by 管理者 at 00:15| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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