2019年12月12日

「日本社会の集団化」をどう評価すべきか

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/264432
「i-新聞記者ドキュメント-」森氏 日本社会の集団化を危惧
公開日:2019/11/09 06:00 更新日:2019/11/09 06:00


(中略)

もちろん、企業メディアは組織ですから、上司の指示や利益も大事なことはよく分かります。しかし同時に、記者が現場に行って感じたことや思ったこと、怒りに震えたこと、伝えなければいけないと思ったことは、たとえ数字(視聴率)が取れなくても、部数に貢献しなくても『これはやるべきです』と言わなければいけないと思う。ところが、それが本当に脆弱化している。記者が組織の歯車になってしまっている」

 もっとも、おかしいのはメディアだけではない。森氏は「今の日本社会は集団化が加速している」と言う。安倍政権によって、官邸トップダウンの完全なピラミッド型組織になった自民党はその典型。一般企業やNPOにさえも波及しているという。

「集団に属したいという気持ちがとても強くなっていますから、違う集団を可視化したい気持ちにもなるわけです。だから、『あいつら俺と考えが違うから右なんだ、左なんだ』とレッテルを貼りたくなる。レッテルを貼れば安心して『敵』になり、今度は攻撃できる。集団化は同時に分断化でもあります」


(中略)

「集団に埋没することで人は一人称単数の主語を失う。その帰結として集団は大きな過ちを犯します。日本社会は『個』が弱い。もっと個を強く持った方がいい。これはジャーナリズムだけでなく、一般の人に対しても言えること。この映画を見て、そこまで感じてくれればうれしいです」 

(取材・文=小塚かおる/日刊ゲンダイ)
■デュルケム的意味でのアノミーに陥るだけでは?
森監督の「記者が現場に行って感じたことや思ったこと、怒りに震えたこと、伝えなければいけないと思ったことは、たとえ数字(視聴率)が取れなくても、部数に貢献しなくても『これはやるべきです』と言わなければいけない」という意味での「個を強く持つ」というのは、これに限って言えば理解可能かつ重要な指摘ですが、より一般的な主張であると見受けられる「日本社会は『個』が弱い。もっと個を強く持った方がいい」については、賛同しかねるところであります。

というのも、日本社会における個人を律する倫理の根本は、まさに集団そのものにあるからです。要するに「世間様の眼」こそが日本人の倫理を基礎づけているわけです。これは、キリスト教の思想:超自然的"存在"としての神を想定することで基礎づけられている欧米的倫理とは大きく異なるものです。

「世間様の眼」こそが日本人の倫理を基礎づけているのであれば、当の「世間様」の影響を脱したとき、はたして彼・彼女はいかなる倫理観を指針とするのでしょうか? 森監督が、「世間様」に取って代わる倫理観の基礎を既に想定しているとは到底思えません。少なくともこの記事からは読み取れません。

森監督を筆頭に、いわゆるリベラル派は脱集団化・個人化を推奨してきました。しかし、新しい倫理観の基礎を具体的に提唱できた例は「ない」と言い切ってしまってよいでしょう。たとえば、ここ最近は「多様性」云々が流行りですが、これだって「お互いに違いを認め合う」などという具体性に欠けるスローガンに終始しています。そして、5月1日づけ記事でも取り上げたとおり、いざトラブルが発生するとその無能さ・役立たずっぷりを露呈するわけです。

「世間様」に取って代わる倫理観の基礎が具体化しないないままに脱集団化・個人化を進めようのならば、社会規範の弛緩・崩壊によって生じるデュルケム的意味でのアノミーに陥るだけではないでしょうか?

7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」において私は、現代日本社会における社会の集団的・共同体的結束の衰退と「戦後民主主義」との関係について、「「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやる発想が大手を振って罷り通ることを許し、むしろ推奨するのが「戦後民主主義」だというのであれば、「戦後民主主義」こそが、折からの産業構造の変化による労働者階級のプチブル化及び「我々」意識の衰退による社会的結束の分解をアシストしてきた「共犯者」として指弾しなければならない」と述べましたが、今回もまたその思いを強くしたところです。

■「日本社会の集団化」をどう評価すべきか
集団化は、しばしば排他的で身内エゴ的、ムラ社会的な徒党結成の端緒になりがちな点、問題意識を持つことは大切なことです。

しかし、個人は、集団化・組織化されることによって、単独では決して達成し得ないお大きな業績を挙げることかできるようになります。また、個人は、生物的存在としての「肉体的生命」と社会的存在としての「社会政治的生命」を持っていますが、集団・組織の構成員たちとひとつに固く結束し苦楽を共にすることによって、単独では決して味わうことのできない社会政治的生命を輝かす生き甲斐を得、心身ともに豊かな生活を送ることができるようになります。

それゆえ私は、集団化は決して悪いことではなく、副作用的効果を抑えつつ集団化自体は積極的に推進すべきだと考えます。

もちろん、集団・組織に参加する一員としての、集団・組織の共同の主人としての立場を固め、個人と集団の利益を正しく接合させる主体的な意味での「集団主義」を整えて行く必要はあります。しかしそれは、「個を強くする」といったような「個人か集団か」といった次元のものではありません

もっとも、このあたりは人生観の領域でもあるので、「どちらが正しいか」といった論題にすること自体がそもそも馴染まないのかもしれません。チュチェの社会主義者たる私とリベラリストたちは、根本的な点において、同意見にはなり得ないのかもしれません。
posted by 管理者 at 00:03| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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