2019年12月31日

チュチェ108(2019)年を振り返る(4):協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題

「チュチェ108(2019)年を振り返る」第4弾として、「労働者階級の自主権の問題としての労働問題」と関連して、協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題、およびそれを実現する上での「障害物」としての啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムに対する批判について振り返りたいと思います。

■社会主義建設に固有の課題とは
先に公開した振り返り第3弾:「チュチェ108(2019)年を振り返る(3):労働者階級にとって依然として厳しい状況だが、決して希望のない暗黒時代であるとまでは言えない」にて私は、「労働者による自主管理的経営を実現させるためには、(中略)労働者自身が自己の産業組織の主人であるという意識を持つ必要がある」と述べました。単なる「雇われ人」意識のままでは自主管理の担当者にはなり得ず、「参加意識」を持たなければなりません。

しかし、単なる「主人意識」や「参加意識」では、己が所属する企業の協同経営主体・自主管理主体にはなり得ても、社会主義社会の主人にはなることはできないでしょう。なぜならば、単なる「主人意識」では、「身内エゴに凝り固まった利権集団」の形成に拘泥したり、下手をすると「オレたちのモノはオレたちのモノ、誰にも渡さない!」という意味でのブルジョア根性に転落する可能性があるからです。

なお、ここでいう「社会主義」の定義は、12月18日づけ「社会政治的生命体形成の構想」で論じたものとします。すなわち、革命的同志愛と道徳義理心に基づく社会政治的生命体の形成を志向しつつ、その初期段階としての「公平性」と「お互い様精神」を本質とする集団主義的な協同社会、自主・対等・協同の社会関係が成立している社会であります。

それゆえ、「資本主義社会の内部で協同経営化・自主管理化を目指す」という段階で直面する課題とは異なり、社会主義建設段階においては「身内関係を越える集団意識・『我々』意識の涵養」が新たに要求される課題であるといえます。

【ポイント】
・協同経営化・自主管理化:主人意識や参加意識の涵養。
・社会主義化:身内関係を越える集団意識・「我々」意識の涵養。

■労働者階級の知識労働者化に伴う社会の集団的・共同体的結束の分解
そうした観点から論じた記事として、7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」を振り返りたいと思います。

7月15日づけ記事は、専門職や上級事務職といった高所得労働者階級の間に「自己責任論」が蔓延っている背景に、彼らがブルジョア「個人」主義・プチブル「個人」主義の思想によって汚染されている事情があると論じたものです。「身内関係を越える集団意識・『我々』意識の涵養」を社会主義建設段階の課題として設定するためには、まず現状分析から始める必要があります。

当該記事で引用した橋本健二・早稲田大学教授の主張によると、「貧しいのは本人の責任だ」という自己責任論は、(1)戦後民主主義的リベラリズム以来の「弱者との連帯、弱者への共感」という心性の急速な消失という背景、及び(2)専門職や上級事務職が持つ「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という強い意識の論理的・必然的結論であるとのこと。専門職や上級事務職は、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」と考えがちで、それはすなわち、貧困について「貧しいのは本人の責任だ」という論理的結論に至るというのです。

専門職や上級事務職は、その仕事内容の性質から言って「知識労働者」といってよいでしょう。「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という言い草は、ひとり親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義・プチブル「個人」主義に他なりません。

キム・ジョンイル総書記は、『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)において、知識労働化に伴う現代資本主義社会の階級構成変化:チュチェの現代階級分析について、次のように指摘されています。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
総書記のご指摘を現代日本に当てはめてみると、専門職や上級事務職は、長い時間と労力をかけて血肉化した知識をもとに、全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも自分自身の判断で仕事を進める場面が多いものです。それゆえ、雇われ人でありながらも、ひとり親方・個人事業主的傾向が強くなりがちで、ブルジョア「個人」主義・プチブル「個人」主義を強め、「我々」意識が弱めるようになるのです。だからこそ、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」などという発言が飛び出して来、貧困について「貧しいのは本人の責任だ」と突き放すようになるのです。

もとより人間は、客観的な物質的条件にも制約され、また、集団をなして生活しています。いわゆる「個人」は、事実・ファクトとして社会システムの不可分な要素として組み込まれています。その点、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」などという、ひとり親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義・プチブル「個人」主義は、社会の実相と異なる「観念」に過ぎません

にもかかわらず、ひとり親方・個人事業主的傾向を強める過程で知識労働者は、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という主観主義に転落し、「他人は他人、自分は自分」という観念・「彼我の断絶」という思い込みを増長させ、人間存在を社会集団から孤立して単独で存在しているかのように考えるようになります。結果的に「我々」意識が弱まり、「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会の集団的・共同体的結束が分解して行くわけです。

【ポイント】
労働者階級の知識労働者化→ひとり親方・個人事業主的傾向の深化→彼我の断絶及び「我々」意識の衰退→社会の集団的・共同体的結束の分解、という図式。

■リベラリズムを克服しよう、「我々」意識を取り戻そう
知識労働者の「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識は、「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という点において主観主義的社会観・社会歴史観というべきです。物事を個人レベルに還元し過ぎています。

こうした主観主義的社会観・社会歴史観は、個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義:リベラリズムと極めて近しい関係にあると言えます。彼我を断絶させ、個人を社会集団から孤立した存在と見なすことは、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義と通底するものです。

朝鮮大学校校長で最高人民会議代議員(総聯選出)のハン・ドンソン(韓東成)先生は、著書『哲学への主体的アプローチ Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(2007年、白峰社)において次のように指摘しています(p164-165)。
このような見地から人生観を扱った人々は、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からとらえながら、個人の自由で平等な生活が、人間の自然的本性にあった生活だと主張しました。そのなかには、個人の生命、自由、私有財産を保存しようとする志向が人間の本性であり、それにあった生活に幸福があるとする見解や、肉体的欲求の充足、肉体的快楽に最高の幸福を見いだす見解もありました。

このような個人主義的人生観は、社会歴史に対する主観主義的観点にもとづいていました。それは、人々の生活や社会的運動が客観的な物質的条件に制約される面があることを見ずに、理性の要求と力に依拠して行動することによって、人間は、歴史と自らの運命を開拓することができるとしました。
(中略)人間の本性にあった幸福な生活をおくる方途を、啓蒙に求めました。
振り返れば、日本人においては、昔からの共同体意識や「お互い様」精神に基づく共助・相互扶助が、つい数十年前までは成り立っていました。会社共同体、隣近所共同体、そして創価学会のような信仰共同体等の共助体系が果たしてきた役割は大きいといえます。日本の公助体系・社会政策の整備が後手後手に回りながらも、ある程度の社会的結束が保たれてきたのは、昔ながらの共助・相互扶助のお陰だと言えるでしょう。

戦後の高度経済成長とそれに伴う都市化の進展によってこれらの共助・相互扶助体系は徐々に崩れていきましたが、そのこととリベラリズムによる「個人」主義的扇動が軌を一にしていることは注目すべきことでしょう。

都市化の進展によって従来の社会結合原理が衰退してゆくなかで、新たな社会結合原理を見出し、「我々」意識をアップデートしなければならないところ、リベラリズムは、「個人」を殊更に強調することで社会的結束の分解をアシストしてしまい、結果的に、社会規範の弛緩・崩壊によって生じるデュルケム的意味でのアノミーを生じさせてしまったのです。

もっと言ってしまえば、「個人」を重視するリベラリズムは、むしろ「我々」意識の衰退を歓迎していたとさえ考えられます。

人間を社会集団共同体の一員として見なさず、あくまでも「個人」として見なそうとする言説は、たとえば卑近なところでは、スポーツにおけるナショナルチームに対するリベラル派の見解・言説によく現れています。昨年のピョンチャン・オリンピックにおける日本代表選手の活躍には、多くの自然発生的な賞賛が寄せられましたが、江川紹子氏を筆頭とするリベラル派は、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁し、物議を醸しました。

オリンピック等におけるナショナルチームに対してさえこの調子なのだから、他は推して知るべし。人間を、社会と切り離され孤立した「個人」として位置付ける言説が、まさにリベラルの手によって戦後70年間にわたって幅をきかせてきました。

「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやる発想が大手を振って罷り通ることを許し、むしろ推奨するのがリベラリズムだというのであれば、リベラリズムこそが、折からの産業構造の変化による労働者階級のプチブル化及び「我々」意識の衰退による社会的結束の分解をアシストしてきた「共犯者」として指弾しなければならないでしょう。

【ポイント】
・一人ひとりの労働者たちが「我々」意識を取り戻すにあたっての障害物は、主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観。
・戦後の高度経済成長とそれに伴う都市化の進展によって従来の社会結合原理は衰退していった。
・新たな社会結合原理を見出し、「我々」意識をアップデートしなければならないところ、リベラリズム「個人」を殊更に強調することで社会的結束の分解をアシストした。

■社会がシステム・共同体として再構築される展望はどこにあるのか、「我々」意識を取り戻す展望はどこにあるのか
こうした社会の空中分解を押しとどめるには、社会をシステム・共同体として再構築し、いわゆる「個人」をその不可分な一員として組織化する必要があります。また、「我々」意識の再興を主眼とする対策を打つ必要があるといえます。

フランスの社会学者E.デュルケムによると、社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくといいます。個性を持つ個人が社会的役割を担い、相互補完的に依存し合うように社会が変化してゆくといいます(ひとり親方・個人事業主が活躍してゆく余地は縮小してゆくものと考えられます)。

社会の産業構造の変化は、この意味において大変興味深い、相矛盾した機能を果たすのです。すなわち、社会の産業構造の変化は、一人ひとりの労働者たちをプチブル化しつつも、同時に一人ひとりの労働者たちを組織化してお互いの関係を有機的連帯に改変してゆくわけです。社会をシステム・共同体として再構築する展望はここにあると言えます。

たとえば、7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」では、知識労働の極致であり、病院勤務医でさえ個人事業主的に働いている医療界の現場においてさえも、診療技術の高度化・専門化に伴い「チーム医療」という言葉が盛んに口にされるようになりつつあることを取り上げました。疾病構造が複雑化し診療科間・病院間の患者紹介がますます広がっている現状では医療サービスの組織化・システム化は不可避であり、このことはすなわち、医療従事者もまた組織的・システム的に行動することが不可避になりつつあることを意味します。チーム医療の時代においては、組織生活を体質化できている人だけが職業人として生き残れることでしょう。

この意味における組織生活の体質化は、職業人として生き残るための選択であるため、決して博愛精神に基づくものではないでしょう。しかし、動機が何であれ、社会的分業の進展によって各部分が相互補完的な機能を受け持つようになるので、労働者は組織生活を体質化せざるを得なくなり、「我々」意識を持たざるを得なくなるのです。

そして、この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべきでしょう。かつてキム・ジョンイル総書記は『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』において、次のように指摘されました。
一部の国では、国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人びとの思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
また、チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は、『自主・平和の思想』で次のように指摘しています。
 レーニンが指導したロシアで、1917年、革命が勝利し、労働者階級が政権を握る社会主義社会が史上はじめて誕生しました。

 政権を獲得するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした。

(中略)
 またマルクスは、社会主義的生産様式が樹立されれば、人間関係も豊かになっていくとしましたが、現実にはそのようにはなりませんでした。生産関係をかえればおのずと人間がかわるわけではないということは明らかなことです。
キム・ジョンイル総書記と尾上健一事務局長が指摘されるように、社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではありません。自生的・自然発生的な変化を無視・軽視するわけではありませんが、人為的で積極的な活動は不可欠と言えるでしょう。

では、システム・共同体として再構築された社会における制度は、どのようなものなのでしょうか。これは、今まさに私も考察を深めているテーマであります。12月12日づけ「「日本社会の集団化」をどう評価すべきか」で少し論じましたが、個人と集団の利益を正しく接合させる主体的な意味での「集団主義」が定立されている必要がありますが、「個人か集団か」といった次元のものではないでしょう。

キム・ジョンイル総書記は、≪주체사상교양에서 제기되는 몇가지 문제에 대하여≫(チュチェ思想教育で提起されているいくつかの問題について)(チュチェ75・1986年7月15日)で次のように指摘されています。

지금까지 자유와 평등의 귀중성에 대하여서는 많은 사람들이 말하여왔습니다. 주체사상도 자유와 평등이 귀중하다는것을 인정합니다. 그것은 모든 사람들이 다 세계의 주인, 자기 운명의 주인으로서 그 누구에게 예속되는것을 바라지 않는 자주적인 존재이기때문입니다. 그러나 혁명적의리와 동지애의 원리는 자유와 평등의 원리와 같은 차원의 원리가 아닙니다. 혁명적의리와 동지애의 관계도 자유와 평등의 관계를 전제로 하여야 하지만 자유와 평등의 관계가 있다고 하여 혁명적의리와 동지애의 관계가 저절로 이루어지는것은 아닙니다. 물건을 파는 사람과 사는 사람은 평등한 관계에 있다고는 할수 있어도 반드시 그들이 동지적으로 서로 사랑하는 관계에 있다고는 할수 없습니다. 자유와 평등의 관계를 혁명적의리와 동지애의 관계와 대립시키는것도 옳지 않지만 그 어느 하나를 다른것에 용해시키려고 하는것도 잘못입니다.
これまで、自由と平等の貴重性に対しては、多くの人が説いてきました。チュチェ思想も自由と平等が貴重であることを認めています。それはすべての人が世界の主人、自己の運命の主人として、誰かに隷属することを望まない自主的な存在だからです。しかし、革命的義理と同志愛の原理は、自由と平等の原理と同じ次元の原理ではありません。革命的義理と同志愛の関係も自由と平等の関係を前提にしなければなりませんが、自由と平等の関係があるからといって、革命的義理と同志愛の関係が自然に生まれるわけではありません。物を売る人と買う人は平等な関係にあるとは言えても、必ずしも彼らが同志的に互いに愛し合う関係にあるとは言えません。自由と平等の関係を革命的義理と同志愛の関係と対立させることも正しくありませんが、そのいずれかを他のものに溶解させようとするのも誤りです。

(中略)

물론 사회정치적생명체안에서도 혁명적의리와 동지애의 원리뿐아니라 평등의 원리가 작용합니다. 여기서 개인들사이의 평등은 그들사이의 혁명적의리와 동지애에 모순되지 않습니다. 인간에 의한 인간의 착취와 압박이 근절되고 사람들사이의 평등이 보장된 조건에서만 참다운 혁명적의리와 동지애가 이루어질수 있습니다. 혁명적의리와 동지애는 사람의 자주성과 창발성을 억제하는것이 아니라 반대로 그것을 더욱 믿음직하게 보장하여줍니다.
もちろん、社会政治的生命体の中でも革命的義理と同志愛の原理だけでなく、平等の原理が作用します。ここでは、個人間の平等は、彼らの間の革命的義理と同志愛とは矛盾しません。人間による人間の搾取と抑圧が根絶され、人々の間の平等が保障された条件でのみ真の革命的義理と同志愛が成り立ちます。革命的義理と同志愛は人間の自主性と創意性を抑制するのではなく、逆にそれをよりしっかりと保障します。

만일 사회적집단의 통일을 보장한다고 하면서 사람의 자주성과 창발성을 억제한다면 집단안에 참다운 통일이 보장될수 없으며 반대로 사람의 자주성과 창발성을 보장한다고 하면서 집단의 통일을 파괴한다면 개인의 생명의 모체인 사회적집단의 생명이 약화되여 개인의 자주성과 창발성자체가 보장될수 없게 됩니다. 사회적집단의 통일은 사람의 자주성과 창발성을 높이 발양시키는데 이바지하도록 이루어져야 하며 사람의 자주성과 창발성은 어디까지나 집단의 통일을 보장하는 테두리안에서 실현되여야 합니다. 이것은 평등의 원리와 동지애의 원리를 통일적으로 구현함으로써만 개인의 자주성과 창발성을 높이 발양시키는 문제와 집단의 통일을 강화하는 문제를 다같이 풀어나갈수 있다는것을 말하여줍니다. 물론 이렇게 하는것은 쉬운 일이 아니며 저절로 되는것도 아닙니다. 그래서 나는 사회적집단이 있는 곳에는 반드시 지휘가 필요하다는것을 한두번만 강조하지 않았습니다.
万が一、社会的集団の統一を確保するといって人間の自主性と創意性を抑制すれば、集団内の真の統一は保障できず、逆に人間の自主性と創意性を確保するといって集団の統一を破壊すれば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性自体が保障されなくなります。社会的集団の統一は、人間の自主性と創発性を高く発揚させることに資するように行われなければならず、人間の自主性と創発性はあくまでも集団の統一を保障する枠内で実現されなければなりません。これは平等の原理と同志愛の原理を統一的に具現することによってのみ、個人の自主性と創意性を高く発揚させる問題と集団の統一を強化する問題を共に解決してゆくことができます。もちろんそうすることは簡単なことではなく、自然になるものでもありません。それゆえ私は、社会的集団があるところには必ず指揮が必要であることを重ねて強調しているのです。
集団主義概念の深化とその具体的方法を探究し、現代社会において段階的に実現して行く必要があります。人権の問題や税金の問題など、考えを深め得るテーマはたくさんあります。来年はこの点を更に深堀りしてまいる所存です。

なお、上掲7月15日づけ記事中で橋本教授が「正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない」とした上で、「「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています」と提唱したことに対して私は、段階的で現実的なワン・ステップとして過渡期的な戦術としては有用としつつも、これはあくまでも「過渡期の戦術的対策」にとどめるべきと判断しました。そういうのも、「個人」主義の極致たる利己主義においては、「他人に厳しく・自分に甘く」が原理原則だからです。自分が「勝ち組」であるときには弱者に対して厳しいが、いざ何かの拍子に自分が弱者になろうものなら、今までの経緯などお構いなしに自己の権利を声高に主張するのが利己主義者の生態です。連中に「自分の利益にもなりますよ」と説くことは、きわどい手法なのです。

もちろん、社会的結束が崩壊しつつあるとはいえ依然として社会はシステムである以上は、「個人の利益は、集団の利益とともにある」ことには変わりありません。また、個人がバラバラに利益追求するよりも、共同で結束して利益追求した方が「低コスト」でもあります。その点、「個人」主義に毒されている人々を集団主義・利益の集団的・共同的追求の入り口に誘うには「自分の利益にもなりますよ」は有用でしょう。しかし、それで実現されるのは「身内エゴに凝り固まった利権集団」が関の山であり、それでは社会主義にはならないのです。やはり、社会のシステム・共同体としての再構築、「我々」意識の再興を主眼とする対策を打つ必要があります。

【ポイント】
・社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくことは、社会のシステム・共同体としての再構築に関する展望になる。
・この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべき。社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではない。
・システム・共同体として再構築された社会における制度は、「個人か集団か」といった次元のものではない。

■リベラリズムからの教訓(1)――多様な価値観を共存させようとすればこそ「棲み分け」する必要
ここで、今年当ブログで取り上げた範囲内でリベラリズムからの教訓を汲んでみたいと思います。社会主義は、これらを乗り越えて創り上げる必要があります。

まずは、5月10日づけ「令和の時代を多様性の時代へ、多様な価値観が棲み分ける時代へ」。5月1日に改元されるや否や、その熱気に乗る形で「令和の時代を多様性の時代へ!」といったキャンペーンが出てきました。

昨今リベラル勢力が注力している「多様性キャンペーン」は、旧来の価値観を問い直して非合理的な思い込みを打破する局面においては活躍しているものの、新しい社会秩序を形成するにあたっては心許ないと言わざるを得ません。最終的にどのような社会的新秩序を作り出そうとしているのか明確に見えてこないからです。「寛容の精神」「お互いを認め合う」といったあたりの曖昧な単語を持ち出して誤魔化すことに終始しており、積極的かつ具体的なビジョン・着地点が見えてこないのです。

キャンペーンは、何事もない平時においてはその真価及び生命力は測り得ないものです。キャンペーンを支える価値観を揺るがす事件に対処し乗り越える非常時においてのみ、その真価及び生命力が輝くものです。

その点、リベラリズムが昨今特に注力している「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」のキャンペーンは、たとえばイギリスにおける、ともに少数派であるLGBTと、異性愛しか認めず同性愛等を禁じているイスラム教徒との激しい対立に際して有効な仲裁ができず無能っぷりを露呈させている点において、現実性に乏しいキャンペーンに過ぎないと言わざるを得ないでしょう。

リベラリズムが昨今特に注力している「多様性キャンペーン」の本質など、この程度のものなのです。

他方、当該記事で取り上げたとおり、「イスラム世界における世俗主義的人士と敬虔な信徒との共存」の実例は、このことを考える題材になり得るでしょう。詳しくは当該記事をお読みいただきたいのですが、要するに、多様な価値観どうしが平穏に共存するための秘訣は「棲み分け」なのです。異なる価値観同士は、どんなに頑張っても衝突してしまう局面があるので、これを穏便かつ現実的に解決しようとすれば、棲み分ける他にないのです。

自主・対等・協同の社会関係が成立している社会主義社会を建設するためには、「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」を目指す必要があると言えますが、リベラリストたちの主張とは異なり私は、多様な価値観を共存させようとすればこそ「棲み分け」という選択肢を考慮に入れなければならないと考えます。共存のためにこそ少し距離を置くのです。

■リベラリズムからの教訓(2)――F.エンゲルスの指摘に立ち返り、社会を構造的に分析する必要がある
続いて5月30日づけ「「『一人で死ぬべき』は控えよう」論から透けて見える、空虚で白々しいリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義;エンゲルスの『フォイエルバッハ論』に立ち返り、同胞愛・人類愛復興の道へ」。神奈川県川崎市での通り魔的殺傷事件に関する、NPOほっとプラス代表理事で聖学院大学人間福祉学部客員准教授でもある、当ブログでも何度も批判的に取り上げてきた藤田孝典氏の「「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」という主張を取り上げた記事です。藤田氏その人を「リベラル」としてよいのかは微妙なところですが、彼の当該主張を支持するリベラリストは少なくなかったので、ここでは「リベラリズム的発言」として取り上げます。

藤田氏は当該事件について「類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。(中略)そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。」と主張しています。こうした心構えを社会の全員が持ち合わせることは、とても高潔であり人類の夢ではあるものの、現時点では実に空虚であり、白々しく、お育ちの良い御仁のキレイゴトの域を脱していないと言わざるを得ません。我々の社会はそれだけ同胞愛・人類愛が廃れている社会なのです。

後に振り返る12月15日づけ「香港情勢における啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響」でも論じましたが、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想は、物事を個人の「価値観」や「正義感」の問題に帰結させがちです。しかし、かつてF.エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』において「今日、われわれにとって、他の人びととの交際で、純粋に人間的な感情をあじわう可能性は、すっかりいためつけられている。それは、われわれが行動しなければならないこの社会は、階級対立と階級支配に基礎をおく社会だからである」と正しくも指摘しました。

このエンゲルスの指摘は、今日のブルジョア「自由」主義社会の本質を見抜いたものであり、同時に、藤田氏の言説がまさしくブルジョア「自由」主義の提灯持ちたるリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の域に留まる「キレイゴト」に過ぎないことを明白にするものです。

リベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の「優しさ」など何の役にも立たぬ空想的社会変革論です。エンゲルスの指摘に立ち返り、それを指針とする必要があります。社会を構造的に分析する必要があると言えます。

■リベラリズムからの教訓(3)――啓蒙などでは社会は変革され得ず、社会経済制度・構造を根本から変革する必要がある
10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」では、エコロジー運動に浸透しているリベラリズム的発想と言説を取り上げて批判しました。社会問題としての環境問題であるにも関わらず、結局は単なる啓蒙に留まり、個人レベルでの行動改善にばかり拘泥している点において、「観念論」と言わざるを得ないのです。

当該記事では、カナダ石油産地で環境保護訴えたグレタ・トゥンベリさんご一行が、現地の石油業界関係者・労働者たちから痛烈なカウンターデモを受けたこと報じる記事を取り上げました。

あるカウンターデモ参加者は「彼女たちが理解しなければならないのは、われわれが困窮しており、アルバータ州の雇用にも配慮しなければならないということだ」と訴えたそうです。これは重要な指摘であります。

最近のエコロジー運動がほぼ完全に忘却ないし無視している事実は、地球温暖化対策に消極的なトランプ米大統領がラストベルトの労働者の強い支持を背景に当選した事実を筆頭とする「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々の存在」であると言えます。

マルクス主義が影響力を持っていた時代であれば、こんな「観念論」と言う他ない粗雑な言説がここまで大手を振ることはなかったことでしょう。マルクス主義は、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、啓蒙などでは社会は変革され得ず、社会経済制度を根本から変革しない限りは問題は解決し得ないと主張しました。

それゆえ、「環境負荷のある産業」を廃止するというのであれば、その社会的・経済的・制度的条件を整備することが必要であり、それはすなわち、「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々」を別産業に配置しなおすことが必要なのです。

啓蒙などでは社会は変革され得ません。人間行動をちょっと変えたくらいで社会が変革されると考えるのは、まさしく「観念論」と言わざるを得ないのです。こうした社会経済制度の問題点に触れず、お手軽にも単なる啓蒙で済ませる最近のエコロジー運動は、「観念論」に留まると言わざるを得ないでしょう。

こうしたエコロジー運動の観念論化においては、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響と紐づけざるを得ないでしょう。実際、グレタ・トゥンベリさんはリベラリストたちから熱狂的に支持されています。

すなわち、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムは、個人は、その価値観と意志に基づき行動を自由に決定し、そうした個人の志ある行動により社会全体が変革されていくという主観観念論的社会観を提唱し、社会組織・社会システムが個々人に与える客観的・構造的制約というものを軽視ないしは無視します。そして、そうであるがために、問題の所在を「決心したか否か」や「関係者が善人であるか悪人であるか」に設定してしまいます。

しかし、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会経済制度・構造を根本から変革しない限りは社会は変革され得ず、人間行動をちょっと変えたくらいで社会が変革されると考えるのは、まさしく「観念論」と言わざるを得ないのです。

■リベラリズムからの教訓(4)――個人の「価値観」や「正義感」の問題に帰結させてはならず、個人を取り巻く事情を踏まえる必要がある
12月15日づけ「香港情勢における啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響」では、香港で展開されている市民らによる抗議活動の背後で展開されている、単なる「駒」に過ぎない警察官個人への憎悪の広まりにおける啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムの「黒い影」について論じました。

そもそも現場の警察官など「駒」以外の何者でもなく、真に憎悪を向けるべきはそれを操る「黒幕」であるはず。また、警察官は警察組織の「歯車」として組み込まれているので学生・一般市民のように行動できるわけではないし、強権政治の例に漏れず香港政府は警察官に対する「思想教育」を実施していることでしょうから、ある警察官は生活のために、別の警察官は思想教育によって騙されて抗議活動の強制排除に従事していることでしょう。

にもかかわらず、少なくない人々が、単純でお手軽にも警察官個人の「価値観」や「正義感」の問題に帰結させてしまい、単なる「駒」に過ぎない警察官個人への憎悪を強めています

啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的立場に立てば、抗議活動の強制排除に当たっている香港の警察官たちは、「あえて悪党の悪事の片棒を担いでいる」ということになりましょう。啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムの立場に立てば、現場の警察官は憎悪の対象になってしまうことでしょう。

しかし、警察官は警察組織の「歯車」である以上、みんながみんな己の正義感に忠実に行動できるわけではなく、また、香港政府は警察官に対する「思想教育」を実施していることでしょうから、みんながみんなファクトに即した情勢把握をしているわけではありません。オトナというものは、何か改心や決心したからと言って直ちに行動を変えられるわけではありません。社会組織・社会システムに組み込まれているがゆえに、その制約を受けるのが常なのです。

これが分からないというのであれば、そのような人物はもはや観念論者と言う他ありません。

■リベラリズムからの教訓(5)――新しい価値観が定立を先行させるべき
12月12日づけ「「日本社会の集団化」をどう評価すべきか」では、「日本社会は『個』が弱い。もっと個を強く持った方がいい」という映画監督である森達也氏の言説を取り上げました。

日本社会における個人を律する倫理の根本は、要するに「世間様の眼」こそが日本人の倫理を基礎づけているわけです。これは、キリスト教の思想:超自然的"存在"としての神を想定することで基礎づけられている欧米的倫理とは大きく異なるものです。

「世間様の眼」こそが日本人の倫理を基礎づけているのであれば、当の「世間様」の影響を脱したとき、はたして彼・彼女はいかなる倫理観を指針とするのでしょうか? 森監督を筆頭に、いわゆるリベラル派は脱集団化・個人化を推奨してきましたが、未だかつて新しい倫理観の定立に成功した試しがありません。「世間様」に取って代わる倫理観の基礎が具体化しないないままに脱集団化・個人化を進めようのならば、社会規範の弛緩・崩壊によって生じるデュルケム的意味でのアノミーに陥るだけではないでしょうか?

いくら既存の価値観が憎らしいからといって、しっかりとした新しい価値観が定立される前に既存の価値観を破壊するようでは、デュルケム的意味でのアノミーになるのがオチ。社会主義者はこのことを踏まえて変革を計画しなければならないと言えます。

【ポイント】
・多様な価値観を共存させようとすればこそ「棲み分け」という選択肢を考慮に入れなければならない。
・リベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の「優しさ」など何の役にも立たぬ空想的社会変革論。エンゲルスの指摘に立ち返り、社会を構造的に分析する必要がある。
・人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会経済制度・構造を根本から変革しない限りは社会は変革され得ない。
・人間は、社会組織・社会システムに組み込まれているがゆえに、その制約を受けるのが常。みんながみんな己の正義感に忠実に行動できるわけではなく、みんながみんなファクトに即した情勢把握をしているわけではない。
・しっかりとした新しい価値観が定立される前に既存の価値観を破壊するようでは、デュルケム的意味でのアノミーになるのがオチ。

■リベラリズムとマルクス主義、チュチェ思想の相違点
リベラリズム批判に関連して、リベラリズムとマルクス主義、チュチェ思想の相違点から、チュチェ思想の優位性についても言及しておきたいと思います。

リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わると想定していますが、物事を個人レベルに還元し過ぎています。人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まるからです。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。リベラリズムはミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しているわけです。

これに対してマルクス主義は、客観的な前提条件としての社会システムが変われば人間の意識は変わると想定しています。「存在が意識を規定する」という教義に基づく見解ですが、社会システムの変化がそのまま直ちに人間の思想意識を変化させるわけではありません。長期的な視点に立ったとしても、はっきりとしたことは言えません。

チュチェ思想は、「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」という原理に基づいています。人間の自主的思想意識を重視する点においてリベラリズムと共通する部分があるが、チュチェ思想とリベラリズム・観念論との決定的違いは、チュチェ思想は、「人間の集団的な創造能力」を重視していることにあるといえるでしょう。つまり、単に思想的に目覚めただけでは不足で、それを実現するための集団的創造能力が必要だと言うのです。

チュチェ思想が想定する人間の集団的創造能力には、たとえば生産力が挙げられます。生産力に注目している点は、リベラリズムにはなくマルクス主義的な観点ですが、チュチェ思想における生産力は、自主的思想意識と同列に並ぶ「人間の能力」としている点においてマルクス主義とは大きく異なるところです。

また、チュチェ思想は組織を重視します。味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的だからに他なりません。個人は組織化されたときにはじめて世界の力ある主人になることが出来ると説かれています。

「人間の自主的思想意識」と「人間の集団的創造能力」をともに「人間の能力」の属性として同列的に位置付け理論的に連携させている点において、チュチェ思想は、リベラリズムとマルクス主義との双方と共通点を持ちながらも独特な世界観を持っていると言えます。世界と自己の主人たらんとする自主的な思想意識を持ち、世界と自己を改造し得る創造的能力を持ち、自主的思想意識と創造的能力を合理的に統御する意識性(理性・科学的思考能力)を持つからこそ「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」のです。

チュチェ思想の観点からリベラリズムの不足を指摘すれば、リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えることによって、具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかを描き切れていないと言えるのです。人間の集団的創造能力に関する詳しい説明を抜きに「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」などとするからリベラリズムは、根拠薄弱な観念論になってしまうのです。

また、「個人」を重視するリベラリズムは、社会の組織化・組織的結束の強化に関して積極的に論じていません。むしろ、「多様性」の名の下に、「我々」意識の衰退や社会の集団的・共同体的結束の分解に無為無策・役立たずであります。組織を重視し、有機的連帯の強化を重要な問題として位置付けるチュチェ思想においては、この点にもリベラリズムの不足を指摘しなければなりません

【ポイント】
・リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えることによって、具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかを描き切れていない。
・「個人」を重視するリベラリズムは、社会の組織化・組織的結束の強化に関して積極的に論じておらず、「我々」意識の衰退や社会の集団的・共同体的結束の分解について役立たず。

■総括
リベラリズムを乗り越え、主人意識・参加意識及び「我々」意識を労働者階級が身に着け、社会がシステム・共同体として再構築された先にはどのような道のりが待っているのでしょうか?

キム・ジョンイル総書記は『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』において、知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占める先進資本主義社会における革命論を次のように展開されました。
 今日の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはできません。社会主義社会の労働者階級が無産階級でないのはいうまでもないことであり、発達した資本主義諸国の労働者階級も、マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであると言った、かつての無産者とは異なります。革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということだけにかかっているのではありません。

 人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由のみで革命に参加するものとみなしてはなりません。自己の運命の主人として、国家と社会の主人として生きようとするのは、自主的人間の根本的要求です。金日成同志が教えているように、自主性が踏みにじられるところには抵抗があり、抵抗があるところには革命闘争がおこるものです。

 解放前、日本帝国主義の支配のもとで、我が国の知識人も、一般労働者に比べては高い待遇をうけ、比較的裕福な暮らしをしました。しかし彼らは、植民地の知識人として民族的差別をうけたので、反帝的な革命性をもっていました。

 今日、発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる労働者の生活水準が高くなったとはいえ、彼らは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにあるため、資本主義制度に対して反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求しています。自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します。
進資本主義社会における社会主義革命は、食うや食わずの困窮者たちによる古典的マルクス主義が描くそれではなく、ある程度の物質生活を送りつつも資本家の支配に抑圧されている知識労働者たちが、自己の運命の主人として国家と社会の主人として生きようとするため自主性回復のための闘いだというのです。

この提起は、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を与えるものと言えるでしょう。また、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識とも通底する点、チュチェの革命論は、マルクス主義の継承者であるとも言えるでしょう。

つまり、身内関係を越える集団意識・「我々」意識が育まれ、また、社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくことで、彼我の断絶が克服され、社会の集団的・共同体的結束が再興するわけですが、これによって個人の利益と集団の利益とが正しく結合され、社会は協同的になり、自主・対等・協同の社会関係が成立するようになります

自主性を本質とする社会的人間は、こうした客観的・社会的・制度的条件を基盤として、さらに自らの自主的要求を高めてゆくことでしょう。自主・対等・協同の社会関係をさらに深化させ、資本主義社会をスタートラインとして、究極目標としての革命的同志愛と道徳義理心に基づく社会政治的生命体が形成されている社会主義社会を目指すわけなのです。

これは、「失うものは鉄鎖のみ」としたかつての労働者階級とは異なる動機と原則に基づいていると言えます。自主性回復のための闘いと言う点において、単なる物質生活での解放にとどまらず、精神的な意味での解放をも視野に入れているのです。

この点において、集団主義的な協同社会、自主・対等・協同の社会関係が成立している社会としての社会主義社会とは、巨大な生産力を背景としてモノが溢れ返っている点において物質的には「豊か」であり、また、骨の折れる肉体労働が相当に減ってきていながらも依然として労働局面での裁量権が限定されており、また、ストレス等による精神疾患が異常な水準でメンタルヘルス問題が重大な課題になっている現代においてこそ価値のある社会モデルであると言えるでしょう。
posted by 管理者 at 20:05| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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