2020年02月09日

さて日本は?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200131-00227336-diamond-bus_all&p=2
グーグルが「一流と凡人」を見分ける、たった1つの違い
1/31(金) 6:01配信ダイヤモンド・オンライン


(中略)

 ビルは貢献意欲、それも個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人を求めた。チーム・ファーストだ!

 グーグルCEOのスンダー・ピチャイも言うように、「自分の成功が他人との協力関係にかかっていることを理解している人、ギブアンドテイクを理解している人、つまり会社を第一に考える人」を探す必要がある。

 スンダーとビルは、そういう人材が見つかれば、スンダーいわく「かけがえのない人材として扱った」。

 だがそうした人材かどうかを、どうやって判断するのか?

 彼らが何かを犠牲にしたり、他人の成功を喜ぶことがあるかどうかに注目すればいい。スンダーはこう指摘する。

 「ときとして、より大きな成果を得るために、誰かが何かを犠牲にしなくてはならないことがある。僕はそういうときの行動に強く注目している。自分とは直接関係のない、ほかの部署の成功を喜んでいるときもだ。そういうことに目を光らせるんだ」
「個人主義」的と言われるアメリカにおいても、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められているということです。

これに対して、「個人主義」と称する単なるノルマ主義や、あるいは逆に、「チーム・ファースト」と称する出る杭を打つ型のムラ社会が跋扈しているのが日本であります。

日本において「成果主義」だの何だのと言われ始めた頃から「個人主義」的なアメリカ企業の評価体系及び給与体系に対する憧憬を語る言説を耳にするにようになりました。この手の人たちは、「個人」的なスキルの研鑽に励むとともに、自分が如何に有能なのかを主張する指標として「仕事の速さ」を誇る傾向にあるように私は見ています。「効率的に仕事を捌き、残業をせず、夜は自己研鑽に励む」というわけです。

こういった人々は、個人として見たときは大変に優秀なのでしょう。しかし、仕事というのものは一人で完結するわけではなく、複数人による流れ作業であります。企業とは、原材料を投入して成果物を産出するシステムであり、個々の従業員・労働者は、そのシステムの構成要素です。特定の構成要素(特定の作業班・特定の個人)だけ仕事が早くても、他がモタついて成果物が完成しなければ、売り上げにはならず、システムとしては失敗であります

優秀な個人であればこそ効率的に自分の仕事を捌き、その上で非効率的な他人の課題改善の支援を行い、全員の仕事の総体として・システムのアウトプットとしての成果物が少しでも早く完成するように立ち回ることが求められますが、どうもそういう展開は見られ難いところです。酷い場合たと、成果物の品質が不十分であったとしても「自分の仕事は完璧だった。誰々が悪いんだ」などと口にしてしまう人までいる始末です。「企業はシステムである」ということをまったく理解していないと言わざるを得ず、いくら「個人」として優秀であっても、組織人としては「使えない」のです。個人事業主であればこれでも構わないのでしょうが、協業組織においては「使えない」のです。

「企業はシステムである」ということを理解していない言説がしばしば飛び出てくることは結局のところ、日本の近代化が「押し付けられたもの」に過ぎないことに起因していると考えられます。黒船来航以来外圧に振り回されっぱなしの日本。外圧によって否応なしに近代化させられた結果、ムラ社会は形式上は半強制的に解体されて居住地の垣根を越える人員の往来が始まり、地縁によらない人間関係が構築されるようになりました。しかし、外圧による半強制的近代化であるからこそ、依然として人々の頭の中にはムラ社会的原理の残滓があり、同調圧力による没個性的振る舞いは顕著であります。欧米的な意味での個人主義が確立されたとは到底言い得ない状況にあります。

要するに、日本人の思想文化水準が個人主義を担うに相応しい水準にはなっていないということなのです。未だに他人との適切な距離感が分からないのです。ある人は距離を取り過ぎるし、別の人は近すぎるのです。

少し話はそれますが、昨今は、ワンオペ育児問題、老々介護問題、引きこもり問題といった家庭を現場とする様々な問題が社会的に認知されるようになりつつあります。悲劇的な事件も起こるようになりました。こうした問題には「核家族化の進行」が一因として存在していると考えられます。要するに、昔と比べて家族がマンパワー的な意味で弱小化しているにも関わらず、「家族の問題は家族内で解決しなければならない」という強い思いが、問題を「抱え込む」方向に追いやっているわけです。他方、このことを以って「家族の問題に対して家族のメンバーが責任感を持つ必要はない」というような珍妙な理屈を展開する輩も現れつつあります。

これもまた、他人との適切な距離感が分かっていないが故の様相というべきものです。責任感を持つことと他者の支援を要請することは矛盾しません。いま手元に資料がないのですが、かつて共和国政府は「自力更生とは、他者の手助けを一切受け付けないという意味ではない」という見解を提示していました。共和国が「自力更生」を掲げるのは、自然、社会と自己の運命の主人としての責任と矜持を持っているからに他なりませんが、しかし、そうはいっても何から何まですべて自分の力だけで解決することを「自力更生」は求めているわけではありません。

あまり日本の悪口をいいたくはないのですが、古代以来「個人」とは何であるかという哲学的問いの蓄積がある欧米に対して、そして、東西冷戦の極東最前線という厳しい環境下において社会主義建設を推進する過程で個人と集団・自国と他国の関係性を考え抜いてきた共和国に対して、日本は決定的に不利な状況にあると言えます。

もっとも、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人が求められている」というのが、わざわざ本の内容になるくらいなのだから、アメリカにおいてもそうではない事象が割とありふれているということなのでしょう。あまりにも当たり前すぎることをわざわざ記す必要はないからです。その意味で日本人は、あまり過剰に自虐的になる必要はないでしょうが、しかし、欧米には個人主義の伝統があるので、こうした新しい人材観の消化は早いことでしょう。

職場における個人の評価とはすなわち、組織・集団と個人との関係の問題に他ならず、それは世界観や社会歴史観に直結する問題であります。「個人主義」アメリカは動き出しました。さて日本は?

なお、チュチェの社会主義者として私は、「個人主義」的と言われるアメリカでさえ、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められるようになりつつあることは、歓迎すべきことと考えます。

チュチェ108(2019)年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4):協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」でも述べたように、産業の知識化によって労働者階級がプチブル化し、社会の有機的連帯・システム的連関が瓦解するようになりつつも、他方で同時に、産業の高度化によって労働者は独りでは成果物を産出できず社会的分業・社会的協業が必要不可欠になることで、社会の有機的連帯・システム的連関が再構築されるようにもなります。社会的分業・社会的協業の進展によって労働者個人は互いに相互補完的な機能を受け持つようになるので、労働者個人は組織生活を体質化せざるを得なくなり、「我々」意識を持たざるを得なくなるのです。「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められるようになり始めたことは、まさに後者の展開が始まったことを示しています。
posted by 管理者 at 01:39| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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