https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-16/2020011609_01_0.html
(前略)「支配勢力が、巨大メディアの大部分をその統括下に置き、国民の精神生活に多大な影響力を及ぼしていることは、私たちの事業を前進させるうえで特別に困難な条件」という見解は、チュチェ思想派たる私としても同感であります。しかし、今回の党大会報道を見るに日本共産党は、「特別の困難性」を克服するための具体的方法論がおそらく浮かんでいないものと思われます。チュチェ思想派としてそのような感想を持ちました。先進資本主義国における社会主義革命を人類はいまだ経験していないので、何が正解であるかは現時点では語り得ないものですが、それにしても具体性に乏しい掛け声です。
発達した資本主義国における社会主義的変革の「特別の困難性」とは
報告の最後に、一部改定案が、発達した資本主義国における社会主義的変革について、「豊かで壮大な可能性」とともに、「特別の困難性」をもつ事業だと言及した意味についてのべておきたいと思います。全党討論のなかでは、「資本主義の発達の遅れた国での社会主義的変革も困難であり、発達した資本主義国での社会主義的変革も困難となると、両方とも困難ということか」という質問もありました。
ここでいう「特別の困難性」とは、発達した資本主義国において、多数者革命を「開始する」ことの困難性――日本の場合で言えば、国民の多数の合意のもとにまず民主主義革命を実現し、さらに国民の多数の合意で社会主義的変革にすすむうえでの困難性ということであります。
8中総の提案報告でのべたように、「発達した資本主義国では、支配勢力が、巨大な経済力と結びついた支配の緻密な網の目を、都市でも農村でも張り巡らして」います。「なかでも支配勢力が、巨大メディアの大部分をその統括下に置き、国民の精神生活に多大な影響力を及ぼしていることは、私たちの事業を前進させるうえで特別に困難な条件」となっています。こうした「特別の困難性」を打ち破るには、日常不断に多数者を結集する粘り強い活動にとりくむこと、わけても強大な日本共産党を建設し、この党が一翼を占める統一戦線を実現することが、絶対に不可欠であります。
そして、多数者革命を「開始する」ことは困難であっても、民主主義革命を実現し、社会主義的変革の道に踏み出すならば、その先にははかりしれない「豊かで壮大な可能性」が存在する――これが日本における私たちの社会変革の事業の展望であります。
いま私たちがとりくんでいる市民と野党の共闘、日本共産党の躍進、強く大きな党づくりの事業は、そのどれもが日常不断の粘り強いとりくみ――忍耐力、不屈さが求められる仕事であります。しかし、それこそが、「特別の困難性」を突破して、未来社会における「豊かで壮大な可能性」を現実のものにする最もロマンある仕事だということを胸に刻んで奮闘しようではありませんか。(拍手)
以上で、綱領一部改定についての報告を終わります。(大きな拍手)
この課題については、当ブログでも何度か引用してきたキム・ジョンイル総書記の労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)が回答を与えていると考えます。総書記は、同労作にて先進資本主義国における革命を論じておられます。
すなわち、総書記は同労作中において、先進資本主義国では第二次世界大戦後、技術労働と精神労働に従事する労働者が急激にふえ、労働者のあいだでプチ・ブルジョア思想の影響が増大しつつあること、特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとでは多数の知識人がブルジョア思想とプチ・ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことであると言明されました。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となることを認めました。
もちろん、技術労働にたずさわる労働者であれ、精神労働にたずさわる労働者であれ、彼らはいずれも生産手段の所有者ではない点は、マルクス存命期の労働者階級と違いはないので、労働党・共産党の社会的階級的基盤が弱くなったわけではありません。総書記は、問題の所在は、社会的階級的構成の変化に応じて、労働党・共産党が労働者階級の広範を獲得するための政治活動をいかにおこなうかにあると指摘されています。労働者階級をいかに革命的に覚醒させるかという問題があるというのです。
そして総書記は、今日の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはできず、「失うものは鉄鎖のみ」ではないし、そもそも革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということだけにかかっているのではないと指摘されています。すなわち、人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由だけで革命に参加するわけではなく、自然と社会、そして自分自身の運命の主人として生きようとする自主的人間の根本的要求に基づいて革命に参加するケースもあるのです。「自主性が踏みにじられるところに抵抗があり、抵抗があるところに革命闘争がおこる」わけです。
その上で、総書記は次のように指摘されました。
今日、発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる労働者の生活水準が高くなったとはいえ、彼らは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにあるため、資本主義制度に対して反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求しています。自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します。実際上、資本主義国の知識人で、いっときなりとも社会主義に共鳴しない人はほとんどいません。彼らが引き続き社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろ彼らを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連しています。さて、「党の強化」という結論においては、キム・ジョンイル朝鮮労働党総書記の30年以上前の談話と、今回の志位日本共産党委員長の主張は同一です。しかし、そこに至る理屈がキム・ジョンイル総書記の方が遥かに深い。果たして志位委員長が言うように「日常不断に多数者を結集する粘り強い活動にとりくむ」程度で先進資本主義国での革命の前に横たわる問題を乗り越えられるのでしょうか? 労働者階級内部におけるプチ・ブル化の深刻化によって自己責任論が蔓延している日本社会において、自己責任論と闘う社会主義・共産主義勢力に一般市民が寄り付くでしょうか? 党の強化よりも前に、まず社会意識の改善が必要であると思われます。その意味では、党の強化以前に、敷居の低い大衆団体の強化から始めるべきではないかと思うのです。
勤労者大衆を革命化し、獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党です。党を組織的、思想的に強化し、現実の要求にそくして党活動の方法を改善することなしには、大衆を意識化、組織化して党の周りに結集することができず、革命勢力をしっかりと固めることもできません。党を強化し、大衆を党の周りに結集して、革命の主体的力量を強化する活動を優先させずに、革命の成果を期待するのは、あたかも果樹の手入れもせずに果実を摘もうとするに等しい愚かなことです。
キム・ジョンイル総書記の先進資本主義国革命論は、自主性回復のための闘いと言う点において、単なる物質生活での解放にとどまらず、精神的な意味での解放をも視野に入れています。これは、チュチェ108(2019)年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4)――協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」でも論じたとおり、ストレス等による精神疾患が異常な水準でメンタルヘルス問題が重大な課題になっている現代においてこそ価値のある社会モデルであると言え、また、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識とも通底する点、マルクス主義を継承しているとも言えるでしょう。