2020年02月17日

公衆衛生の検討から始まる集団主義的観点の復権

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200215-00000004-pseven-soci&p=2
新型コロナ、感染爆発Xデーと「隔離」「解放」の究極選択
2/15(土) 7:00配信NEWS ポストセブン


(中略)

「個人的な意見ですが、患者を診る医師の立場から言えば、致死率が1%を大きく割り込む病気を理由に疑わしいぐらいの人々を隔離するのは、隔離された人々への負担が重すぎます。一方で、流行を防止する公衆衛生の立場からは、仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ないかもしれません。この2つの考え方のバランスを取ることが難しい」

 乗客からすれば、早く下船して日常生活を取り戻したいだろうが、それによって、多くの国民の日常生活が害される恐れがある。個々人の自由を尊重すれば、その自由を成り立たせている社会基盤が崩れかねない。


(以下略)
乗客からすれば、早く下船して日常生活を取り戻したいだろうが、それによって、多くの国民の日常生活が害される恐れがある。個々人の自由を尊重すれば、その自由を成り立たせている社会基盤が崩れかねない」――われわれチュチェ思想派としては常に念頭においている「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」の最たるものですが、ブルジョア「自由」主義を標榜している日本言論空間で目にするとは・・・

仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ない」というのは、「個人の自由」を優先させることこそが正義とされがちな昨今のブルジョア「自由」主義社会において、珍しく社会を優先させていると言えます。

今回の新型コロナウィルスの大流行は、現代社会の在り方を考えるにはとても多くの教訓を残すことでしょう。

感染経路や予防方法、治療方法といった医学的見地がほとんど解明されていない現状において、未知の新型伝染病の前では、人々の社会的地位:貧富貴賤はほとんど意味をなさず、その意味では「人間はみな平等」です。また、未知の新型伝染病であるからこそ、発症した患者の「自己責任」を追及することは困難であり、「自己責任」論者は珍しく沈黙を守っています。他方、さすがの人権派も強い感染力をもつ未知の新型伝染病を前にしては、いつものようには「個人の自由」を語ろうとはせず、基本的に公衆衛生の立場を認めながらも、その「行き過ぎ」を注視する程度の姿勢を守っています。加えて、ウィルスは人間どころか動物でもなければ生物でさえない点において「話し合い」など、あり得るはずもないので、「話し合いでの解決を」なる優等生的無能発言は見られません

「貧富貴賤を問わず『平等に伝染』してゆく『未知のウィルス』」であるからこそ、今回の新型コロナウィルスの大流行は、本当の意味での「全社会的闘争課題」になり得たと言えるでしょう。かくして昨今ではとても珍しいことです。ノイズ的要素がもともと少なく「クリア」な事案であるために、検討すべき論点が明白なのです。余計なことを考えずに患者を診る医師の立場から言えば、致死率が1%を大きく割り込む病気を理由に疑わしいぐらいの人々を隔離するのは、隔離された人々への負担が重すぎます。一方で、流行を防止する公衆衛生の立場からは、仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ないかもしれません。この2つの考え方のバランスを取ることが難しい」という一点に絞って、「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」の問題として考えることができるのです。

「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」は、ある場面においては個人の利益を優先させ、別の場面では社会の利益を優先させます。そのときと場合によってどちらを優先させるのかを、事前の「ゲタ履かせ」なしに比較衡量して結論を導出させます。公衆衛生の検討集団主義的観点の復権が始まるかも知れません
posted by 管理者 at 21:36| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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