2020年02月20日

新型肺炎を巡る「不安」の正体は、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」が軽視されているため

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200220-00070523-gendaibiz-soci
新型肺炎「不安の正体」なぜ人々はパニックに陥っているのか
2/20(木) 6:01配信
現代ビジネス

(中略)
 たしかに得体の知れない新型ウィルスは不気味ではあるが、専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか。

 新しいウィルスであり、確固たる予防(ワクチン)や治療(治療薬)がないとはいっても、通常の風邪であっても、対症療法しかなく根本的な治療薬がないのは同じことだ。死亡率だってインフルエンザよりずっと低い。

 つまり、人々が不安になっているのは、合理的、科学的な理由からではない。現実を見ないで、いたずらに不安を高めているように思われる。そもそも不安の定義は「漠然とした恐怖の感情」のことであり、対象が何かよくわからないがその感情が抑えられないようなものをいう。

 だとすると、残念ながら合理的な説明や科学的なデータでは、なかなかそれを抑えることができないということになる。そして、一旦不安が感染してしまうと、人は往々にして非合理的な行動を取ってしまうようになる。

不安と人間の行動
 不安に苛まれたとき、それを収めるために何かの対処行動を取ること自体は、正常な反応である。

 しかし、その際にややもすると、人間はコストの小さい行動を取る傾向がある。この場合のコストとは、心理的、行動的、経済的なさまざまなコストが含まれる。そして、それが必ずしも「正しい対処」ではないことが多い。

(中略)
 マスクの装着にも同じことが言える。マスクを装着するのは、比較的コストが小さい対処である(入手しにくさや価格の高騰で難しくなりつつあるが)。

 しかし、これも繰り返し専門家が指摘しているように、マスクはウィルス感染予防策としては、それほど効果があるものではない。

(中略)
 さらに、感染症への免疫を高めるためには、十分な睡眠を取り、栄養に気を配り、適度な運動をすることが必須である。言うまでもなく、喫煙も大きなリスクである。

 とはいえ、これらの行動が十分に実行されているかというと甚だ疑問である。これらは一朝一夕に効果を発揮することではないかもしれないが、根本的に非常に重要な対策であることは間違いない。

 このように、世の中はマスクという手軽な対処だけで安心し、これらのコストが高い面倒な対策が軽視されていると言わざるを得ない。

もう1つの危険
 さらにここで注意すべき危険な兆候がある。それは原因帰属の誤りによる危険である。原因帰属とは、何らかの事象の原因をどこに求めるかという認知的プロセスのことである。

(中略)
 同じようなことが、新型コロナウィルスパニックのなかでも起こってはいないだろうか。人は不安になったとき、そしてその原因がわからなかったり、どこにももっていきようがなかったりすると、「共通の敵」を作ってそれを攻撃することで不安を鎮めようとする。

 ネット上で起こっている「中国叩き」や「陰謀論」がその最たるものである。もちろん、この新型肺炎は中国発のものであることは厳然たる事実だ。しかし、中国人全部を締め出したり、中国人全員を危険視することは、危険な差別意識につながる。

(以下略)
原田 隆之(筑波大学教授)
新型肺炎を巡る「不安」の正体を探る記事。筆者の原田隆之・筑波大教授(心理学)は、記事冒頭で「専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」と問いを設定し、それに対して理路整然と分析しています。ある程度説得力のある内容だとは思いますが、原田教授自身が設定した問いに照らせばこそ、ひとつ重大な見落とし・欠陥があると言わざるを得ず、「いかにも大学教授的だな」という感想を禁じ得ません。

専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」という問いは、専門家と一般人との間での知識・理解の齟齬が生じている原因、コミュニケーションが不完全になっている原因を問うことと等価であると言ってよいでしょう。専門家が科学的見地に則って正しく事態を分析し、それを広報しているにも関わらず、一般人がそれに耳を傾けようとしないわけであり、コミュニケーションが成り立っていないということに他なりません

このことを分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等を分析することはもちろん大切なことではありますが、「コミュニケーションが成り立っていない」という点においては、それだけでは中途半端・不十分であり、情報の「送り手」である専門家の側についても分析が必要があるはずです。しかし、原田教授の分析は、一般人の非合理性に関する分析に留まっています

いや、もっと言ってしまえば、情報の「受け手」である一般人の心理状況さえも十分に分析しているとは言い難いでしょう。新型肺炎に不安を覚えている人の具体的で典型的な言説を取り上げるわけでもなく、記事の大部分が心理学の概念説明に留まっており、現実に起こっている現象がまるで「添え物」のように扱われています。現実の出来事を概念を使って説明しているというよりも、概念の実例として現実の出来事を紹介しているというべき内容です。これでは「教科書」です。

世論、すなわち人間の言動を分析しているにもかかわらず、当の人間が何を思っているのかに迫ろうとしておらず、それこそ動植物や微生物を離れたところから双眼鏡または顕微鏡で観察しているが如き筆致なのです。原田教授が自席に腰を掛けたまま、相手側の視点に合わせてみることもせずに自分の視点だけで記事を書きあげたことが透けて見えるようです。

当該記事のコメ欄を見るだけでも少しは世論調査になるでしょう。
未知のものに不安を感じるのは人として当然の事だと思います。
二転三転する専門家やWHOの発表を聞いて安心できる要素があるのなら教えて頂きたい。
別の記事になりますが、新型コロナに怯える中国での生活、一変した上海の今のコメ欄にも同様の書き込みがあります。
もしも家族が感染したらと思うと気が気ではない。


この一言に尽きる。日本のワイドショーでは、男性の専門家たちがこぞって心配しすぎるなと言っているが、本人や家族が感染しても同じことを言うのだろうか。
未知のウィルスに専門家もクソもないわけで、信用してはいけない。
コメ欄に寄せられているこうした無名の一般人の意見を素直に読み解けば、一般人が科学者としての専門家の科学的な指摘に耳を貸さないのは、コストが高い面倒な対策が軽視されている」とか「原因帰属の誤り」、つまり、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」たる専門家が軽視されているためと言えるでしょう。要するに、大多数の科学者が言うことが信用できないわけです。

このことは、昨年10月12日づけ「「地球平面説」支持者が増えている事実が示すこと」でも論じました。当該記事は、「地球平面説」なる荒唐無稽な前近代的世界観を本気で信じている人が無視できない数存在している根本を問う内容ですが、その中で私は、「人々を説得する際、エビデンスや事実だけでは十分ではない(中略)近代科学を広める人々が「論理」に頼りすぎて「信頼」と「共感」のコミュニケーションに失敗した可能性を指摘している」という引用元記事のくだりを出発点として、科学者においては理論構築の自己満足に浸るだけでは不十分でありそれを広く人々に浸透・納得させて初めて科学者たり得るというべきなので、理論構築には論理的厳密さは最重要ではあるものの、科学的な知識や理解を広める過程は、自分以外の他人との交流・意見交換を伴う点において「対人活動」であるとも言えるとしました。

科学者は、証拠を論理的に説明すればよいというわけではないのです。科学者同士であればそれでも通じるのかも知れませんが、一般人に知識を浸透させるためには、それだけでは不足なのです。広報活動を対人活動として捉え、その特性に合わせた「伝え方」に注意する必要があるのです。「伝え方」上手のエセ科学が、しばしば本家科学を上回る浸透っぷりを見せるのも、本家科学の足りないところを示しているといえるでしょう。

その観点から当該過去ログで私は、地球平面説が一定程度広まってしまっている現状は、地球平面説信奉者の主張に耳を傾ければこそ科学者の対人活動が不足していたことを示しているのではないか、「科学への不信感」というよりも「科学『者』への不信感」が、荒唐無稽な主張に「説得力」を与えてしまったのではないかとしました。その上で、科学的主張を浸透させるためにはまず、科学『者』が信頼されるようになるべきとしました。17世紀が「科学革命」の時代なら、21世紀は「科学者革命」の時代というべきなのです。決して、一般人側の知識不足・勉強不足等にのみ帰結させてはならないのです。

このように考えると、上掲引用記事における原田教授の分析が如何に「中途半端」なのかが見えてくるのではないかと思います。

以下のやりとりも興味深い。
情報が少ないから警戒するのは当たり前。
パニックを避けたいなら、ウイルスに関しての正確な情報をどんどん出せば良いだろ。
一度免疫が出来れば、後は大丈夫なのかを知りたいわ。

情報はどんどん出てきてます。
ただ、判明した順に出てくるのです、当然ですが。だから小出しにしているように聞こえてしまう。
学者はわからないことはわからないと言ってしまいます。当然なのです。
一般人が欲しい情報というのは結局結論のみなのです。そんなの終わるまで出るわけないのです。

一般人が求めている情報と専門家が発信している情報に「需給のズレ」があるので、需要サイドとしての一般人が不信感を持つということです。歯切れのよい結論を欲している人に対して、よく言えば「理路整然」と、悪く言えば「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」を展開すれば、反発や不信感が募るのは自然な流れでしょう。

さて、「専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」という問いに私なりに答えを出すとすれば、科学者としての専門家と一般人の間でのコミュニケーションが成り立っていない点において、その原因を分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等と情報の「送り手」である専門家の側の双方について分析する必要があるが、後者にスポットライトをあてるならば、科学的見地が軽視されているのではなく、科学「者」たる専門家が軽視されているがためだと考えます。そしてその原因は、(1)科学者の対人活動としての広報の不足及び、(2)一般人が求めていることに対して科学者が正面から応答しきれていないためであると考えます。
posted by 管理者 at 23:42| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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