2020年05月09日

自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?:自粛警察の弊害を乗り越えるために問題の所在を正しく設定しよう

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200508-00000005-pseven-soci
「自粛警察」が暴走 正義中毒に陥らないためにすべきこと
5/8(金) 7:05配信
NEWS ポストセブン

 コロナ自粛の長期化により、営業する店舗に匿名で貼り紙をしたり、外出する人たちに過剰に自粛を求めたりする市民の行為がエスカレートしている。過去の震災時にも起きたこうした“不謹慎厨”がこれ以上広がらないためにはどうすればいいのか──。同志社大学政策学部教授の太田肇氏が持論を展開する。
 * * *
 新型コロナウイルスの蔓延により長引く自粛生活で、国民のイライラが募ってきた。それをぶつける先が、世間で「悪者」扱いされている人たちだ。

(中略)
 正義の名のもとに相手の落ち度や非協力な態度をとらえて一方的に叩くのは、学校や職場で起きるイジメの典型的なパターンである。

 学校では校則を破る子や共同作業をサボる子が、職場では残業せずにサッサと帰る社員や、空気を読まない社員が周りから仲間外れにされたり、嫌がらせを受けたりする。それと同じことが、いっそう危険な形でいま各地に広がっているのである。

◆日本文化、日本人の美徳に潜むリスク
 人は自分の価値観や行動規準に合わないものを排除することによって心の安定を保とうとする。また共通の敵を見つけ、一緒に攻撃することで仲間どうしの結束を強めようとする。そこに「正義」という後ろ盾があり、「正しいことをしている」という思い込みがあれば良心の呵責はなく、他人の攻撃にブレーキがかからない。「正義中毒」と呼ばれるように、正義感の暴走は一種の病理現象である。

 考えてみれば、それは日本文化、日本人の美徳とされているものと隣り合わせだということがわかる。文化や美徳のなかに、「正義中毒」に陥りやすい危険性が潜んでいるのである。

(中略)
 では、私たちが「正義中毒」にかからないようにするにはどうすればよいのか。

 まず自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚することである。たとえばパチンコ店に通う客を非難する一方で、自分も感染リスクのある満員電車で通勤しているかもしれない。また他人の問題発言をネット上で罵倒する行為が、個人の人権侵害という、問題発言よりはるかに重大な「不正義」に当たる場合もある。

(中略)
◆暴走にブレーキをかけるのは誰か

 問題は、誰がその役割を果たすべきかである。

 行政が強制的な命令や罰則ではなく、「お願い」や「自粛」という方法をとる以上、「自粛警察」や「正義中毒」のような存在が現れることは当然予想できたはずだ。さらに自粛に従わず営業を続けるパチンコ店の名前を公表したり、高速のパーキングエリアで職員が他府県から来た人の検温を実施したりするなど、行政がある意味で行き過ぎた行為を誘発するようなことを行ってきた。

 またマスコミも、自粛要請にしたがわない人たちを執拗に追いかけて詰問するなど、彼らを「悪者」扱いしているケースが多々見られる。したがって「正義」の暴走にブレーキをかけるのも彼らの責任ではないだろうか。

 いずれにしろ日本社会はその性質上、このようなリスクを常にはらんでいること、そして今回の場合、憎むべき敵はコロナだということを改めて確認しておく必要がある。
■自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?
評価が難しい論考です。「正義の名のもとに相手の落ち度や非協力な態度をとらえて一方的に叩くのは、学校や職場で起きるイジメの典型的なパターン」と言うのは、そのとおりであるし、「自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚する」というのも、私も常日頃から申し述べていることであります。しかしながら、これだけ多くの人々が「自粛警察(自粛ポリス)」に乗り出している背景を単に「長引く自粛生活で、国民のイライラが募ってきた」とすべきなのか、自粛警察を単なるフラストレーション解消の手段として位置付けてしまってよいのかという強い疑問があります。

今回に限らずSNS全盛時代の近年は、容易に炎上騒ぎになるものですが、その動機としてしばしば、「自己の不安やフラストレーション解消の手段として他者を攻撃しているのだ」といった解説がなされているように見受けられます。

「心に余裕がないから、他人を攻撃する。心に余裕があれば、他人を攻撃することはない」――心に余裕がないから八つ当たり的に他人を攻撃するという理解は、科学的に正しく理解も可能な見立てです。しかし、「心に余裕があるからこそ、他人の行動に目をやって、それについて自分なりの善悪判断ができる」とも考えられないでしょうか?

炎上騒ぎというものは、間近で見てみれば分かりますが、「お祭り」騒ぎです(そもそも、いまでこそ「炎上」と言いますが、一昔前は本当に「祭り」と呼んでいたくらいです)。2ちゃんねるの専門スレを中心に炎上騒ぎが展開されていた一昔前を振り返ると分かり易いと思いますが、炎上騒ぎの現場には妙な高揚感があるものです。決して、心に余裕のない人たちが八つ当たり的に攻撃しているといった「暗い」ものではありません

私などは、心に余裕があって自分が絶対的に正しいと確信している人が、心に余裕があるからこそ、他人の行動に目を向ける余裕があり、そして「正義は何をしても許される」と思い込んでいる(歪んだ正義感)からこそ、手加減せず徹底的に「敵」を叩き潰すゆえに、炎上騒ぎが起こると考えています。「あの」高揚感は、己が確信している正義を自らの手で実現させつつあることに対する高揚感であると考えています(よかれと思って、正しいと思ってやっていることが実現しそうなときって、ワクワクしますよね?)。

■文化大革命的吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきもの――他人に無関心になったらそれそれで大問題
問題の所在がどこにあるのかを注意深く設定する必要があります。

私は、社会共通の課題に対して草の根レベルで庶民が結束し、互いに不備・不足を指摘し合う関係性自体は、重要なことだと思います。SNS等で見られる道徳的糾弾行為に対して「リベラル」な人たちはよく、「他人のことに口出しするべきではない」という主張を展開しますが、私はそうは思いません。違うと思うことは「私は、それは違うと思います」と言ってよいと思います。社会共通の課題を達成すべきときに「他人は他人だから、私の知ったことではない」という心構えが増殖するのは、逆に大問題です。

「他人のことに口出しするべきではない」などと言うのは、お上品ぶっているだけ。この手のブルジョア「個人」主義的な人間観・社会観は人間存在の社会性を希薄化させるものであり、その行き着く先は社会的存在としての人間性の喪失及び社会共同体の瓦解でありましょう。

この観点を自粛警察問題についても適用すれば、この状況下でも開店している店舗等に対して「営業を自粛するべきではないか」という意見を持ちかけること自体は、そこまで非難されるような話ではないように思います。自粛警察が問題になっているのは、結局のところ、「やり方」でありましょう。非難すべきは、社会共通の課題達成のために互いに不備・不足を指摘し合う関係性でありません。文化大革命を彷彿とさせる吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきものであります。

思い起こせば、いわゆるバイトテロに対する吊るしあげは、もとはと言えば確かにバカなtweetをした人が悪いに決まっていますが、「だからといって、そこまでやらなくても・・・」というような徹底的な追い詰めが展開されることが多々あります。あれは、方法と程度が度を過ぎています。

その点、「自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚する」という処方箋には全面的に賛成であります。自粛警察官に「なる」過程はさまざまあれども、自粛警察官は「俺様正義の絶対視」という点では共通点を持っているので、それへの処方箋は「自分にとっての正義だけが正義ではない」こと、「問題のある行動をとっている他人にも、それなりの事情・理由があってやっている可能性がある」ことを深く理解することなのです。このことを理解すれば、追及するにしても、その方法と程度に常識性が担保されるでしょう。

■「自覚」だけでは足りず、対話が必要だ
ただ、これはとても難しいことであります。これらの処方箋は結局のところ、「自分の知識や理解力、想像力では思いも及ばないケースがあり得る」ことを前提にする心構え、もっと言ってしまえば、「自分は物の道理が分からないバカである」という前提に立つ心構えだからです。これは、「自分の頭で合理的に考え、理解できることだけを基に判断する」という近代理性主義の考え方とあまり上手く合致しません。それ以前に、自分自身を「バカである」と位置づける心構えというのは、なかなかできるものではありません。

また、「自分の知識や理解力、想像力では思いも及ばないケースがあり得る」と思って色々と可能性を検討してみたが、他人の側が本当の意味で問題児だったということだってあり得るでしょう。社会は共同体なのだから、なんでもかんでも「寛容」に許せばよいというものではありません。

「自分がバカだ」という可能性もあれば「他人が問題児だ」という可能性もある――ひとつひとつのケースがどちらに該当するのかは、一概には言えないものです。この2つの可能性に配慮しながら、社会共通の課題達成のために互いに不備・不足を指摘し合う関係性を構築するためには、私は「落ち着いた対話」しかないと考えます。落ち着いた対話をする中でのみ、自分の方がバカなのか相手の方が問題児なのかがケース・バイ・ケースで見えてくることでしょう。

その点、この記事は「対話」というキーワードが出てきていないのは、極めて残念であります。「暴走にブレーキをかけるのは誰か」という小見出しを付けておきながら、ウヤムヤな内容に終わっています。これはおそらく、記事が評論家的・鳥瞰図的な立脚点に立っており、抽象的で具体性に欠けているからでしょう。「人は…」とか「日本人は…」といったかなり大雑把な概念ばかりを持ち出しているのがちょっと気になってはいましたが、案の定、分析としては何となくそれっぽく出来上がってはいるものの、解決策において具体性のない話に終わってしまいました。

対話に乗り出すためには、まず「気持ちを落ち着ける」ことが必要です。頭に血が上っているときに「対話」を始めようものなら、単なる罵り合いになるだけでしょう。「怒りのピークは6秒間」といいます。何事においても大切なことだと思いますが、まず一呼吸置くことが必要です。第一歩は意外と簡単なことです。
posted by 管理者 at 22:44| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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