2020年06月16日

「正義の暴走」への注目、すなわち「ポジティブな感情に基づく行動がネガティブな結果を生んでいる」ということにスポットライトが浴びるようになった

https://news.yahoo.co.jp/articles/0e4782c703405029e7099ce37f524b32d8f9aead
多発する「自粛警察」の全貌…背景に「正義の暴走」と「嫉妬の発露」
5/30(土) 6:31配信
現代ビジネス

(中略)
自粛警察の背景に「正義の暴走」と「嫉妬の発散」
 それにしても、「道徳警察」はどんな人間がやっているのか。それがわかってきたのが、今月の特色でもある。
 
 東京都豊島区では、飲食店2店舗のドアに「営業するな! 火付けるぞ!」と書いた段ボールが貼り付けられる事件があったが、その犯人は、同区役所職員の男性だった。警視庁によると「感染者が増えていた恐怖から、間違った正義感を持ってやってしまった」という(NHK、5月22日)。

 同じく東京・高円寺では、かねてより「次発見すれば、警察を呼びます。 近所の人」「態々カーテンで目隠ししてまで営業して協力金請求しようと思ってませんよね? これで請求したら詐欺罪か偽証罪になりますよ」などの張り紙がライブハウスや飲食店に貼り付けられる被害が出ていたが、ある飲食店の店主がその犯人と疑われている(女性自身、5月11日)。

 後者は特定されたわけではないものの、日ごろの嫉妬が防疫という大義名分を得て、嫌がらせ行為に発展したようだ。

 「自粛警察」の背景にはこれまで、「正義の暴走」と「嫉妬の発散」があると指摘されてきた。この2件には、それがまさに当てはまる。感情に踊らされないためにも、自分のなかにもそういう部分がないかどうか、胸に手を当てて考えてみる必要がありそうである。

(以下略)
自粛警察を筆頭とする自警団的現象の背景は、長きにわたり「自己の不安やフラストレーションを解消するための手段として他者への攻撃がなされている」といった具合に理解されてきました。「心に余裕がないから、他人を攻撃する。心に余裕があれば、他人を攻撃することはない」という人間観が根底にある見立てであります。

これに対して上掲記事を筆頭に最近、自警団的現象の背景について「正義の暴走と嫉妬の発散」という2つの動機から説明されるようになったのは、実に画期的な出来事です。「嫉妬の発散」だけで説明されてきたところ、ついに「正義の暴走」という見方も出てきたのです。

埼玉大学の一ノ瀬教授は、下記記事において更に「正義の暴走」の実態を詳しく解説しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5f6289af9fb961aa1b9c37fe228a1f4135b4c64
自粛警察「執拗すぎる相互監視」を生む根本要因
6/14(日) 5:45配信
東洋経済オンライン

 新型コロナウイルス感染症拡大に伴って、日本で「自粛警察」が広がった。市民の相互監視とも言えるこの状況に警鐘を鳴らす声も多いが、戦前との比較で危惧を表明する専門家がいる。近代日本の軍事史に詳しい埼玉大学の一ノ瀬俊也教授がその人だ。

 「かつて太平洋戦争を遂行させるために作られた『隣組』と共通するところがある」。戦後75年を迎えようとしてもなお、人々の意識が変わっていないという。その核心は何か。一ノ瀬教授に聞いた。

■「人の役に立ちたい」欲求

(中略)
 「隣組では、戦争を批判するような発言を住民が聞きつけて、憲兵や特高警察に密告する行為はよく見られました。今と共通しているのは、通報する人たちが『お国のため、全体のために』と考え、よかれと思ってやっている点です。いわゆる自粛警察をやっている人たちはそれが行きすぎて、個人の自由や人権を損なう事態を引き起こしている。そのへんがかつての隣組と共通している。『お国のため』という大義名分を得て、人権弾圧などがエスカレートしていくわけですね」

 今年8月、日本は戦後75年の節目を迎える。社会の中核を担う世代は着実に交代していっているのに、住民が相互監視するような社会は繰り返されているように映る。その原因は「人間の本質にある」と言う。

 「人間の中に『人の役に立ちたい』『みんなに貢献したい』という欲求はいつの時代にも存在します。それがちょっとしたきっかけで、変な方向に暴走する。人間の本質や性格は何年経っても変わりません。コミュニティーの役に立ちたいという思い、それ自体は今も昔も悪いことではないんですが……」
(以下略)
ここで指摘されている「人間の中に『人の役に立ちたい』『みんなに貢献したい』という欲求はいつの時代にも存在します。それがちょっとしたきっかけで、変な方向に暴走する」という見解は、「自己の不安やフラストレーションを解消するための手段」といった旧来型の「ネガティブな動機」による自警団的現象の背景説明とは明らかに異なるものです。

「外出自粛は必要だったのか?」という問いに対する科学的回答は依然として提出されていませんが、緊急事態宣言が発出された当時に知られていた知識や認識に基づけば、「やむを得ないことだった」と言えるでしょう。ウィルスは細菌ではなく空気中で勝手に増殖するわけではないので、新型コロナウィルス感染拡大対策においては、対人接触機会を減らすことはどうしても必要なことでした。そして、ウィルスは「人を選ばない」ので、全国民(外国人含む)が対人接触機会削減に参画することが必要でした。

そう考えると、対人接触機会削減を国民的キャンペーンとして展開することは「やむを得ないこと」であり、「自粛破り」はその対極にあるものだと言えるでしょう。それゆえ、自粛破りを問題視することは、一概に悪いことだとは言えないでしょう。社会共通の課題に対して草の根レベルで庶民が結束し、互いに不備・不足を指摘し合う関係性自体は、重要なことだと思います。あの状況下でも営業を強行していた店舗等に対して「営業を自粛するべきではないか」という意見を持ちかけること自体は、そこまで非難されるような話ではないかったでしょう。

5月9日づけ「自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?――自粛警察の弊害を乗り越えるために問題の所在を正しく設定しよう」でも論じたように、自粛警察等の自警団的現象の問題は結局のところ、「やり方」の問題であり、文化大革命を彷彿とさせる吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきものだと考えます。

なぜ、動機においてはそこまで非難されるようなことではない「自警団員」たちが問題視せざるを得ないような結末を引き起こすのかという問題を設定し、彼らの動機、それに基づく行動、そしてその結末をそれぞれ分析・評価する必要があります。ここにおいて「自己の不安やフラストレーションを解消するための手段として他者への攻撃がなされている」といった具合に、自警団員たちの動機を扱き下ろすような見方をすることは、事実を明らかにするうえで障害となることでしょう。

「人の役に立ちたい」や「みんなに貢献したい」といった感情自体は、とてもポジティブな感情です。「ポジティブな感情に基づく行動がネガティブな結果を生んでいる」ということにスポットライトが浴びるようになったことは、今回の「自粛警察」の正体を明らかにする上で大切な観点になります。また、それに留まらず、「善意が善なる結果をもたらすわけではない」という古くから言われてきた格言の正しさを再確認し得る点において、社会の理解・社会観の発展においても大きな前進であると言えるでしょう。
posted by 管理者 at 23:07| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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