https://president.jp/articles/-/35456
2020.05.20■ジェンダー問題を「階級闘争」的に捉える認識の誤りを示唆している
大きなジェンダー・ギャップの現実
なぜ女性の地位が世界最低レベルなのに、日本男性の幸福度は異常なほど低いのか
立命館大学教授
筒井 淳也(つつい・じゅんや)
世界各国の男女平等度を表す「ジェンダー・ギャップ指数」で、昨年日本は121位と過去最低を記録。先進7カ国の中では最下位という結果でした。社会学者の筒井淳也先生が、その理由を解き明かします。
(中略)
女性の政治家が増えない理由
なぜ日本には女性政治家が少ないのでしょうか。現状では、政治家のほとんどを中高年の男性が占めています。彼らが引退し、世代交代が進めば女性も増えてくるかもしれませんが、果たして国民がそれを望んでいるのかどうか。今のところ、国民の間で「女性政治家を増やそう」という声はそれほど大きくなっていないように思います。
2018年には、女性の政治進出を促そうと「政治分野における男女共同参画推進法」が成立し、男女の候補者数をできる限り均等にすることが決まりました。しかし、これはあくまで努力目標です。政治家と国民が一体になって「何としてでも女性政治家を増やそう」と思わない限り、真の均等が実現するのはまだ先になるでしょう。
(中略)
ジェンダー・ギャップが女性より男性を不幸にするワケ
さて、ジェンダー・ギャップ指数からは、日本の政治・経済分野への女性の進出度が低いことがわかりました。では、幸福度はどうでしょうか。これは男性が低く女性が高いという結果で、しかも他の国々に比べて圧倒的な高低差があります。
日本の女性の幸福度は、他国に比べてものすごく高いというわけではありません。これほど高低差があるのは、男性の幸福度が異様なほど低いからなのです。ジェンダー・ギャップ指数とは真逆の結果であることを考えると、日本の男性には、社会進出を果たしている分「稼がねばならない」というプレッシャーが大きくのしかかっているのではと思います。
だからこそ、女性だけではなく、男性も含めた全員の働き方を変えるべきなのです。日本では、ここ30〜40年ほどで出来上がったガラパゴス的働き方がいまだ主流です。新卒で採用し、長期間かけて育てた「人」に対して仕事や勤務地を割り振る「メンバーシップ型雇用」もそのひとつ。長時間労働や、意に沿わない転勤を生む原因にもなっています。
それに対して、欧米では仕事や勤務地に対して人を割り振る「ジョブ型雇用」が一般的。仕事の範囲が明確で長時間労働につながりにくく、柔軟な働き方も比較的実現しやすいのが特長です。
近年はこの特長に着目して、ジョブ型雇用を取り入れる企業も増えてきてはいますが現状ではまだまだ少数派です。
ジェンダー・ギャップ解消は男性のためでもある
日本のジェンダー・ギャップ指数を向上させるには、最も足を引っ張っている政治分野と、二番目に足を引っ張っている経済分野で女性リーダーを増やしていくしかありません。
そのためには、政治分野では前述の通り国民の意識変化が必要でしょう。そして経済分野では、各企業における「男性的な働き方の抑制」が重要になります。こうした真の働き方改革が進めば、日本の男性の幸福度も徐々に改善していくはずです。
「なぜ女性の地位が世界最低レベルなのに、日本男性の幸福度は異常なほど低いのか」という題名はよいと思います。ジェンダー問題を「階級闘争」的に捉える認識の誤りを示唆しています。
ジェンダー問題を階級闘争的な枠組みで捉える見方は未だに根強いものですが、こうした手合いは「男性階級の権力が女性階級を抑圧し、不当に私腹を肥やしている」ので「女性解放の階級闘争によって男性階級権力を打倒する必要がある」といった具合にストーリーを仕立て上げます。
そうした枠組みが近年で色濃く表れたのが、一昨年の東京医科大での入試採点操作問題でした。チュチェ107(2018)年8月4日づけ「女性差別の問題は自主権の問題、女性の解放は男性を含めた勤労人民大衆の解放運動」でも取り上げたとおり、東京医科大が行ったことは正確には「3浪以下男性受験生に段階別の特別加点」であり、わりを食ったのは「女性受験生」と「3浪以上の男性受験生」でした。つまり、必ずしも「男性だから」「女性だから」という理由ではなかったのです。
では、東京医科大がなぜそのような採点操作を行ったのかといえば、要するに「こき使える兵隊」が欲しかったからでした。緊急手術がおおく勤務時間が不規則的同大の外科系診療科では、出産や子育てによって勤務時間に制限がかかりがちな女性医師について、「女3人で男1人分」という暴論が罷り通っていたというのです。3浪以上の男性受験生についても、さしづめ、「同じ頭脳レベルなら若い方が無理をさせられる」といったところだと思われます。
この暴論は、決して女性を「狙い撃ち」する問題ではありません。出産や子育てといった人間としてごく自然なことをし、ワーク・ライフ・バランスの取れた生活を送ることに対して「女3人で男1人分だ」と言うのは、「男はワーク・ライフ・バランスが取れているケースの3倍働け」と言っているに等しい暴論中の暴論であります。ブラック企業の発想(それもかなり悪質な類のそれ)以外の何物でもありません。
東京医科大の入試操作問題は、単なる「女性に対する抑圧」に留まるものではなく、「3倍もの働きを要求されている男性に対する抑圧」でもありました。にもかかわらず、マス・メディアを中心に啓蒙的女性運動の枠で理解する向きが多かったものでした。あの報道以降、「今年の医学部合格者の男女比率は?」という報道がちょっとしたお決まりになりつつある点、依然として、男性階級と女性階級との間の階級問題として捉えるむきが残っているようです。
そんな中で発表された筒井教授の「なぜ女性の地位が世界最低レベルなのに、日本男性の幸福度は異常なほど低いのか」という問題提起は、この問題を階級問題として捉える人たちには「意外性」の印象を持たせることでしょう。「女性階級が斯くも抑圧されているのだから、男性階級はさぞ私腹を肥やしているはずだ」という推測の誤りを示唆するものです。
■経済生活のジェンダー・ギャップ解消において「ジョブ型雇用」は解決策なのか?――経済的事情の分析への偏重
引用が長文になり過ぎるので割愛しましたが、経済生活における女性の進出(女性管理職の増加)の遅れについて筒井教授は、「労働時間が長く転勤も多い日本的な労働環境が家事等との両立を困難にするので、女性管理職がなかなか増加しない」と判断しています。
「労働時間が長く転勤も多い日本的な労働環境」は、共働きを困難にする理由にはなっても女性管理職が増加しない理由ではないように思われます。経済的事情が主要変数であるならば、夫婦間でお互いの比較優位を分析し、妻が家族の稼ぎ頭になって夫が専業的に家庭を守るという構図だってあり得るはずです。徹底的に経済的にドライに打算すれば、そうなるはずです。しかし、そうなっていない現実を見るに、たとえば「性役割分業」といった非経済的な説明付けが必要ではないかと思うのです。
前掲記事でも論じた立場から申せば、「女性だけではなく、男性も含めた全員の働き方を変えるべき」という指摘自体は、そのとおりだと私も思います。しかし、筒井教授の理由付けがおかしいように思われるのです。ジェンダー・ギャップ解消において、経済的事情の分析に偏重しています。経済還元論としてのマルクス主義の轍を踏みかねないものです。
ところで、話題を雇用形態にもっていくあたりになってくると、「結局、ジョブ型雇用をプッシュするために無理に話を展開してきただけ?」とさえ思えてしまいます。脱線しますが、少し言及しておきたいと思います。
長時間労働は、担当範囲が曖昧だからなるわけではありません。当ブログでは以前から、長時間労働の代名詞としてのIT業界、特にソフトウェア開発での働き方に注目し長時間労働の問題を次のとおり考えてきました。
チュチェ106(2017)年2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」
チュチェ106(2017)年8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」
ソフトウェア開発が過酷な長時間労働になりがちである要因として、この業界が「知識集約型産業」であり、それゆえに、「ブルックスの法則」が作用するからだと指摘されています。
「ブルックスの法則」とは、フレデリック・ブルックスという、著名なソフトウェア工学者かつ開発技術者が自身のソフトウェア開発経験をもとに提唱しているものであり、"Adding manpower to a late software project makes it later."(遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、プロジェクトをさらに遅らせるだけだ)という逆説的な格言に集約することができます。その理由は、「1人の妊婦が9か月で赤ちゃんを出産できても、9人の妊婦が1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」という喩えに端的に表れているように、知識集約型産業においては、担当業務を分割して皆で手分けして取り掛かることが困難だという特性があるためです。
このことはすなわち、次のとおり整理できるでしょう。
@十分な技術的・知識的習熟を要し、また、マニュアルにはない新しいアイディアをメンバー間ですり合わせる必要がある知識集約型産業の労働では、担当業務の分割・再割り当てが困難であり、特定個人に負担が集中しやすい
A担当業務の分割の困難性ゆえに、増援のつもりでの追加人員投入は、「新人教育」と「相互連絡(すり合わせ)」という新しいタスクを生み出すので、負担軽減という点では逆効果になり得る
Bそしてこのことは、経営者の悪意的な経営判断の問題ではなく、産業・業界の生産方法・生産技術(仕事の進め方)によって客観的に規定されるものである
「ジョブ型雇用は仕事の範囲が明確」などという筒井教授ですが、まずそれは仕事総体を明確に担当者ごとに分割できればの話です。そしてまた、仕事を担当者ごとに分割できたとしても、最終的には成果物は総体としてまとめ直す必要が生じますが、まさにここが「ブルックスの法則」によればデスマーチに転落する入口なのです。
現にソフトウェア開発は、何十人ものエンジニアたちがソフトウェア全体を分担してプログラミングし、各担当を結合させて全体としてのソフトウェアを完成・納品することで成り立っていますが、ソフトウェア全体を分担するという上流工程が難しく、また、結合テストが「無間地獄」というべきものになっています。
大型開発であればあるほど当該プロジェクト一回限りの複数ベンダーが参画する開発チームが編成される(請負だったり人材派遣だったりが混在していて・・・労働法的には無法地帯w)あたり、ソフトウェア開発は相当に「ジョブ型」が進んでいるところでありますが、世間でも指折りクラスの長時間労働な世界である事実を直視すれば、ジョブ型雇用が長時間労働問題を解決する特効薬になるとは思えないところです。
別の例を挙げましょう。同じく知識労働の最たるものである「医師」についてです。昨年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」では、「自己研鑽」なるインチキ理論が蔓延る原因に医師の個人事業主的意識があると論じたものです。
個人事業主的意識は「仕事の範囲が明確」という点においてジョブ型雇用と一脈通ずるものがあると言えます。そこにおいても長時間労働が慢性化しています。ジョブ型雇用が長時間労働問題の解決に資するものであるという見解には、疑問符を付けざるを得ないでしょう。
■政治生活のジェンダー・ギャップ解消において「国民の意識変化」が解決策なのか?――主観的意識の分析への偏重
政治生活におけるジェンダー・ギャップについて筒井教授は、「国民の間で「女性政治家を増やそう」という声はそれほど大きくなっていない」ので、「国民の意識変化が必要」としています。一昨年成立した「政治分野における男女共同参画推進法」について「政治家と国民が一体になって「何としてでも女性政治家を増やそう」と思わない限り、真の均等が実現するのはまだ先」としています。
当ブログでは「政治分野における男女共同参画推進法」を巡る一部リベラル派の盛り上がりについては、昨年3月9日づけ「眼の前の現象にばかり引きずられ、その根底にある構造的問題に考慮が至らない、いかにも「リベラル」が思いつきそうな底の浅いキャンペーン」において、社会構造分析から批判しました。
すなわち、特に地方議会に顕著なことですが、選挙区の実力者・名士(有力後援者)、ないしはそうした人物に可愛がられ強力なバックアップを受けている人物が当選議員であることが男女を問わず、とても多いものです。そうした有力後援者の単なる操り人形でしかないケースもあるものです。
その点、地方議会を含めて「議員」と呼ばれる人々の男女比が男性過多に偏っている事実は、社会全体の男女比がほぼ1:1であり、男性に対して女性が際立って能力的に劣っているという事実がない以上は、統計科学的に考えれば作為的なモノを感じざるを得ないところです。
このことはすなわち、「議員」と呼ばれる人々のうち女性の数が顕著に少ないということは、社会は圧倒的に男性優位社会であるということを示しているというべきでしょう。社会の実力者・名士には男性が多く、また、そうした実力者・名士のおぼえめでたく、お引き立て賜っている人物もまた男性が多いということなのです。
つまり、女性政治家が少ない理由は、社会構造が圧倒的に男性優位だということに他ならないのです。これは社会構造的な問題であり、単なる「国民の意識」で片づけるべき問題ではありません。複合的な理由によって歴史の過程で漸進的に形成されてきたシステムの所産なのです。
その点、筒井教授の「日本のジェンダー・ギャップ指数を向上させるには、最も足を引っ張っている政治分野と、二番目に足を引っ張っている経済分野で女性リーダーを増やしていくしかありません」という啓蒙主義的分析の浅さを指摘せざるを得ないでしょう。今度は先ほどと打って変わって、主観的意識の分析に偏重しているわけです。
実際のところ、まず、歴史の過程で漸進的に形成されてきた男性優位の社会構造及び性役割分業に起因する社会システムにおける生活上のジェンダー・ギャップがあり、それを基盤として政治生活上のジェンダー・ギャップがあると見るべきでしょう。その点、最も足を引っ張っている要素を「政治」だとし、その上でその主たる解決策を「国民の意識変化」に設定しているあたり、筒井教授の言説は、「観念論としてのリベラリズム」の域にあると言わざるを得ません。
■総括
上述のとおり筒井教授の言説は「観念論としてのリベラリズム」の域にあると言わざるを得ません。しかし、ジェンダー問題を「階級闘争」的に捉える認識の誤りを示唆している点において、僭越ながら「観念論にしては進歩的」でもあると評価できるでしょう。
ところで、こういう問題においてこそ、客観的な経済構造に偏重するマルクス主義でもなければ、主観的な意識に偏重するリベラリズムでもないチュチェ思想の独特な位相が際立つように思われるところであります。
