2020年06月28日

コロナ禍に始まる不況下の「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について

■不況下の「買い手市場」における労働自主化闘争の「方法」について
新型コロナウイルス禍に端を発する経済不況・雇用収縮の影響が拡大しつつあります。ついに来てしまった好況期の終わり労働者階級の自主化のための闘い方を転換する時期になりました。

労働者階級の自主化をテーマとして掲げてきた当ブログでは、それを実現するためには、特定の勤め先に対する依存度を下げるか、あるいは、労働者階級自身が勤め先を自主管理することが必要だと述べてきました。

一般的に、Bに対するAの支配は、Aに対するBの依存によって起こります。Bが自立的であれば、Aが支配を画策すれば直ちに逃げ出すからであります。Bが実権を掌握していれば、Aの一方的な横暴は成し得るはずがありません。この「原理」自体は、新型コロナウイルス禍に端を発する経済不況・雇用収縮においても依然として変わりはないでしょうが、原理を踏まえた具体的な「方法」については、直面する現状に応じて調整する必要があります。

特定の勤め先に対する依存度を下げ方として当ブログでは、全般的に好況で人手不足の感があり、「売り手市場」=労働市場において労働者側の交渉力が相対的に強かったここ数年は、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」や同年12月19日づけ「今野晴貴氏の無邪気なユニオン論――ユニオンに「強制力」と「階級的矜持」はあるのか? ユニオンにも警戒せよ!」、チュチェ107(2018)年1月30日づけ「大東建託労組員の夢物語的願望に付き合う日本共産党の著しい後退」を筆頭に「嫌だから辞める」路線を提唱してきました。ワタミやすき家のケースが典型的だったように、一人ひとりの労働者が「嫌だから辞める」と決断したことは、個々の決断としては「小さかった」ものの、あたかもベクトルの合成のように「社会的なうねり」となったのです。

しかしながら、これは「売り手市場」だったからこそ圧倒的な戦果を挙げた闘い方であります。これからの不況の時代・「買い手市場」の時代においては、同様の方法だけで闘うわけにはいかないでしょう。

資本主義市場経済においては景気変動は宿命的であることから、当ブログでもきたる不況を見据えて以前から少しずつこの問題についても考えてきました。すなわち、「労働者階級自身が勤め先を協同的・自主的に管理すること、すくなくとも企業経営に食い込んでおくこと」を主軸におくよう闘い方を転換すべき時期になったのです。

前者の典型例は協同組合経営体ですが、新たに協同組合を創設するならまだしも、株式会社をはじめとする私企業の経営権を労働者が俄かに掌握することは現実問題として困難なので、中長期的な課題として構想すべきものです。他方、後者については、これも難易度が高い課題ではあるものの、場合によっては、それこそ労働運動の延長線上で実現し得るものでしょう。

つまり労働者階級は、好況時においては奴らと袂を分かつ(辞める)ことを主軸におくべきであり、不況時においては、所有権・分配権・指揮命令権といった経営者らの「権力の源泉」に迫り、企業経営に対して労働者陣営の意見が一定程度反映される仕組みづくり(企業経営に食い込む)に主軸におくべきなのです。これは長期的な協同化・自主管理化の第一歩としても位置付けられるものです。

なお、主軸の置き方の話なので、不況時において「辞める」路線がまったく無効になったわけではありません。「辞める」路線は依然として有効ですが、好況時とまったく同じ戦果が挙げられるとは言い切れないので、不況時は不況時で独特の闘い方を展開すべきだということです。

■経営者たちの倫理観の欠如を厳しく論難しつつ、倫理観に欠ける人たちとの交渉で譲歩を期待している中途半端さ
ここで重要になる基本は、「ブルジョアが改心するなどあり得ない」という事実を直視することです。他人を踏み台にすることしか考えていない骨の髄までの利己主義者に理を説いても、心を入れ替えるはずがないのです。

この点、労働運動活動家の今野晴貴氏が次のように主張しています。当ブログでは彼の中途半端な労働運動主義を折に触れて取り上げて批判してきましたが、今回もまた中途半端さが際立っています。労働運動の延長線上で企業経営に食い込むべきところ、そういう方向に話をもっていかず、「労組運動の名の下での陳情活動」に終始しています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/konnoharuki/20200609-00182467/
経営者に倫理観はないのか? 荒れ狂う「非正規差別」と「闘う」しかない現実
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
6/9(火) 12:09

(中略)
 雇用調整助成金は政府が非正規雇用を含む解雇を防止するために進めている政策だが、経営者が非正規にはこれを適用せず、積極的に解雇している実態は、企業の社会的責任(CSR)に反する行為だと指摘せざるを得ない。

 こうした取り扱いは、非正規労働者に対する差別を容認し、ますます労働者同士の分断を促進してしまいかねない。「非正規労働者だから」と、企業から十分な説明もなく、契約を解除されてしまうのは許されないし、正規・非正規で休業補償の額に差をつけることも、社会的に見て、何の正当性もないはずだ。

 コロナに便乗した会社の理不尽な対応には、きちんと声を上げていく必要があるだろう。私たちのもとには、まさに、「コロナの影響で」と一方的に解雇され、生活に困っている派遣労働者やパート労働者が集まり、労働組合(ユニオン)に加入し、会社に十分な説明や解雇撤回を求め、交渉するために動き出している。泣き寝入りしてしまう労働者も多いなか、「納得ができない」、「このままでは生活が成り立たない」という思いから、みな立ち上がっている。

 「非正規だから」と、休業補償が払われない、雇い止めされてしまったという方は、ぜひ下記の相談窓口に相談してほしい。現在も再び感染拡大が進む中、雇用面での矛盾は非正規労働者に押し付けられている。これを許さない社会的な取り組みが、ますます求められている。

(以下略)
「経営者に倫理観はないのか?」という問い、そして「荒れ狂う「非正規差別」と「闘う」しかない現実」という主張――中途半端に倫理観を取り上げ、中途半端に要求展開型の労働運動論を展開しています。経営者らの倫理観の欠如を厳しく論難しつつ、他方で、倫理観に欠ける人たちとの交渉で譲歩を期待している点に、とてつもない中途半端さが現れています

そもそも、倫理観のある経営者らであれば、ドサクサに紛れて非正規労働者を切ったりしないでしょう。労働者を使い捨てること・他人を踏み台にすることに何の躊躇もない骨の髄までの利己主義者と「闘う」ことで、何らかの譲歩が得られるなどと考えるのは、実に甘っちょろいと言わざるを得ません

■そもそも倫理観の問題なのか?
他方、「違法なのは分かっていても、やむを得ぬ事情で非正規労働者を切った経営者」というケースも考え得るものですが、その場合は、倫理観を云々しても意味がないでしょう。競争の強制法則に縛られた個々の経営者たちの「倫理観」に訴えかけることは、観念論的と言わざるを得ない見方です

マルクスは『資本論』の序文で次のように述べています。
ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12

主観的な意志ではなく客観的な構造に徹底的にこだわり抜くマルクスの姿勢は、時に「経済還元論」に成り下がることもあるので、無条件的に引き合いに出すことは慎まなければなりませんが、しかし、客観的な構造が人間行動に対して与える影響は極めて大であることは疑いのないことです。

マルクスの慧眼は、個々の経営者たちの「倫理観」を云々し、社会悪があたかも個人の「悪意」に基づくものであるかのように論ずる「悪人黒幕論」及び、善人が全権を持てば万事解決するといった粛清推進論・救世主による合理主義的救済論を排斥するものです。今般の新型コロナウィルス禍のように、それを凌ぐ局面においては人間の力があまりにも非力な異常事態においてこそ重要でしょう。

なお、「この惨禍を凌ぐ局面」においては人間の力があまりにも非力ですが、かといって人間は「全局面」で非力であるわけでもないでしょう。人間は自主性・創造性・意識性をもった社会的存在(チュチェ思想による人間存在の定義)なので、客観的条件に振り回されて生きるのではなく、自らの自主的要求に従って客観世界を創造的・意識的に改造してゆく世界の力ある主人であります。新型コロナウィルス禍に関して言えば、たとえばワクチン開発等によってこの惨禍を乗り越えようとしています。吉兆も見られつつあるところです。

しかし、人間は「魔法使い」ではないので、乗り越えるためには幾らかの時間が掛かることは事実として受け入れざるを得ません。この点において、「この惨禍を凌ぐ局面においては人間の力があまりにも非力」であることを認めなければならないと考えています。

■不況下における雇用維持要求運動の難しさと危なさ
「荒れ狂う「非正規差別」と「闘う」しかない現実」という主張について更に掘り下げて考えてみましょう。

そもそも、新型コロナウィルス禍において非正規労働者に差別的扱いをする企業にとって、当該の非正規労働者たちは「不要」な存在です。資本主義経済において労働力は商品ですが、今野氏が試みようとしていることは「買い手が『要らない』と言っている商品を何とかして売り込む」ことに他なりません。販路をいかに拡大するかということについて、まさしく経営者たちこそが日々頭を悩ませているところですが、まさか今野氏は街宣活動を展開すれば「不要品の買取り」が実現するとでも思っているのでしょうか?

仮に経営者(企業所有者としての資本家も含む)が街宣活動に折れて非正規雇用の維持を渋々認めたとしましょう。しかし、以前から繰り返し指摘してきたとおり、ドサクサに紛れて非正規切りをしようとする、今野氏の言葉を借りれば「倫理観のない」経営者・資本家らが、その程度のことで真に心を入れ替えるはずがありません。経営者・資本家らは虎視眈々と「巻き返し」及び「回収」を狙っていることは疑いないことでしょう。このことは、昨年11月6日づけ「やはり自主管理的経営を目指すべき」でも論じたとおり、つい昨年発生した東北自動車道・佐野サービスエリアでの労使紛争を巡っても典型的にあらわれた事象でした。

今回の新型コロナウイルス禍に端を発する経済不況・雇用収縮は、そうすぐに解消されるものとは思えないところです。それなりの期間にわたって労働市場は「買い手市場」となり、企業側の交渉力・労働需要独占者としての立場が相対的に強まる恐れがあります。ここにおいて労働力商品の売り手としての労働者階級がいくら「雇用を維持せよ」と叫んだところで、そもそも今般において労働力商品は「不要品」なのだから、その主張は受け入れられ難いでしょう。不況下における雇用維持要求運動には高い困難性があるとみるべきです。

一時的譲歩が見られたとしても、中長期的には「回収」されてしまうことでしょう。あくまでも一時的譲歩に過ぎないものを大喜びで自らの生活費の不可欠な一部に組み込んだ労働者たちは、中長期的には会社と分かちがたく結ばれることになり、より依存を高める結果になるのです。ゆくゆくは足許を見られて札束で頬を引っ叩かれるようになるのです。不況下における雇用維持要求運動には危険性さえあるのです。

■企業経営に食い込む必要性
「闘う労働組合があれば、そんなことにはならないはずだ」というご意見もあるかも知れません。しかし、そうした主張について当ブログでは、チュチェ104(2015)年12月19日づけ「今野晴貴氏の無邪気なユニオン論――ユニオンに「強制力」と「階級的矜持」はあるのか? ユニオンにも警戒せよ!」で批判的に検討しました。労働者に対して不当な支配を展開するブラック企業の力の源泉は「労働需要独占者」としての立場であると分析した上で、無産階級としての労働者階級及び労働組合では、そうしたブラック企業の力の源泉を断つことは出来ないので、期待に反して労働組合が為し得ることは少ないと言わざるを得ないのです。

企業経営の実権は、経営者・資本家らの手中にあります。仮に労使が睨み合いの長期戦にもつれ込んだとすれば、生産手段を私有している経営者・資本家側は圧倒的に有利です。生活の糧を他人に依存している労働者側は圧倒的に不利です。

労働者階級の自主化のためには、自らが権力を握る必要があります。労働者階級は、外野からアジるのに終始するのではなく、企業経営に食い込むことで自らの権利と権益を守るほかに道はないというべきでしょう。所有権・分配権・指揮命令権といった経営者・資本家らの「権力の源泉」に迫り、企業経営に食い込むことで、経営に対して労働者陣営の意見が一定程度反映されるようにするほかないのです。

このことは、労働市場が「売り手市場」であった局面において予め取り組み始めるべき課題でした。労働市場の市況が変化し、労働者階級の交渉力が相対的に弱まってから慌てて取り組むのは遅いようにも思いますが、これ以外に道がない以上は、遅ればせながらでも取り組むべき課題であります。

■ブルジョアに対する幻想を断ち切れていない労組運動の本質的限界
今野氏の中途半端さは、結局、「経営者たちの倫理観の欠如を厳しく論難しつつ、倫理観に欠ける人たちとの交渉で譲歩を期待している中途半端さ」に明白にあらわれているように、ブルジョアに対する幻想を断ち切れていないところにあると思われます。

しかし、このことは程度の差こそあれ、どの労働組合活動家の主張にも見られるものです。その点、資本主義の枠内にとどまる労組運動の本質的限界であるとも言えるかも知れません。

かつてキム・ジョンイル総書記は次のように指摘されました。
帝国主義の侵略と略奪政策は社会制度に基礎を置いているため、大統領が代わったからと言って何か「理性」的な帝国主義になるものではありません。誰が大統領になるかによって帝国主義が侵略的になったり、そうではなくなるなどと見てはなりません。歴代帝国主義国の大統領は、独占資本家の利益の代弁者でした。
『侵略と略奪は帝国主義の変わらぬ本性である』、チュチェ91(2002)年

 経済は社会生活の物質的基礎であります。経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができます。
(中略)
 自立的民族経済を建設するためには、国内の原料・燃料基地を強固なものにしなければなりません。
 原料と燃料を他国に依存するのは、経済の命脈を他国にゆだねるにひとしいことです。
『チュチェ思想について』、チュチェ71(1982)年

いずれも一国レベルのスケールの話ですが、個人レベルでも示唆に富んだ教えです。労働問題を労働者階級の自主権の問題として位置付ければこそ労働者階級は、「自らの脚で立つ」必要があると言えます。

現体制は資本主義なので、単なる雇われ人がいきなり協同経営・自主管理に乗り出すことは現実的ではありません。資本主義の枠内で具体的な闘い方を検討する必要があります。しかし、長期的な視野は「資本主義以後」を見据え、具体的な闘い方と長期的な視野との整合性を保つ必要があります。新社会の萌芽は現社会の過程の内にあるのです。現社会が新社会の準備段階にあたるのです。それゆえ、まずは経営者・資本家らの私有財産としての企業経営に対して関与を強めることから始める必要があるのです。

このことを達成するには長期的な闘いになりますが、つねに総路線を踏まえつつ一歩一歩進んでゆくほかありません企業の経営に対して関与を強めることを意識しない単なる陳情に留まることに取り組んでいる暇は労働者階級にはありません
posted by 管理者 at 23:08| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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