選択的夫婦別姓はなぜ実現しない!? 非合理的な「改姓」制度について考える。「夫が戸籍上の「世帯主」となり、私は「続柄:妻」となったこと。結婚早々、上下関係が決定づけられたような気がして大きな抵抗感を覚えた」からの「改姓すると、時間もお金もかかるものだ……。区役所での手続き中、身体の奥底からふつふつと言い得ぬ怒りが湧いてきた」――落ち着いてください。上下関係だなんて、封建時代ならまだしも、現代においてはそういう意味合いはないと思いますよ・・・なんといっても、多くの人は、伝統や慣習といったものをそう深くは考えておらず、往々にして単なる「前例踏襲」であり、特に意識されることなく何となく続けているに過ぎないのですから。
7/8(水) 20:12配信
VOGUE JAPAN
現在の民法のもとでは、結婚に際して男性又は女性のいずれか一方が必ず苗字を改めなければならない。夫婦同姓の文化が必ずしも悪いわけではないけれど、明治時代以降、別姓の選択肢も与えないまま法で規定している国は世界で日本だけだ。連載第5弾は、女性記者Kさんが自身の経験をもとに、改姓によるさまざまな影響について話してくれた。
(中略)
結婚してみて、ほかにも引っかかることがあった。まず、夫が戸籍上の「世帯主」となり、私は「続柄:妻」となったこと。結婚早々、上下関係が決定づけられたような気がして大きな抵抗感を覚えた。また、免許証やマイナンバーカードに旧姓を併記するための添付書類として、旧姓の免許証や住民票は認められておらず、わざわざ戸籍謄本を取る必要があった。細かいことだが、戸籍謄本は発行するのに700円の手数料がかかり、手続きには丸1日かかった。さらにパスポートの氏名変更となると6000円だ。改姓すると、時間もお金もかかるものだ……。区役所での手続き中、身体の奥底からふつふつと言い得ぬ怒りが湧いてきた。同姓か別姓かを当然の権利として選択できるようになり、夫婦間にもよりフェアな関係性が生まれることを願ってやまない。
(中略)
改姓にかかる無駄な手間やコスト、キャリア上の不都合などを、改姓する側=多くの場合女性にだけ課すことになる仕組みには、どうやっても納得がいかない。何より、慣れ親しんだ自分の名前が変わるという、アイデンティティにも影響を及ぼしかねない人生のビッグイベントを、さも当たり前のように受け入れていいはずがない。皆が納得して自分らしく生きられる社会を実現するためにも、さらに議論を盛り上げていく必要があると痛感している。
VOGUE JAPAN
最終更新:7/8(水) 20:12
主観的に考えすぎ。「自分がどう思うか」ではなく「客観的にどうなっているのか」という視点を持つことをお勧めしたい反応です。
このあたり、昨今のリベラルな社会的ムーブメントに典型的かつ顕著に見られる大きな弱点です。「私は」という主観的見方が先行すぎていて、「事実として」という客観的見方が乏しいのです。
かくも客観性に乏しく、主観ばかりの言説を見ると、「非合理的な「改姓」制度」という主張も怪しく見えてきます。E.バーク以来の近代的な自由主義的保守主義は、中世から続く伝統・慣習について、幾世代にも渡って絶えることなく生き延びてきた事実こそが、その「世代を超えた生命力としての合理性」の証拠であるのに対して、限定合理的な一世代・個人がいう「合理性」など、「素人の思い付き」に過ぎないのではないかと指摘してきたからです。かくも思い込みが激しく、勝手に怒りを募らせている困った人がいう「非合理」など、信用に足るものではありません。
振り返れば、たとえば20世紀に全世界的に隆興した「科学的自然改造」などは、まさしく限定合理的な一世代による「素人の思い付き」でした。一時期は確かに成果を挙げたように見えましたが、それから数十年たって世代交代を迎えた今日、とんでもないツケを後代は支払わされています。また、経済運営についても、産業革命以来の資本主義市場経済の「無政府性」を克服すると称して、意識的計画的な経済運営(計画経済)が20世紀には提唱され実践され、数理計画法などの科学的技法が大々的に活用されましたが、これもまた限定合理的な個人による「素人の思い付き」に過ぎませんでした。21世紀初頭のいま、人類は「合理性」を信奉してきた20世紀的思考から脱着しつつあります。
「合理性」という言葉を、「私が理解できる」という意味ではなく「事実から出発し、事実に合致している」という意味に引き戻す必要があります。このことはすなわち、主観観念論としてのリベラリズムの克服であります。
ちなみに、どうせ「私」ベースで行くのであれば、いっそ更にラジカルに「姓の廃止」を打ち出せばよいところ、そうはならない「中途半端さ」も昨今のリベラルな社会的ムーブメントの弱点というべきものです。以前から述べているとおり、この世のおよそあらゆる「制度的なもの」は、いづれも突き詰めれば「合理的」とは言い切れず、複数の選択肢がある中の一つがたまたま「均衡」に至っているのが実相(経済学における複数均衡論をイメージしてください)であります。
この点を見ても、昨今のリベラルなムーブメントが単に「私が理解できる」に過ぎないシロモノだということが分かります。
また、改姓の問題を「改姓にかかる無駄な手間やコスト、キャリア上の不都合」などと経済生活上の不都合に期するあたり、ブルジョア的卑しさも感じます。姓の問題はアイデンティティの問題・尊厳の問題・自主権の問題ではないでしょうか? 人々の社会政治的自主性を重視するチュチェの社会主義を信奉する立場として、切り口が誤っていると思えてなりません。
これが、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」が超えられない限界なのかもしれません。