2020年11月03日

資本主義がもたらす問題の解決を資本主義の枠内で、若者世代の意識の変化に期待して行おうとすると如何なる無理筋になるか;モーリー・ロバートソン氏の言説を通じて

資本主義がもたらす問題を資本主義の枠内で解決しようすることの限界、社会環境と組織実態に根拠を持たない希望的観測の「根無し草」性を、大物リベラル派人士であるモーリー・ロバートソン氏の最新言説から考えてみたいと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a526835ee1e7ea9def588b98136d779c64e3a3e0
トランプは「原因」ではなく「症状」。トランプ後のアメリカに希望はあるか?
11/2(月) 6:00配信
週プレNEWS

(中略)
■LBJがつくった「アメリカの中産階級」
いよいよ米大統領選挙が間近に迫りました(現地11月3日投票)。民主党候補のバイデン優位のまま選挙戦終盤を迎えた焦りからか、共和党候補であるトランプ大統領の言動、特にツイートはいつにも増して過激、かつデマも含め非常に不規則な内容が目立ちます。

そして、SNSなどでトランプ支持者たちをウォッチしてみても、なんの根拠もない「Qアノン」などの派手な陰謀論や、次元の低いデマが広く飛び交っています。今さらながら、アメリカはここまで壊れてしまったのかと悲しい気持ちにもなります。

こうなった理由はひとつではありませんが、あえて大づかみに申し上げれば、行きすぎた新自由主義がアメリカの「あるべき姿」を長期にわたり壊してきたのだと僕は考えています。公教育、生活・社会インフラ、それらの充実により分厚くなっていった中産階級......。レーガン政権(81〜88年)以降、こうした社会の土台は段階的に解体されていったのです。

(中略)
しかしながら、レーガン以降の歴代政権は、その偉大な財産を少しずつ食いつぶしてきました。制度上、富裕層を優遇することが政治的な優先事項となり、規制緩和や減税と引き換えに公共事業や教育投資が削減されたのです。

もともと「小さな政府」を是とする共和党政権だけでなく、民主党のクリントン政権(93〜2001年)でもこの傾向は同じでした。オバマ政権(09〜17年)は積極的に新自由主義に加担したわけではありませんが、リーマン・ショック後に巨大金融機関を救済した一方、弱者救済に関しては妥協に妥協を重ねるしかありませんでした。

こうして時代を追うごとに中流層の崩壊と政治の分断は進み、いつの間にかリベラルな政治的言論は「いけ好かないインテリのもの」との印象すら生まれ、社会全体がゆっくりと骨粗鬆症(こつそしょうしょう)のような状態になっていったと僕は見ています。トランプという大統領はその「原因」ではなく、あくまでも表に出た「症状」であると考えるべきでしょう。

(以下略)

■諸悪の根源は「政策としての新自由主義」ではなく、その根底にある「経済構造」
トランプは「原因」ではなく「症状」」という見立ては私も以前から、それこそトランプ政権初期から指摘してきたことで異論はないし、現在の状況の元凶を「行きすぎた新自由主義がアメリカの「あるべき姿」を長期にわたり壊してきた」という指摘もおおむね同感であります。

しかし残念ながら、筆者のモーリー・ロバートソン氏は核心に斬り込めていません。「新自由主義」は単なる経済政策であり、これは一定の経済構造に照応するもの・規定されるものに過ぎません。「古典的自由主義」が「レッセ・フェール」のスローガンに象徴される「産業資本主義」に照応するもの・規定されるものであるのと同じです。つまり、諸悪の根源は「政策としての新自由主義」ではなく、その根底にある「経済構造」なのです。

では、「新自由主義」は、どういった経済構造に照応・規定されているのでしょうか? それは、多国籍資本が主体となっている資本主義に他なりません。

多国籍資本が主体となっている資本主義は、多国籍資本の利潤拡大を最重要課題としており、それを実現するために社会の各方面でさまざまな策動を展開し、それぞれの方面・場面でさまざまな呼び名を持っています。あるときは「新自由主義」と呼ばれ、またあるときには「グローバリズム」と呼ばれます。昨年11月12日づけ「グローバリズムとインターナショナリズムの区別がついていない「役に立つ馬鹿」が、いかに諸国民・諸民族の友好と団結を阻害しているか」でも論じたとおり、グローバリズムは国際資本・多国籍企業の儲けを実現するための方便に過ぎませんが、これはまさに多国籍資本が主体となっている資本主義以外の何物でもありません。

つまり、新自由主義とグローバリズムは、多国籍資本が主体となっている資本主義という点においてまったく本質的には同じものなのです。そしてそれゆえ、新自由主義を本質的に批判すれば、同時にグローバリズムをも批判することになります。

しかし、ロバートソン氏の言説には、多国籍資本が主体となっている資本主義そのものへの批判は見られません。このことは著しい言及不足であると言わざるを得ません。

■社会総体は、決心した一個人や少数の意識的前衛だけで対処できるほど「小さく」ない
もっとも、別記事ではこのことについて幾らか触れているので、一貫してまったく考えてこなかったわけではないようです。以前は、「BREXITという「自殺行為」を選んだイギリスと日本の共通点」という記事があまりにも露骨だったように、「グローバル化に乗り遅れれば世界から取り残される」という、まさに「グローバリズムとインターナショナリズムの区別がついていない『役に立つ馬鹿』」というほかない言説を弄していましたが、ここ1年あまりで転向してきたようです。しかし、著しい不足があると言わざるを得ない代物です。
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2020/03/02/110807/
AmazonやFacebookの「ラクさ」と引き換えに人々が奪われたもの
(中略)
グローバリズムにより競争が激化しているのは間違いありませんが、では、大多数の一般の労働者たちはなんのために競争をしているのか?

世界のトップ数パーセントの"上澄み層"を支えながら、ささやかな、パンくずのようなごほうびを得るためだけに争うことを強いられているんじゃないか? やや過激な物言いになりますが、現代にはそんなディストピアが広がっているように思います。

それを止めるには、ただ怒りを表明するだけでなく、やはり自分から生き方を改めるしかありません。先進国の豊かさは途上国の安い労働力に支えられ、ファストフードやファストファッションは搾取の上に成り立つ。

AmazonもFacebookも人々の生活をある意味で豊かにしたけれど、その「ラクさ」に身を委ねた結果、購買意欲や投票行動さえコントロールされている。

しかし、超巨大企業を批判するだけでは、その「ラクさ」を裏からなぞっているも同然です。それよりもその原因を、われわれが自らの内に抱える怠惰さ、そしてその表れである現在のライフスタイルに見るべきでしょう。

(中略)
このシステムに骨の髄までのみ込まれているという無力感も理解できますが、それこそが"麻薬"です。誰かに怒りを向ける前に、自分もまた弱者を生み出す構造の"共犯者"であることに気づくべきでしょう。
ファストフードやファストファッションは搾取の上に成り立つ」という認識自体は正しいものの、「その原因を、われわれが自らの内に抱える怠惰さ、そしてその表れである現在のライフスタイルに見るべき」として主張終わらせてしまうのは、「一人ひとりが決心して行動を革めれば、不都合な現実は改善される」という主観観念論的と言わざるを得ない主張です。

グローバリズムとして表れている競争は、本質的に、多国籍資本が主体となっている資本主義の経済構造が生み出す競争です。マルクスは『資本論』序文で次のように指摘しています。
ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12

個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物」というマルクスの指摘がロバートソン氏に突き刺さります。「われわれが自らの内に抱える怠惰さ、そしてその表れである現在のライフスタイル」を見つめなおすことが悪いわけではありません。そうした反省自体は大切なことです。しかし、それで話が終わってしまっているからロバートソン氏の主張は底が浅いのです。

社会総体は、決心した一個人や少数の意識的前衛だけで対処できるほど「小さく」はありません。身の回り半径数メートルの問題解決であれば、決心した一個人の努力でも解決できるでしょう。スケールの小さい世界では、客観的な制約に対して個人レベルの創造的能力でも抗し得ます。個人レベルの創造的能力を以って人間は、客観的諸関係からの作用を蒙る「被造物」でありながらも、それに反作用的に対抗し、それを改良してゆくことができます。

しかし、社会的問題の解決においては、まさに社会的スケールであるからこそ、それに応じた特別な方法で対処する必要があります。社会総体に対して個人はあまりにも小さい存在です。単なる個人である限りは人間は、客観的諸関係からの作用を一方的に蒙る「被造物」の立場に甘んずるほかありません。

それゆえ、社会を変革しようとする人間は、社会総体の制約に対抗できるだけの力を集結させる必要があります。すなわち、集団的・組織的に対処する必要があるのです。ロバートソン氏の主張には、組織の観点が欠けています

■他者の仁徳による「恵与」と、当事者自らが獲得した「戦果」とを混同する始末
また、「消費者の仁徳が生産者を救済する」といわんばかりの書きも社会変革の方法論として不十分さを指摘しなければならないでしょう。

ファストフードやファストファッションを成り立たせている搾取は、深刻な労働者の自主権の問題・人権問題と結びついていることが往々にしてあります。そうした労働者の自主権の問題・人権問題の解決を「消費者の仁徳」に依存するということは、労働者においては、自分自身の自主権の問題を「消費者の仁徳」に依存するということに他なりません。他人の仁徳に自身の自主権を依存しているわけです。これは真の意味での自主ではありません。

生産において労働者が自主権を自らの力で獲得するための方法については、当ブログのメインテーマでもあることから、「自主権の問題としての労働問題」シリーズで繰り返し検討してきました。まず何よりも、市場における交渉力を持つことが必要です。そしてまた、6月29日づけ「コロナ禍に始まる不況下の「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について」などでも論じたように、搾取によって利益を得ている既得権者たちの権力の源泉に食い込む、すなわち所有権及び指揮命令権に対して労働者たちが一定の影響力を持つようになる必要があります。

ロバートソン氏の言説においては、こういった観点が完全に欠落しており、他者の仁徳による「恵与」と、当事者自らが獲得した「戦果」とを混同する始末です。

■ロバートソン氏の主張の歯切れが悪いことは、資本主義がもたらす問題を資本主義の枠内で解決しようすることの限界を示す
もちろんこのことは、資本主義制度を揺るがしかねない方法論です。ロバートソン氏は以前の別の記事で、極左ポピュリズムについて「資本主義によって世界が回っているという事実も、その仕組みをスクラップしたらどれほど多くの人が"返り血"を浴びることになるかという議論も無視」していると指摘しています。好意的に解釈すれば、彼の歯切れの悪い中途半端な主張はおそらく、資本主義がもたらす問題を資本主義の枠内で解決しようと苦闘しているところにあるのだと思います。たしかに極左ポピュリストと一緒になって騒いでも意味がないとは思いますが、かといって、観念論に後退しているようでは、これもまた意味がありません

■若者世代に「希望の光」は見出せるか?――社会環境と組織実態に根拠を持たない希望的観測
そうした苦闘のため、ロバートソン氏は歯切れの悪い中途半端な主張に終始して観念論に接近するばかりか、ミレニアル世代やZ世代に「希望の光」を見出すまでになってしまっています。初めに取り上げた記事の続きを読んでみましょう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a526835ee1e7ea9def588b98136d779c64e3a3e0
(前略)
そうなると、今度の大統領選の結果がどうあれ、米社会の未来は暗いようにも思えます。しかし、実際には「政治」が分断されているからといって、必ずしも「社会」まで真っぷたつになっているわけではないようです。

前回(16年)の大統領選での「最大多数派」は、共和党派でも民主党派でもありません。実は、1億数千万人に上る「非投票者」が、人数の上では圧倒的に最大です(共和党票と民主党票を足した数とほぼ同じともいわれます)。

この非投票者を対象とした調査によれば、彼ら・彼女らは、政治に関心が高くなかったり、あるいは政治に絶望していたりといった理由で投票には行っていないものの、実生活ではそれなりにリベラルな感覚を持っているようです。

人種やセクシュアリティで人を差別してはいけない、不当に移民を排除すべきでない、女性の人工妊娠中絶の権利は当たり前......。政治的に「極右」に近いトランプやその支持者の言説に気を取られすぎると見落としてしまいますが、やはり米社会の多数派は、多くの人を包摂する寛容で多様な社会を望み、あるいはすでに受け入れているのです。

考えてみれば、そうでなくてはあれだけ多様性色の濃いNetflixなどのコンテンツは広く受け入れられないでしょう。とりわけ「ミレニアル世代」や「Z世代」と呼ばれる若年層では、そうした意識が当然のこととして広く共有されています。

大統領選の結果はまだわかりませんが、「トランプがアメリカを壊した」「もうアメリカは完全に終わった」との声には、あえて異を唱えたい。現代史を俯瞰(ふかん)してみるならば、LBJが植えた"多様性の種"を子供の頃に享受したのがベビーブーマーの最後の世代あたり(僕もそうでした)。

そして、その子供以降に当たるのがミレニアル世代やZ世代です。ここに僕は希望の光を見ています。

なぜ、政治に参加しないのでしょうか。理由は勿論さまざまあるでしょうが、一つには「政治に対する白け」が指摘されるところです。つまり、「投票したところで大して変わりはしない」という諦めです。こうした諦めは、日常生活における多様性容認とは矛盾しません。いくら日常生活において「多くの人を包摂する寛容で多様な社会を望み、あるいはすでに受け入れてい」たとしても、政治参加しなければそうした意識が現実的な力になることはありません。

これもまた別の記事ですが、彼は「この状況を変えられるのは、やはり若い人たちだと思います。若者が自発的に社会を変える意思を持ち、積極的に選挙に行くこと。」と言っています。しかし、若者の政治意識・投票行動は、彼らを育て上げた「教育の結果」であり、それは、彼らが育った近年の社会環境の反映だということを理解していれば、こういう無邪気な発言はできないでしょう。この点もまた、ロバートソン氏の不十分さがよく表れています

どういうことか。すなわち、若者が政治的に無関心で投票率が低調であるということは、そもそも同じ政治的・社会的な志をもった人々が組織的に団結・結束して一つの目標に向かって協同して前進するという社会観の欠如にも原因が求められます。政治や社会に違和感や不満があったとしても、同じ感覚を持った仲間同士が集って意見を交換し合い協同して要求を実現させるという「考え」自体が抜け落ちてしまっているということです。

アメリカのことは私はあまり詳しくありませんが、日本ではこのような状況は顕著です。たとえば、労働組合。団結・結束して協同的に要求実現を図るよりも、「自己研鑽」を積んで個人的に待遇の改善を目指す方が近年は主流になっています。若者世代におけるひとり親方・個人事業主的な発想が進んでいるわけです。

こうした若者世代の「考え方」は、彼らが育った近年の社会環境・生育環境の反映に他なりません。元来、世代交代というものは、新しい考え方の隆興であると同時に伝統的な考え方の継承でもあります。ここでは継承性に注目すべきです。キム・ジョンイル総書記は「知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです」と指摘されました(『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう――朝鮮労働党中央委員会の責任幹部とおこなった談話』)。ここでいう「知識人」は、「古典的労働者」としての肉体労働従事者に対する概念であり、精神労働従事者(オフィスワーカー含む)を指します。近年の若者世代では、オフィスワーカー含む精神労働に従事する者の比率が大きく、ここでいう「知識人」に該当するものでしょう。

社会におけるブルジョア思想・小ブルジョア思想の広まりが、団結・結束して協同的に要求実現を図るという考え方を、若者世代の頭の中から「発想」で追い出してしまっているわけです。生育環境のブルジョア的属性が、若者世代の思想を毒してしまったわけです。それゆえ、どんなに若者世代が「個人」として寛容性・多様性を身に着けていても、それが「社会」レベルの変革につながらなくなってしまっているのです。

「社会の分断」という言葉が頻繁に取り沙汰されるようになりました。異なる価値観どうしの対立が激しくなっていることは確かです。しかし、本当の分断は、彼我の分断・社会集団と個人との分断なのです。「ウチはウチ、ヨソはヨソ」意識なのです。

■社会的分業の進展に伴う有機的連帯の深化が社会の集団的・共同体的結束を再興する道
ドナルド・トランプ氏という強烈な個性の持ち主が大統領に就任するまでにアメリカ社会は変化してきました。この変化を私は「悪しきもの」と見ますが、その諸悪の根源は「経済構造」、すなわち、多国籍資本が主体となっている資本主義です。強度の搾取が展開されており、その犠牲の上で「先進社会」が花開いています。

こうした現状を変革する必要が生じていると考えますが、しかし私は、社会総体は、決心した一個人や少数の意識的前衛だけで対処できるほど「小さく」ないので、集団的・組織的に対処する必要があると考えます。また、強度の搾取を糺すためには、何よりも抑圧された階級・階層自身が力を持ち、彼らが自らの力で己の自主権を守り抜けるようにしなければならないとも考えます。決して、他人の仁徳による恵与であってはならないのです。

そうした諸要求を実現させるためには、やはり現在の資本主義制度そのものを根本から見直す必要があるといえます。たしかに、事実として資本主義によって世界が回っている以上は、その仕組みを安易にスクラップしようものならば、どれほど多くの人が「返り血」を浴びることになるかということを真剣に考える必要があります。しかし、だからとって、観念論に後退しているようでは仕方がありません。

社会変革の吉兆を「若者世代」に見出すことには慎重になるべきであります。なぜならば、若者世代の「考え方」は、彼らが育った近年の社会環境・生育環境の反映に他ならないからです。現に、社会におけるブルジョア思想・小ブルジョア思想の広まりが、団結・結束して協同的に要求実現を図るという考え方を、若者世代の頭の中から「発想」で追い出してしまっているというべき状況にあります。若者世代におけるひとり親方化・個人事業主化が進んでいるわけです。

若者世代が「個人」として寛容性や多様性に理解があることに期待を寄せることには慎重であるべきです。団結・結束して協同的に要求実現を図るという考え方が欠落しているからこそ、まずは何よりも「我々」意識の再興から取り組まなければなりません

この問題については、当ブログではチュチェ思想の立場から、チュチェ108(2019)年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」や7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」などで論じてきました。要点をかいつまんで論ずれば、社会的分業の進展に伴う有機的連帯の深化が社会の集団的・共同体的結束を再興する道であると言えます。

フランスの社会学者E.デュルケム(1858〜1917)によると、社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくといいます。個性を持つ個人が社会的役割を担い、相互補完的に依存し合うように社会が変化してゆくといいます(ひとり親方・個人事業主が活躍してゆく余地は縮小してゆくものと考えられます)。デュルケムは、社会は、有機的連帯による組織的社会に発展すると説いているのです。社会の産業構造の変化は、一人ひとりの考え方をブルジョア的・小ブルジョア的に汚染させつつも、同時に一人ひとりを組織化してお互いの関係を有機的連帯に改変してゆくわけです。社会を再構築する展望はここにあると言えます。

もちろん、客観的条件がそのまま直ちに主体の行動を変化させるわけではありません。この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべきなのです。そうした思想工作を展開するにあたっては、「我々」意識の衰退を歓迎さえすることがある「個人」主義の動向に対して厳重に警戒する必要があると言えます。「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。

また、彼我の分断・社会集団と個人との分断とはすなわち「ウチはウチ、ヨソはヨソ」意識ですが、「多様な考え方を寛容に受け入れる」という考え方は「ウチはウチ、ヨソはヨソ」と表裏一体です。「多様な考え方を寛容に受け入れる」は、実は分断を癒しているようで分断のタネを蒔いているともいえるのです。

ロバートソン氏の言説は、社会環境と組織実態に根拠を持たない希望的観測であると言わざるを得ません。若者世代の「個人的」な傾向に過度な期待を持つのではなく、社会環境と組織実態に根拠を持って期待するべきなのです。主体としての人間と客観的な環境は、相互作用の関係にあります。

■総括
資本主義がもたらす問題を資本主義の枠内で解決しようと苦闘すると、いかに無理矢理な主張になるのかが、モーリー・ロバートソン氏の言説を通じて明らかになったと思います。また、社会環境と組織実態に根拠を持たない希望的観測が、いかに「根無し草」的になるのかが明らかになったと思います。社会変革は、「聖域」なく「地に足をつけて」考える必要があります。
posted by 管理者 at 17:28| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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