2020年12月17日

逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視及び支離滅裂な社会歴史観について

https://news.yahoo.co.jp/articles/33e7e61a3ecb5722ac6ba782e6ff45b654132623
モーリー・ロバートソン氏が「ネトウヨ」批判「どうせ多様性が勝つ」
12/3(木) 14:47配信
東スポWeb

 国際ジャーナリストでミュージシャンのモーリー・ロバートソン氏(57)が3日、ツイッターで「ネトウヨ」や「Qアノン」を批判した。

 モーリー氏は「ネトウヨやQアノンを論破するのは容易」と断じた。これはネット上で展開されるトランプ大統領支持者たちの動きを指しているようだ。

 続けて「日本の多様性、グローバライゼーションを推し進めるのも自民党政権および経済界の既定路線。負け組がどんな罵声を浴びせても所詮は尊王攘夷。どうせ多様性が勝つからお話にならない」とし、勝負はもう決まったとしている。

(以下略)
元のツイートはこちら
ネトウヨやQアノンを論破するのは容易。日本の多様性、グローバライゼーションを推し進めるのも自民党政権および経済界の既定路線。負け組がどんな罵声を浴びせても所詮は尊王攘夷。どうせ多様性が勝つからお話にならない。今一番緊張するのは大河でペリーを演じること。
■ネトウヨって誰のこと?
モーリー・ロバートソン氏のように、内容はさておき紙幅に余裕があるときには丁寧な主張を展開される方でさえ、厳しい文字数制限があるツイッターになった途端にここまで論理展開が雑でケンカ腰のような主張になるとは・・・

まず、ここでいう「ネトウヨ」とはいったいどういう人たちを指しているのでしょうか? きちんと定義づけられるような特徴のある存在なのでしょうか?

もちろん、「いわゆるネトウヨ」であれば私は、それこそ桜井誠氏が"Doronpa"を名乗っていたころから知っていますが、通俗的な意味ではなく、批判的主張の対象とするのであれば、きちんと定義づけられる必要があるでしょう。

■何を根拠に「どうせ多様性が勝つ」と断言しているのか?
また、「どうせ多様性が勝つ」というのは、いったいどのスパンの話なのでしょうか?

負け惜しみの典型として、具体的な期間を明示せずに「いつか必ず・・・になる」という論法があります。以前にも論じましたが、この論法は、いくら持論への反証になるような事実が出てきても、「いや、これは一時的な現象にすぎない。いつか必ず・・・になる」と言い逃れし続けることができるものです。

Qアノンが話題になっているのでアメリカ大統領選挙を例にとって考えてみましょう。「多様性」を掲げるバイデン氏を支持するリベラリストたちと、それに反対するトランプ氏支持者たち(Qアノンを含む)の対決は、両氏の得票率を見るに激しく競り合っています。現時点では一進一退であり、どちらが勝利するのかを確言することは困難です。「多様性」は、人々の間で完全には定着しきっていないのです。

そもそも社会というものは、人間が社会的財貨をもち社会的関係性を取り結びつつ主人として生活を送る集団のことであり、社会は、主人・主体としての人間の自主性・創造性・意識性の水準に基づき、人間の活動によって変化・発展してゆくものです。この変化・発展の軌跡こそが人類史であります。

繰り返しになりますが、「多様性」は、人々の間で完全には定着しきっていません。現代人は「その程度」なのです。そうであるにも関わらず、なぜ「どうせ多様性が勝つ」と断言できるのでしょうか? ロバートソン氏の主張は、社会は本質的に、主人・主体としての人間の自主性・創造性・意識性の水準に基づき、人間の活動によって変化・発展してゆくものであるにも関わらず、人間を超えた「神意」や「宿命」のようなものが人類史を規定しているとでも言わんばかりの主張なのです。なんら科学的根拠のない願望にすぎません。

なお、上掲過去ログでも触れたとおり、具体的なタイムスパンを明言せずとも科学的な展望を示すことは絶対に不可能というわけではありません。たとえばキム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は、人間の本質的特性と社会主義の親和性を指摘し、人間の社会と歴史の主人としての地位・役割を根拠に大雑把な歴史の流れとして社会主義の勝利を論じています。

しかし、ロバートソン氏の今回のツイートでは根拠らしいものといえば「自民党政権および経済界の既定路線」くらいのものです。いまの権力者たちが永遠に同じ利害関係を保ちつつ権力を握り続けるというのであればまだしも、そのような根拠はどこにもありません。

そもそも自民党政権および経済界が目指す「多様性」など、その利益を実現する範囲内の「多様性」であり、官許のものに過ぎません。「グローバライゼーション」に至っては、多国籍企業・国際資本の利潤拡大意図を体よく隠蔽するためのハリボテであり、現実の災禍を誤魔化すためのイデオロギーに他なりません。彼らの利潤拡大において「多様性」や「グローバライゼーション」が障害になれば、それこそ19世紀末から20世紀初頭には積極的に自由貿易を展開してきた欧米列強が世界大恐慌を迎えるや否やブロック経済の殻に閉じこもったように、いとも簡単にお題目を引っ込めることでしょう。そう考えると、「自民党政権および経済界の既定路線」というのは、とても科学的な展望とは言えないものです。

ここにリベラリズムの社会歴史観が支離滅裂である典型的な実例がみられます。リベラリズムは、あるときは客観的条件の制約を無視し、人間の意識や決意を過大評価して「啓蒙された意識の高い個人が決心すれば世界は変わる」といった主観観念論と言う他ない主張を展開します。かと思えば、各時代の人々の思想意識の発展水準を超越して、まるで宿命であるかのように「歴史の流れ」を論じ始めるのです。

■逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視
それはさておき、「多様性の勝利」については私は以前から、F.A.ハイエクの自生的秩序論の立場から基本的に肯定的に見通しているものの、多様性を生命力とする自生的秩序は元来「壊れやすい」ものであり、制度的な枠組みやルールによって保護される必要があるものです。そして、そうした制度的な枠組みやルールの代表例が、ほかでもない「伝統」であります。

しかし、「多様性」を掲げる昨今のリベラリストは、「自分の頭で合理的に考える」などと称して素人の浅知恵で、数世代に渡って人々が試行錯誤を重ねつつ生命力を実証してきた伝統をいとも簡単に破壊しようとします。リベラル流の「多様性」重視は、結果的にはデュルケム的な意味でのアノミーにつながり、逆に多様性を殺すことにつながるでしょう。

また、真の意味で多様性を実現させるためには、消費生活における多様性を保障する必要があります。人間は財やサービスを消費する過程で多様な人格を開花させるからです。消費生活が多様であるためには、生産と流通においても多様性を保障し、人々に「選択の自由」を保障する必要があります。たとえば、食の世界で多様な感性を花開かせるためには、それを支える多様な食材の生産と流通が必要になります。現時点では、人々に選択の自由を保障する経済システムは、市場メカニズムを活用する方法しか知られていません。市場メカニズムを活用する方法論を取る必要があります。

しかし、ブルジョア的市場経済は自由放任かつ形式的平等ゆえに富益富・貧益貧が避けられません。それゆえ、市場メカニズムを活用しつつも、すべての人々の消費生活における多様性を期するためには規制が一定程度必要になります。一国においては生活防衛のための国家権力、国際的にはインターナショナルな機構が必要になるでしょう。

リベラリストたちが愛してやまないグローバリズムは、そうしたベクトルの反対であります。グローバリズムが「述べてきた理想」ではなく「行ってきた結果」を見るに、これは、多国籍企業・国際資本の利潤拡大意図を体よく隠蔽するためのハリボテであり、現実の災禍を誤魔化すためのイデオロギーに過ぎぬというべきであります。私は以前から、国際資本・多国籍企業の儲けを実現するための方便に過ぎない「グローバリズム」と、諸国民・諸民族の友好と団結を保障する「インターナショナリズム」を混同して「グローバリズム」の旗振り役を率先する一種の「役に立つバカ」がいると述べてきましたが、リベラリストは、「確信犯」でない限りは、まさに「役に立つバカ」であると言わざるを得ないでしょう。

つまりロバートソン氏は、ご自分では多様性を実現させようとしつつも実際にはそれが実現しえない方法論にしがみついているのです。
posted by 管理者 at 21:19| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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