コロナ禍、届かなかった10万円 路上で聞いた諦めの声■コロナ禍でまたしても台頭する「自己責任」論
12/23(水) 15:29配信
朝日新聞デジタル
街の様子を一変させた、新型コロナウイルスの感染拡大。神奈川県の路上で暮らす人々にどんな影響を与えたのか、春から取材を続けてきた。
(中略)
■「誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」
「住民登録がないから、10万円が受け取れない」。1人10万円の特別定額給付金の支給期間中、取材で出会った路上生活者の多くが抱えていた悩みだ。給付金を受け取るためには、住民登録をしている自治体から住所地に届いた書類で申請する必要があるが、路上生活者は住民登録をしている自治体を離れて生活していたり、そもそも登録地がなかったりする場合が多い。
「仕方ないよ」「元々もらえると思ってない」。聞こえてくるのは怒りよりも、諦めの声だった。最も支援を必要とする人々に支援が届かない実態が、コロナ禍で浮き彫りになった。
横浜市によると、今年1月時点で、約380人が市内の路上で生活。コロナ禍を経ても、その数が大きく増えたわけではないという。一方、家賃を補助する住居確保給付金の申請件数は4月以降激増した。目に見えないだけで、路上生活の手前で踏みとどまっている人は少なくないのだ。
取材を重ねると、街の見え方が少し変わった。ひじかけを設置して人が横たわれないようになっているベンチや、フェンスで囲われた高架下のスペースなどが目に付くようになった。どれも、路上生活者を排除する役割を果たしている。ベンチで寝ることも許さないという街のあり方が、「10万円をもらえるわけがない」という諦めにつながっているようにみえる。
今月上旬、藤沢市内の路上生活者の「クリスマス会」に参加した。教会の一室に15人ほどが集まり、カレーに舌鼓を打ったり、歌を歌ったり。ビンゴの景品として用意されたのは、保温効果のある下着やレギンス、靴下、カイロなどだ。銀色の保温シートをうれしそうに抱いて帰って行く男性の姿が印象的だった。
「彼らはこういう季節のイベントからも排除される。でも、誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」。支援団体の男性の言葉がずしりと響いた。彼らのために何ができるか、自問しながら取材を続けたい。(土屋香乃子)
(以下略)
もともと「その日暮らし」の人たちにとっては厳しい時期である年末年始の時期が、年内にコロナ禍が終息しなかったために更に厳しいものになっています。行政や支援団体による年末年始の困窮者支援活動は、注目を集めないだけで毎年行われていることですが、ことしは「100年に1回のパンデミック」であるだけに「100年1回の経済危機」であったリーマン・ショック以来の注目を集めています。そして、またしても「自己責任」論が台頭してきています。
以下、私の方で3種類に分類してそれぞれ代表的なものをサンプルとしてピックアップしました。パッと見、リーマンショック後の「年越し派遣村」の頃からほとんど変化が見られず、むしろリーマンショック以上の勢いですべてを飲み込もうとする今般のコロナ禍に際してもなお、それと比べればまだ「軽微」だった頃の理屈を繰り返すあたり、ますます無理筋の度合いは高まっていると言わざるを得ないところです。ひとつずつ検討してゆきましょう。
■何知らないアホが背伸びをしようと想像でモノを語っているが、経験の浅さゆえに粗雑極まる主張にとどまっている
まず、当人たちと面接したわけでもないのに「この手のタイプ」と十把一絡げに取り扱おうとする手合いが最初に目につきました。リーマンショック・年越し派遣村のときにもよく見かけたものです。
この手のタイプに援助というか住み込みバイトあるよとアドバイスしてもなんやかんや断る。生活保護やっても親類に手紙くるから嫌だという。もはやどうしようもないわがままちゃんもいるということがわかった。本当変えようとしたら工場の派遣なり高原野菜の住み込みなりNPOの人と生保申請なりある。当人と時間をかけて面接し、根掘り葉掘り聞いた末に「こいつは本当にどうしようもない奴だ」となったのであればまだしも(もちろん、そういう場合もあるでしょう)、どこぞで聞きかじった怪しい話を基に作り上げたステレオタイプを基に「この手のタイプ」を論ずるほどバカげた主張はありません。
類似品として次のようなやりとり(のうち、自己責任論者側のコメント)も取り上げたいと思います。
> 路上生活になる人には本当に色々いて、妻子を捨てて借金から逃げてたり、何らかの精神疾患を持っていて家族から見捨てられていたり、前科があったり、病気だったり、その全部だったり。「それでも頑張って働いてるのが私達で、働く事を諦めたのがこの路上生活者」――これにはDV被害者に往々にして浴びせかけられる心ない発言にも通ずる発想が透けて見えます。常人が想像し得る「人に言えないこと」など、本当に福祉を必要としている人にとっては「天国のように恵まれた環境」であります。
家族や友人知人と縁が切れてる人たちだから、まあ、そりゃ、人に言えないことが山ほどあるよ。
それでも頑張って働いてるのが私達で、働く事を諦めたのがこの路上生活者ですよ。
子どもの場合は仕方ない、まだ働く能力がないから。
でも大半の路上生活者は成人です。頑張れば働けるのに働かない人の肩を持つ必要はないと思います。
上掲2つのコメントに共通しているのは、身も蓋もないことを言ってしまえば、「何知らないアホが背伸びをしようと想像でモノを語っているが、経験の浅さゆえに粗雑極まる主張にとどまっている」といったところでしょうか。
自分を中心として半径数メートルの世界だけが現実世界であり、自分は知らない世界や容易には想像もできないような世界が現実問題として存在しているなど夢にも思わない人が、依然として少なくないようです。私はよく揶揄の意味を込めて「よく言えば『等身大の感覚』、悪く言えば『素人考え』」という表現を使ってきました。今年のコロナ禍は、そうした発想の人たちが大々的に炙り出される機会でしたが、一年の最後の最後になってこれまた大規模に沸いて出てきたものです。
私はあまり「知ることから始めよう」や「想像力の欠如・視野の狭さ」、あるいは「当事者性」といったお説教は好かないタイプです。「知ることから始めよう」や「想像力の欠如・視野の狭さ」を云々とお説教する人の中には、そういう自分自身も相当に無知で、想像力が欠如していたり視野が狭かったりするものです。特に、「よく知っている」「想像力を膨らませている」というよりも「特定分野以外はまるで無知」や「感情移入している」と言った方が正確な場合、その自称「博識」「想像力」ゆえに逆に現実を見る目が曇ってしまい、全身全霊をかけて底の浅い政策提言を展開してしまうわけです。
そもそも全知全能の人間などいないのだから、あまり偉そうに他人様の知識量や想像力、視野を論評するのは、私は気が引けます。この言い草は、単なるマウント取りのための口実として使われることがあるものですが、私にとってマウント取りというのは、見ているこっちが恥ずかしくなってくることの最たるもの。万に一つも「あいつマウント取ってきたな」と相手に思われたくないので、なるべくさけたいものです。
また、「当事者性」は最近流行りのフレーズですが、当事者だからといって全てを知り尽くしているわけではありません(これもある種のマウント取りの口実なのでしょうね)。むしろ「他人」として少し引いたところから鳥瞰的に物事を観察したほうが、当事者では気が付かないような視点で物事を考えることができるでしょう。「当事者性」を強調し過ぎることは、私は問題解決において逆効果にもなり得ると考えています。
しかしながら、そんな私でも上掲2つのコメントについては、「あなたの知らない現実を知ることから始めましょう」、「現時点で知らないことは仕方のないことだけれども、少なくとも、想像を絶する人生を送ってきた人がいること、そして自分なりにいろいろと想像力を巡らせてもどうしてもイメージがわかない人生、考えても考えても分からない現実が存在しているということに衝撃を受けてみてほしい」、「当事者の言い分を金科玉条のごとく扱う必要はないが、重要資料として扱ってほしい」と申し上げたいところです。
せめて、「生活保護を受けて1年365日すべての衣食住を国家に依存している人たちよりも、1年の約360日を自活的路上生活でしのぎ、年末年始の1週間程度だけ国家のお世話になる人の方が財政負担が少ないのでマシ」という発想になればまだ議論・意見交換を展開する余地がありますが、自己責任論者は叩くこと自体が目的と化しているので、そういう論調にさえなりません。
日本の社会政策をめぐる議論が、そもそも議論を展開し得る余地さえないという絶望的な状況は、基本的にそう大きくは変わっていないように思われます。
■滑稽極まる「支援を受けるに値する資格」談義――そういうあなたも「資格なし」になるが・・・
自己責任論を声高に主張する人たちは、しばしば、「支援を受けるに値する資格」なるものを持ち出してきます。このことは日本国憲法が人権規定として明白に示しているので、いまさら素人があれこれ論ずる余地などないのですが、少なくない自己責任論者は本当にこの議論が大好きです。もちろん、屁理屈をこねまわしてどうにか「資格なし」と結論付けるために他なりませんが。
そうした魂胆がミエミエなのが、次のグループです。
一律給付って、ただで貰えるんじゃなく「納税したから国から支援してもらえる」論です。今般のコロナ禍、特に春先に展開された「国民全員に一律10万円は必要か? 一定の条件を満たした人に30万円でよいのではないか?」という議論において本当によく見られた主張であります。
自分たちが払ってる税金を
少し返してもらってるようなもんだから
税金払ってない人にまで行き渡るのは違う気もする。
これにはコメ欄で秀逸な突っ込みがなされているので、そちらをご紹介しましょう。
>一律給付って、ただで貰えるんじゃなく
>自分たちが払ってる税金を
>少し返してもらってるようなもんだから
>税金払ってない人にまで行き渡るのは違う気も
>する。
ほぉ。
その払ってる人間だけに権利があるという論理なら…
「ガソリン税をたくさん支払うトラック以外道路の端を走れ」
「税金たくさん収めてる富裕層以外インフラ使うなら一礼してからにしろ」
って事で君はいいんだよな?
税金は富の再分配。
多く払おうが
払ってなかろうが
平等でなければ税制自体無意味なんだよ。
>自分たちが払ってる税金を私が言いたいことをほぼ言ってくれています。
>少し返してもらってるようなもんだから
それを言うなら、払った比例分にしなきゃな。。
ホームレスだろうが物買ったら消費税かかるしな
普通の人は1万返ってくるかも怪しいよ
大して払ってない人間に限って税金払ってるからというからタチが悪い
4月20日づけ記事でも書いたように、納税は再分配のためのものであり投資ではありません。納税額の多寡によって再分配の多寡が決まるというのは再分配論としては邪道です。税と再分配の関係は根本的には「能力に応じて納め、必要に応じて給付される」という、ある種の共産主義的な原理に基づいているものなのです。
また、7月17日づけ記事でも書いたように、富裕層は常日頃からたくさん取られて、大してリターンがあるとは思えない境遇にあります。それでも渋々納税しています。一般庶民が路上生活者の当座の生活費にグダグダ言うのであれば、富裕層だって「お前らだってオレたちが稼ぎをガッポリと持って行って、『公共財』だとか言いながら好き勝手に使いやがって・・・」といいたいでしょう。たかが知れた金額を取り上げて「不公平」云々とは、いかに己の視野・感覚でしか物事を考えていないかの証拠であります。
加えて申せば、たしかに現時点では納税していないかもしれませんが、路上生活に入る直前まで納税していた可能性は高いでしょう。おそらくコロナ禍で失業して家を失った人のうち多くは、自営業者ではなく雇われ人だったと思われます。そうであれば、税などは給与から天引きされていたはずなので、納税の義務を怠っていた可能性は低いでしょう。納税できる時期にはキチンと納税義務を果たしていた人たちが、いざ担税能力を喪失したときに逆に国家から支援を受けることは、「自分たちが払ってる税金を少し返してもらってるようなもん」などとノタマうこの理論においても正当なものだと思われますが・・・そうならないあたり、もはや自己責任論にマトモな理屈などないことの証左なのでしょう。
そもそも税金というものがどういった性質のものであるのか分かっていない人たちが、己の視野・感覚だけで公平か不公平かを論じているという、傍から見れば滑稽極まる展開であります。まさに半径数メートルの感覚でモノをいう、よくいえば「等身大」で悪く言えば「素人考え」で天下国家を語る世相を反映した言説。そしてまた、そもそも自分が打ち立てた理論にさえ矛盾しているムチャクチャさ。ここに国家と社会の主人として成熟した人民大衆の姿はありません。
■リベラリスト並みに底の浅い自己責任論者たちの社会歴史観
最後に、リベラリスト並みに底の浅い自己責任論者たちの社会歴史観について触れておきたいと思います。
ホームレスねぇ。これもまたリーマンショック・年越し派遣村のときにもよく見かけました。マクロ的な環境はミクロ的な決意・努力で乗り越えられるという荒唐無稽な発想です。客観的条件の制約を無視し、人間の意識や決意を過大評価して「啓蒙された意識の高い個人が決心して行動すれば運命は変わる」と言わんばかりの主張。まさにグレタ・トゥンベリさん及び彼女を絶賛するリベラリスト並みに底の浅い主観観念論的な社会歴史観であると言わざるを得ません。
仕事選ばずに努力してる人はそこから抜け出せるよ。
コンビニのフリーペーパーを片っ端から当たった事あるのか?
むしろそこまで努力する人は、何処かの面接官の目に必ず止まる。
格好はぼろぼろでも目が活きているはず。
働かざるもの食うべからず
これが資本主義です。
この発想の特徴に関しては、詳しくは昨年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」で論じました。掻い摘んで申せば、リベラリストを筆頭とする底の浅い啓蒙主義的な個人主義的自由主義は、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視するため、社会組織・社会システムが個々人に与える客観的・構造的制約というものを軽視ないしは無視します。換言すれば、リベラリストらは、啓蒙−決心−行動−成果が連続的で「個人が改心すれば世界は変わる」と言わんばかりのビジョンを持っているため、啓蒙と決心との間の葛藤、決心と行動との間にある客観的・構造的制約、行動と成果との間にある因果関係に対してまともに分析を加えようしません。それゆえ、問題の所在を「決心したか否か」や「関係者が善人であるか悪人であるか」に設定してしまうのです。
しかし、人間の存在は社会的・経済的・制度的に規定されているので、個人が決意して努力したくらいで社会的に規定された運命が変わるわけがありません。個人が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まります。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的です。ましてや、たまたま上手く行ったアメリカンドリーム的なサクセスストーリーを取り上げて一般化するようであれば、社会歴史観どころか世界観レベルでデタラメ(統計学さえも分かっていない)だと言わざるを得ないものです。
社会システムはもっと巨大で、社会的な課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。リベラリストらの発想は、社会的に規定される社会的行為と、そういった力学にさらされることのない個人的・家庭内的行為を混同しています。リベラリストらはミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しているわけなのです。
上述したリベラリズムの誤りは、主張の要点と構造がまったく同一である点において、上掲コメントにそのまま適用できるでしょう。特にこのコロナ禍は、リーマンショックなどとは比較にならないくらい甚大な社会経済的混乱を巻き起こしている点、個人の決意や努力くらいで社会的に規定された運命を変えられるわけがないことを更に明白に示しています。その厳然たる事実が理解できないあたり、もはや幼児的万能感にも近い「自己責任」論がいかに荒唐無稽であるかがリーマンショック当時以上に明白になったといえるでしょう。
なお、12月5日づけ「リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」でも論じたとおり、自己責任論と観念論としてのリベラリズムは元々かなり親和的です。アメリカにおける貧富の格差の拡大とそれに起因する社会の分断拡大には、実はリベラリズムの教義が大きく変わっていると近年、(ようやく)さまざまな立場の人たちから異口同音に指摘されるようになってきました。そのことを併せて考えると、必ずしもリベラリズムの立場を取らないであろう人にも、リベラリズムの教義は深く浸透していることが推察されます。リベラリストを筆頭とする底の浅い啓蒙主義的な個人主義的自由主義を乗り越え、自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることを目指す私の立場にとっては、現状は予想以上に深刻であるようです。
ちなみに、上掲コメントには次のような突っ込みが寄せられています。
まあ、その通りなんだけど現状は自助努力だけじゃ無理だから、給付金の10万も届かないんでしょ?「xxだから仕方ない」というのは、思考停止を自白しているようなもの。「自分は、『働かざるもの食うべからず』だと思う」であれば、内容の当否はさておき意見としては成立していますが、「これが資本主義」は意見ではないでしょう。
何でもかんでも資本主義でまとめるのは、何も考えてない証拠。
■総括
3つの種類はそれぞれ、リーマンショック・年越し派遣村のころからそう大きくは変わっていません。リーマンショック以上の勢いですべてを飲み込もうとする今般のコロナ禍に際してもなお、それと比べればまだ「軽微」だった頃の理屈を繰り返すあたり、ますます無理筋の度合いは高まっていますが、それに気が付かずに依然として強弁が続けられているわけです。
■余談
このポエムな表現って要るのかな? すごく違和感。
取材を重ねると、街の見え方が少し変わった。ひじかけを設置して人が横たわれないようになっているベンチや、フェンスで囲われた高架下のスペースなどが目に付くようになった。どれも、路上生活者を排除する役割を果たしている。ベンチで寝ることも許さないという街のあり方が、「10万円をもらえるわけがない」という諦めにつながっているようにみえる。
中学か高校の優等生的なコメントだけれども、何か結論は出たんでしょうか?
「彼らはこういう季節のイベントからも排除される。でも、誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」。支援団体の男性の言葉がずしりと響いた。彼らのために何ができるか、自問しながら取材を続けたい。そんなつもりはないのだろうけれども、実際問題として新聞記者ができることなど限られているのだから、できる見込みのないことを敢えて書いたり、妙なポエム調のものを捻じ込んだりすると、結果的に「弱者に寄り添っているワタシ」を強調するだけになってしまうでしょう。
思いやりは大切ですが、実際に役に立たない「思いやり」は単なる自己満足にすぎず、逆に反感を買うことさえあるので、役に立たなそうであれば最初から表明しないほうがよいでしょう。悲しいことですが、厳しい状況に置かれている人たちは気が立っていることがあるので・・・