2020年12月31日

チュチェ109(2020)年を振り返る(1):新型コロナウィルス禍によって炙り出されたブルジョア「個人」主義者の統制派への大変節とその正体

今年も例年どおり、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。第1弾として、チュチェ109(2020)年の世界史的大事変である新型コロナウィルス禍に関連した記事(新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相)のうち、緊急事態宣言の発出までを振り返ります。

■2月〜3月:「マスク不足」で始まった日本の新型コロナウィルス禍は早くも「強権待望論」と「道徳講釈」を鮮明にしていた
さて、日本の新型コロナウィルス禍はまず「マスク不足」という形で人々を直撃しました。

マスク不足を事実から出発するスタイルで振り返る必要があります。あのときのマスク不足は「世界的な急激な需要の拡大」が根本的な原因でした。新型コロナウィルスの出現によって全世界のそれまでマスクなど着けようともしなかった人たちまで我も我もとマスクを買い求めるようになれば品不足になるのは自明すぎることです。

あのとき国民の憎しみを一手に集めた「転売ヤー」は、あくまでもそうした「世界的な急激な需要の拡大」を機敏に捉えて小遣い稼ぎをしていたにすぎません。しかし、「転売ヤー許すまじ」は「行政は取り締まるべきだ」といった「強権待望論」や、あるいは「転売ヤーが跋扈する日本の国民道徳性・民度は低い」といった単なる「道徳講釈」の方向に向かってしまいました。

果たして闇市は権力的取り締まりで廃絶し得るでしょうか? また、闇市は道徳講釈で廃絶し得るでしょうか? 世論が感情のままに求める政策が実効的であるかどうかを検討する必要がありました。転売規制政策の当否・是非を「善悪」基準で測る議論が広く展開されていましたが、そうした議論は根本的に間違っていました。「転売規制政策は善か悪か」ではなく「転売規制政策は意味があるかないか」だからです。

○「北朝鮮」にも劣る稚拙なマスク転売規制
そこで私は、以下のとおり複数回にわたって検討記事を執筆しました。
・2月10日づけ「キム・イルソン主席の闇市対策に学ぼう:マスク買占め・高額転売を「道徳」や「民度」の問題とし、「権力的取り締まり」を求める言説の低レベルさについて
・3月4日づけ「「北朝鮮」にも劣る稚拙な転売規制要求を展開する日本世論の愚:真の問題である「買占めの発生」には「転売規制」ではなく「配給制の導入」で対応すべき
・3月10日づけ「経済政策の点においても防疫措置の点においても日本政府の政策センスは「北朝鮮」に劣っていると言わざるを得ない:「取得価格を超えるマスク転売」を権力的に禁止する愚かさ等について

当該記事でも言及したとおり、キム・イルソン同志におかれては、チュチェ58(1969)年3月1日づけ「社会主義経済のいくつかの理論的問題について―― 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答」において、闇市・闇取引の存在は好ましくないことであるとしつつも、それを活用せねばならない局面もあるとし、権力的に取り締まったとしても闇取引を根絶させることはできないともした上で、品薄な商品に対する政策を論じておられました。キム・イルソン同志は、行政が権力的に取引に介入しようとしても、買い溜めと高額闇転売は避けられず、そんな取り締まりをしたところで、商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで闇取引を根本的になくすことは決してできないと言明されていたのです。

その上でキム・イルソン同志は、問題解決のためには、結局は品物を多く生産するほかにないとして、人民の需要をみたすほど大量に生産されるようになれば闇取引は自ずとなくなるだろうと指摘されました。道徳講釈を垂れても権力的取り締まっても、そんなことでは闇取引の根本的な解決には至らないというわけなのです。

マスク問題もまったく同じです。いくら「転売ヤー」を叩いたところで事態が改善するはずがないのです。需要に対して供給が限定的だからこそ市場ができるわけです(だから「空気」は、人間の生存に絶対不可欠ですが、需要に対して供給がほぼ無限大なので「市場」は存在しません)。闇市的転売に対する対抗策は、一刻も早く生産を増やす他になく、生産拡大が軌道に乗るまでの間については配給切符制度を導入するのが効果的なのです。配給切符制度によって物資が公平に分配されるようになります。

配給切符制度を導入しないままに購入制限だけ実施すると、4月1日づけ「マスクの分配は、「金持ち順」ではなく「暇人順」でもない「配給制」での対応が必要――たとえ「布マスク1家庭2枚」でも配給制導入という点で進歩」でも論じたとおり、金持ちが財力にモノを言わせて重要物資を買い占めたのに替わって今度は、暇人が暇に任せて行列を作って重要物資をせっせと買い溜めるようになるのがオチです。実際、暇そうなご老人たちが朝から薬局前で行列を作ってせっせとマスクを買い溜めしていたことは、全国津々浦々で目撃証言がありました。やはり、「金持ち順」ではなく「暇人順」でもない「配給切符制度」の導入が必要なのです。

4月19日づけ「ついに「マスク切符制」が導入される!」で取り上げたとおり、幸いにして福井県では配給切符制度が導入され、希少な資源が広範の県民にいきわたるに至りました。残念ながら全国的に大々的に広まることはありませんでしたが、福井県の決断は経済政策上、貴重な経験になったことでしょう。

配給切符制度の導入が大切です。ここにおける対策は決して転売ヤー狙い撃ちの権力的取り締まりではありません。そんなことをしても状況を劇的に改善することはできず、むしろ闇取引が更に地下に潜行して厄介になるだけです。また、決して道徳講釈ではありません。道徳を説かれたところで転売ヤーが改心するはずがありません。経済活動に倫理を求めるのであれば、3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」でも論じたとおり、社会主義を目指すべきであります。

○品薄問題における転売行為は枝葉的な問題に過ぎない
そもそも転売ヤーが存在するがゆえの問題は何であるかというと、結局のところ「買占めの発生」です。買占めが起こることによって品薄になる、物資が十分に行きわたらなくなることが問題なのです。しかし、買占めの発生は転売ヤーだけが原因ではありません。「世界的な急激な需要の拡大」が根本的な原因だからです。マスク不足とほぼ同時にトイレットペーパー不足も発生しましたが、こちらは転売意図の買い占めというよりも、一般消費者のパニック的買占めが主要因だったようです。

買占めの発生が問題の本質であるならば、「買占めをいかに防止するか」こそ政策目的に据えるべきです。買占めの発生という根幹的な問題からすれば、転売は枝葉的な問題に過ぎないのです。

3月4日づけ記事でも書いたとおり、転売規制は実運用的には、官僚の思い付き的な「標準価格」の設定が関の山になるものと思われます。しかし、20世紀の社会主義計画経済の失敗は、まさに官僚が思い付き的な命令・行政処分を乱発して経済が混乱したためでした。そして、こうした混乱こそ転売ヤーが跳梁跋扈する温床になります。

また、3月10日づけ記事で書いたとおり、市場(オークションサイト・フリマサイト)は必ずしも単一ではなく、その価格もまた単一ではありません。割安な市場で仕入れ、仕入れ元を誤魔化しながら(そもそも、大量生産品の仕入れ元・購入元を厳密に追跡することは不可能的に困難です)割高な市場で売り抜けるアービトラージ(裁定取引)的な利ザヤ目的の投機は、この規制が導入されたとしても依然として存在する余地があります。また、単一市場(同じオークションサイト・フリマサイト)内部においても、その価格は常に上下に変動しています。官僚はどのようにして「違法な価格」での転売だと判断するつもりなのでしょうか? 当のマスクがいつ幾らで仕入れられたものなのか、どうやって追跡するのでしょうか?

つまり、アマチュアの転売ヤーは駆逐できるかも知れませんが、裏社会とタッグを組んでいるようなプロの転売ヤーにとっては、この規制導入は、むしろ「商機到来」といったところでしょう。厳格な転売規制によって社会経済が混乱することで、むしろ転売行為が加速するわけです。世論は、自らが提案する政策によって逆に望ましくない結果を得ようとしているわけです。

○結局「転売規制」は効果がなかった
残念ながら転売規制は世論の圧力に負けて導入されましたが、その末路はさっそく現れました。3月12日づけ「さっそく予想どおり。「闇市的なマスク転売を権力的に規制して根絶することは出来ない」という真理にいたるべき」及び3月15日づけ「やはり「転売規制政策は意味があるかないか」こそが核心だった」で取り上げたとおり、予想どおり、隠語を駆使する闇取引に移行し、あっという間に地下化しました。

そんな中、3月28日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:経済政策編」では、そもそも上手く行くはずのない転売規制を更に強化することを求める言説の登場について取り上げました。一個人・一部署・一企業といったミクロレベルのマネジメントと一国家すなわちマクロレベルのマネジメントとの質的差異を無視している点において、こうした主張の核心には、ミクロレベルの感覚でマクロレベルの課題を論じている誤った見解があることを見出しました。

ミクロレベルの感覚でマクロレベルのマネジメントを主張した言説として、私たちは歴史の経験として「主観観念論としてのリベラリズム」と「20世紀社会主義の失敗した計画経済」を思い起こす必要があります。特に純粋な計画経済については既に「死んだ」と思われてきましたが、「素朴」なアイディアの中では依然として生き残っていたわけです。20世紀社会主義の轍を踏むことなく社会主義を実現させようとする立場に立つ者として、新たな課題を発見した思いです。

結局マスク不測の解消は、転売規制導入からかなり経過した後、5月〜6月ごろ(ちょうど「アベノマスク」がようやく届いたころ)になりました。予想どおり転売規制に効果はなかったわけです。

なお、マスク転売規制は現在は解除されていますが、解除直前にはまたひと悶着あったことは記憶に新しいところかと思われます。そもそも資本主義市場経済を採用している以上、具体的なで差し迫った危険がない限り、国民の財産権の自由な処分を国家権力が規制することはできません。しかし、「また不足するかもしれない」くらいの理由で転売規制を継続させようとした主張が市井から上がったものでした。

○マスク不足騒動の教訓
今回のマスク買占め騒動を見るに、日本社会は、キム・イルソン同志が1960年代には既に認識していた水準にも追いついておらず、お手軽な権力的取り締まり待望論及び初歩的な善意悪意論の水準に留まっていることが判明しました。周回遅れの時代錯誤的言説という他ありません。また、転売ヤーが存在するがゆえの問題の本質を見抜くことなく、目の前の表面的な事象に囚われがちであることも判明しました。さらに、資本主義市場経済を採用しているくせに国家権力の導入を求める一方で、統制経済とするには詰めが甘い、まさに3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」のタイトルどおりの反応がでてきたものでした。

これですっかり「火が付いた」私は、これ以降、今年1年を通して「新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相」というテーマを掲げて世論分析を始めるに至りました。

■2月:個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出した
2月も下旬になってくると国内感染者数がじわじわと増加を始め、社会的不安感が増大し始めました。ただ、まだ危機感のない人はまったく平気な顔しており、国民の間でも新型コロナウィルスに対する「温度差」がみられた時期でした。そんな中、感染拡大防止のためのイベント中止について「イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良い」と宣う発言を取り上げて2月25日づけ「伝染病に「自己責任」論は馴染むか?:「社会」意識の崩壊」を書きました。

事態は個人的な風邪症状の問題ではなく、公衆衛生上の深刻な伝染病(感染症)です。よって「イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良い」とはならないでしょう。どのような経路で伝染してゆくのかは当時はまだ不明瞭でしたが、人から人への伝染が連鎖していることは確かでした。そうなれば、「自己責任」で腹を括ったイベント参加者にだけ伝染するわけではない以上は、もはや「自己責任」の問題では済まなくなります。

個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出してくるという事実は、ある種の人たちの間では、いよいよ「社会とは何か」という基本的な認識・理解さえもが崩壊していることを端的に示していると言わざるを得ないでしょう。まさにアノミーと言う他ない一幕でした。

ただ、感染の拡大につれてこうした「自己責任」論は、さすがに徐々にしぼんで行き、いまやほとんど見かけることはありません。このことから、日本の「自己責任」論がどの程度の根深さなのかが見えてくるのではないでしょうか?

■2月〜3月:恐怖の支配と科学「者」不信
止まぬ感染拡大に伴い恐怖が人々を支配するようになりました。恐怖というものは、これからどうなってしまうのか分からないために生じる不安の感情です。その点、恐怖の緩和には科学的な知見に基づく見通しを立てることが有効であります。科学と科学者は人々の恐怖を和らげる重大な役割を担っているはずです。しかし、今回の新型コロナウィルス禍では、人々は科学「者」の見解をなかなか信用しようとはしませんでした

これについては、2月20日づけ「新型肺炎を巡る「不安」の正体は、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」が軽視されているため」及び3月20日づけ「「なぜ岡田教授や大谷医師がテレビで重宝されるのか」を探究するようになってこそ対人活動としての科学普及活動が再興する」で論じました。いずれも筑波大学の原田隆之教授に対する突っ込みです。

原田教授は、科学者の発信が一般人に届かない理由について心理学的な分析を試みましたが、一般人の「非合理性」に関する分析に留まっていました。

専門家が科学的見地に則って正しく事態を分析し広報しているにも関わらず、一般人がそれに耳を傾けようとしないいうことは、コミュニケーションが成り立っていないということに他なりません。このことを分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等を分析することはもちろん大切なことではありますが、「コミュニケーションが成り立っていない」という点においては、それだけでは中途半端・不十分です。情報の「送り手」である専門家の側についても分析が必要があるはずです。

大学教授の分析に対してヤフコメを論拠にするのもどうかとは自分でも思いますが、当時ヤフコメでは「二転三転する専門家やWHOの発表を聞いて安心できる要素があるのなら教えて頂きたい」や「もしも家族が感染したらと思うと気が気ではない。この一言に尽きる。未知のウィルスに専門家もクソもないわけで、信用してはいけない。」といった意見があふれかえっていました(たしかにそうだった。私も錯乱はしなかったけど心配ではあった。今のところ新型コロナウィルス禍を生きのびている者として、当時の空気感を肌で知っている者として私は、こうした気持ちはよく分かる)。

つまり、科学が信用されていないというよりも、科学「者」が信用されていないというのが実態だったのです。

そしてこのことは、科学者たちの普段からの情報発信の姿勢に問題があると私は論じました。科学者の「対人活動」が不十分だと考えられるのです。特に3月20日づけ記事の方で詳しく述べましたが、一般人は、「いま自分たちは何をなすべきか」ということを端的に知りたいという欲求を持っています。しかし、いわゆる科学者は、よく言えば「理路整然」と、悪く言えば「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」を展開しがちなものです。特に今年2月〜3月ごろにテレビ等でよく見かけた科学者たちは、そうした傾向が強かったものでした。

一般人が求めている情報と専門家が発信している情報に「需給のズレ」があるので、需要サイドとしての一般人が不信感を持つということです。「歯切れのよい結論」を欲している人に対して、「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」をすれば、反発や不信感が募るのは自然な流れでしょう。岡田晴恵・白鷗大学教授や医師の大谷義夫氏のようなごく一部の例外的に「歯切れのよい人」が、科学者としての業績が乏しく、どことなく胡散臭いながらも重宝されたことがこのことを物語っています。もし、岡田教授や大谷医師のような人が存在しなかったとしても、だからといって話が分かりにくい正統派科学者がテレビに出てくることはないでしょう。ダラダラと話すような専門家は、いかに研究の世界で優秀であっても一般庶民にとっては「お呼びでない」ということなのです。

科学「者」への不信感とは、平たく言ってしまえば、一般人が求めていることに対して科学者が正面から応答しきれていないことに起因しているのです。

このように、科学者は、証拠を論理的に説明すればよいというわけではないのです。科学者同士であればそれでも通じるのかも知れませんが、一般人に知識を浸透させるためには、それだけでは不足なのです。広報活動を対人活動として捉え、その特性に合わせた「伝え方」に注意する必要があるのです。「伝え方」上手のエセ科学が、しばしば本家科学を上回る浸透っぷりを見せるのも、本家科学の足りないところを示しているといえるでしょう。

■3月〜4月:安直な強権待望論・救世主待望論の登場
感染拡大が深刻化するにつれて、強権待望論・救世主待望論が日増しに強くなっていきました。3月10日づけ「世論は「権力行使」がお好き」で取り上げたとおり、金銭的インセンティブの付与という、角の立ちにくいマイルドな方法でも済みそうな場面でも、仮借のない権力行使を求める声さえありました。

他人に何かをさせるorさせない、つまり他人に対して権力を行使するということは、本当は相当に難しいことであります。権力的強制措置は、まさに「強制」である点において強力な方法論ではありますが、揉めやすい・イザコザが起こりやすいので実運用のハードルが高い方法論なのです。とりわけ「お客様は神様」と言われている現代日本の客商売においては、揉めるのが必至な権力的強制措置を取りがたいのが現実です。

国家権力が強力なのは、警察力などの実力(暴力)を持っているからであり、究極的には絞首台(死刑台)を持っているからであります。また、国家権力はちょっとやそっとの市井での批判ではビクともしません。これに対して単なる商売人には暴力はないし、SNSが炎上すれば容易に会社存亡の危機になってしまいます。単なる商売人がお客様に対して強くでることは、現実的ではないのです。

このように、他人に対して当人の意思を捻じ伏せて特定の行動を「強いる」権力的強制措置は実運用のハードルが高いので、金銭的インセンティブの付与によって特定の行動に「誘導」する方が効果的であると言えるのです。

「ザ・お役人」でもない限りは、まともに社会参加していれば何となく察しがつきそうなことであるにもかかわらず、安直な強権待望論・救世主待望論が飛び出してくるあたり、「恐怖のあまり錯乱し始めているのかもしれない・・・」と記事執筆当時は直感的に感じたものですが、その予想は3月中旬以降、本格化しました。

3月28日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:経済政策編」では、「政治万能論」というべき政治に対する過剰な期待を取り上げました。当時深刻だった「マスク不足」を解消するためには生産能力の増大に取り組まなければ根本的には解決し得ず、工場等の新設による生産能力の増大には数か月から年単位の時間が必要であるにも関わらず、あたかも政治が魔法のようにマスク不足を直ちに解決できるかのような過剰な期待と、その裏返しとしての激しい政府批判がみられました。

まさしく「ないものねだり」ですが、こういう大衆の「ないものねだり」に便乗して登場するのが所謂ポピュリストです。そして、「悪人黒幕論」は容易に「粛清論」および「救世主による設計主義論」に転化するものです。極めて危険な兆候が早くも見られていました。

7月11日づけ「コロナパニックの裏返しとしての「キレイな独裁」論」では、主に3月から4月ごろの世論を意識する形でパニック・ヒステリーの裏返しとして強権待望論・救世主待望論が日本世論を覆ったと総括しました。「清廉潔白・公平無私な権力が正確無比に強権を振るい、国民の命と生活を守り抜く」ことが渇望されてきたわけです。

新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。「キレイな独裁」論というべきものが人気を博しました。不正と腐敗、貧困が蔓延るロシアの一部国民の間でいま「スターリン人気」が再燃しているのと関連して考察すると興味深いものが見えてきます。

たとえば、まだマスク不足騒動が起こる以前、マスクの有効性が議題になっていた頃を思い起こしましょう。医師等専門家の意見を基に行政が、感染予防の基本中の基本である「手洗い・うがい・マスク」の重要性を改めて周知したところ、少なくない人々が「未知の新型ウィルスだというのに、その対策が『手洗い・うがい・マスク』だなんて信用できない!!」と騒ぎたてました。他方、「27度程度のぬるま湯でコロナが死ぬ」などという出所不明の明らかに胡散臭い話に飛びつく人たちが一定数見られました。

しかし、行政の担当者は、社会的分業・社会的専従としての専門性を持っているとはいえ「人間」。「魔法」や「奇跡」など繰り出せるはずがありません。無責任なポピュリスト連中でさえ「こうすればコロナは退治できる!」や「こうすればマスクや消毒液不足は解消され、病床は確保され、収入は保障され、パンデミック下でも憂いなく生活できる!」などという魔法的な施策は提案できなかったわけです。強権待望論・救世主待望論は実に安直で底の浅いものだったわけです。

なお、絶対に実現することのない強権待望論・救世主待望論は、案の定まったく実現することはなかったわけですが、願望の強さの裏返しとして、「魔法」が効かなかったときの失望は大きくなるものです。昨今の何をしても政府批判は、このときの、そもそも果たされるはずのない勝手で過剰な「期待感」の裏返しであるとも考えられるでしょう(勝手に無理を期待して、当然のことながら実現しなかったからと言って逆ギレするって・・・呆)。

■4月:恐怖の支配と「お上任せ」――成熟した市民社会からは程遠い
恐怖の支配と軌を一にし、安直な強権待望論が拡大するのと連動する形で日本世論の「指示待ち人間」化が著しくなってきました。4月6日づけ「新型コロナウィルス禍によって炙り出されてきた日本世論の「指示待ち人間」化」でも取り上げたとおり、自分の命の問題だというのに、「あれをしても大丈夫か」「これをしても問題はないか」といった「教えて君」が激増しました。

また、いわゆるアベノマスクについて、「私はいらないから『国は』必要だという人に届けてほしい」や「私はいらないので、『国は』我が家を送付先から除外してほしい」という声が上がりました。4月12日づけ「新型コロナウィルス禍によって炙り出されてきた日本世論に染みついた「他力本願」精神」でも述べたとおり、受け取る側の意向を調査し、その結果をデータベース化した後に宛先ラベルを準備するとなると、特に意向調査の段階で時間と費用が掛かることでしょう。今回の布マスク配布のようにスピードを重視しなければならないケースにおいては、このようなタイムロスはかなり大きな問題になります。それゆえ、受け取る側の意向を敢えて「無視」して「押し付け」ることも一つの方法でしょう。

「いらない」のであれば、腐るものではないし必要としている人もいるわけだから、「いらない」と思う人同士で不用品市を開けばよいだけであるように思えるのですが、その面倒まで国・行政が見なければならないのでしょうか? 国・行政は、国・行政にしかできないことに注力して、それ以外の民間組織・個人でも取り組める事業は、民間組織・個人の自発的社会活動として分業的に展開するというのが成熟した市民社会なのではないかと思うのです。

古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が依然として根強いことを伺わせる展開でした。厄介なのは、こうした「お上任せ」が「民主主義」という概念によって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で正当化されて現代でも生き延びていることでしょう。成熟した市民社会に主体面でなり切れていない様子が見て取れました。

■4月:自分の無知を棚に上げた政府批判――世論のクレーマー化の初期症状
「お上任せ」かと思えば、逆に自分の無知を棚に上げた政府批判が展開されたことも記録しておきたいと思います。いわゆる「アベノマスク」についてです。

4月17日づけ「マスクがどういうものなのかも分かっていないのに、布だ不織布だと大騒ぎしている:大衆教育について」では、昔ながらの給食型布マスク着用方法も知らない教養に欠けた人物による「小さい!」という文句を取り上げました。そもそも給食型の布マスクはそもそも顎まで隠す設計になっていません。また、布という素材について「ウイルスの侵入を防げない」と今更ケチをつける言説も飛び出してきました。そもそも布でも不織布でも一般的に市井で手に入るマスクは「ウィルスの侵入を防いで自分が感染することを避ける」ための道具ではありません。飛沫感染対策であれば布マスクでも効果はあります。

マスクがどういうものなのかも分かっていないのに布だの不織布だのと大騒ぎし、自分が無知なのを棚に上げて政策を批判していたわけです。傍から見れば滑稽であり、なんだか見ているこちらが恥ずかしくなってくる展開でした。

中途半端に「お上任せ」でありつつ、中途半端に政策批判を展開する世論・・・今思い返せば、もうすでに世論のクレーマー化はこの時点で始まっていたのでしょう。

■3月〜4月:素人の浅知恵が陰謀論と結びついた
さて、素人の浅知恵が陰謀論と結びついたのは、新型コロナウィルス禍の一つの特徴であると言えるのではないでしょうか? 3月17日づけ「世論は陰謀論がお好き」及び7月3日づけ「世相を反映する典型的「陰謀脳」について」では、コロナ時代の陰謀論の特徴を指摘しました。

陰謀論は古代からあり続けてき、歴史上人間は陰謀論に振り回されてきました。いままでの歴史上の陰謀論を振り返ると、断片的真実を都合よく継ぎ接ぎしてデッチあげられた物語であった、つまり、ところどころに真実の欠片が散りばめられていたことに気が付かされます。陰謀論は登場人物の利害関係をベースとするものですが、いままでの陰謀論は、眉唾であっても一応「証拠」と言われるものが提示されていたものです。

それに対して、今回の新型コロナウィルス禍において展開されている「WHOは、中国からカネをもらっているに違いない」とか「都知事選挙前だから観戦者数が操作されているに違いない」いった類の陰謀論は、何の証拠もない妄言というべきものです。唯一論拠と言いうるものがあるとすれば、利害関係の存在くらいです。しかし、そうする/そうしないことによって結果的に得する人物や組織が存在するからといって、それがその人物や組織によって仕組まれたものであることにはなりません。全く別問題であります。たまたま得することなどザラにあることです。

かつての陰謀論であれば、かなり胡散臭くとも「中国からカネが流れる決定的証拠」や「感染者数が操作されている証拠文書」なるものが一応は添付されていたはずですが、それさえもないのが今回の陰謀論の特徴です。胡散臭い「証拠」さえもなく、ここまで見事に無根拠を貫いている陰謀論の蔓延は、いままでには見られなかった新たなる異常事態というべきです。

この世の中には、一見して「理解に苦しむ」ことは決して少なくはありませんが、しかし実際のところ、陰謀論者が考えているほどには陰謀は張り巡らされてはいません。多くの場合、陰謀論者たちの低水準な知識・知能では事態が理解できないだけに過ぎません。要するに、陰謀論者たちは、単に自分たちがアホだから現実を理解できないだけなのに、自分がアホであることに向き合わず、むしろアホだからこそ陰謀物語を紡ぎ出して現実を理解しようとしているわけです。しかし、そのデッチ上げストーリーさえもマトモな筋書きで仕立て上げられなくなっている

4月7日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:組織論・社会歴史観編」では、WHOのテドロス事務局長「個人」が親中派だからWHOも中国政府に忖度しているという荒唐無稽な主張を取りあげて批判しました。

たかだか一個人の意志程度でWHOほどの国際的大組織が操られて大きく揺らぐなど、まさに主観観念論的と言う他ない見方です。もし仮にWHOに中国の影響・中国に忖度する風潮が及んでいるとすれば、中国共産党がWHO内部に相当浸透しており、既に大きく強固な足場を築いているということでしょう。いくら事務局長と言えどもその個人の意志では操作できないものです。

いかにも素人の浅知恵というべき見解が大氾濫したのが、新型コロナウィルス禍の一つの特徴であると言えるでしょう。

■総括
こうして振り返ってみると、「マスク不足」で始まった日本の新型コロナウィルス禍は早くも「強権待望論」と「道徳講釈」を鮮明にしていました。

日本社会は、キム・イルソン同志が1960年代には既に認識していた水準にも追いついておらず、お手軽な権力的取り締まり待望論及び初歩的な善意悪意論の水準に留まっていることが判明しました。周回遅れの時代錯誤的言説という他ありません。また、転売ヤーが存在するがゆえの問題の本質を見抜くことなく、目の前の表面的な事象に囚われがちであることも判明しました。さらに、資本主義市場経済を採用しているくせに国家権力の導入を求める一方で、統制経済とするには詰めが甘い、まさに3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」のタイトルどおりの反応がでてきたものでした。

感染拡大が深刻化するにつれて、「強権待望論」が日増しに強くなり、ついに「救世主待望論」になりました。

新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。「キレイな独裁」論というべきものが人気を博しました。

感染拡大の恐怖が人々を支配した結果、自分の命の問題だというのに、「あれをしても大丈夫か」「これをしても問題はないか」といった「教えて君」が激増しました。他方、逆に自分の無知を棚に上げた政府批判が展開されもしました。中途半端に「お上任せ」でありつつ、中途半端に政策批判を展開する世論・・・今思い返せば、もうすでに世論のクレーマー化は4月の時点で始まっていたのでしょう。

個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出したように、初めのうちはいつもどおりブルジョア「個人」主義的だったものの、感染が拡大するにつれて強権待望論や救世主待望論のような強度の統制を求めるように変化したことも見て取れるでしょう。自由と放蕩をはき違えるブルジョア「個人」主義者も、いざ危機に直面すると大変節の末に「統制派」になるというわけです。

しかし、この統制派への大変節は、その内実を見る限り「自分本位」の統制要求であることが直ちにわかるものでした。決して広い政策的視野をもって利害を調整するわけではありませんでした。このあたり、依然としてブルジョア「個人」主義的な身勝手さが残っているというべきでしょう。特定の階級・階層が、他の階級・階層の都合を顧慮せずに一方的に政策を押し付けることは、まさに独裁以外の何物でもありません

「第3波」が指摘されている昨今、来年は公衆衛生の名のもとに「私権制限」が盛んに取り沙汰されることと思われます。今こうして振り返ってきたように、「統制派」が如何なる変節を遂げていまのような主張に至ったのかを踏まえると、来年の議論はかなり慎重に行う必要があると言えるのではないでしょうか?

第2弾記事では緊急事態宣言発出以降について振り返りますが、自粛警察・自警団による非国民狩り・文化大革命騒ぎを経て世論は日に日にクレーマーと化してゆき、ついには「駄々を捏ねるおこちゃま」になってゆきます。ブルジョア「個人」主義の正体は、突き詰めると「駄々を捏ねるおこちゃま」に過ぎないのかもしれません
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