2020年12月31日

チュチェ109(2020)年を振り返る(4):社会政治的生命体論にスポットライトを当てた一年間

「チュチェ109(2020)年を振り返る」第4弾として、朝鮮民主主義人民共和国の動向及びチュチェ思想について、今年1年間当ブログで執筆した内容と関連事項を振り返りたいと思います。

■いわゆる「三重苦」を同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治姿勢で乗り越えることを鮮明にされた元帥様
共和国の年の初めは、最高指導者同志の言動から始まります。今年は「新年の辞」がなく、昨年末に行われた朝鮮労働党第7期第5回総会の報告がその代わりになりました。「我々の前進を阻害している全ての難関を正面突破戦で突き抜けよう!」のスローガンが掲げられ、そのうえで、経済分野での施政方針と、それを支える外交・国防分野での施政方針が示されました。

2月5日づけ「朝鮮労働党第7期第5回総会報道について:社会主義の革新へ」で私は、総会報告の内容について、「内閣中心制の強化は分権型社会主義の実践になる」「消費社会主義への転換が示された」そして「社会主義版の『所有と経営の分離』が進む」と予測しました。対米交渉が膠着化するなかで、対外的には持久戦を展開しつつ対内的には社会主義をそのものを革新させつつ体制固めが進むだろうと予測しました。

この予測は、世界的な新型コロナウィルス禍及び夏に共和国を襲った台風による被害によってすっかり吹き飛んでしまいました。いわゆる「三重苦」:経済封鎖(経済制裁)・コロナ禍・台風被害によって、まったくそれどころではなくなってしまいました。

今年の共和国は、度重なる惨禍をうけて国内の結束、特に人心を結束しつつ復旧復興作業に注力したと総括できるでしょう。

たとえば9月25日づけ「同志愛と革命的義理、集団主義原理の発露としての元帥様公開書簡」では、台風被害復旧作業に動員された首都党員師団のメンバーにむけたキム・ジョンウン同志による慰労の情深い書簡について取り上げました。

共和国においては、首領と各個人が愛と忠誠の関係を媒介にして疑似的な血縁関係を結び、全人民が首領を中心とする疑似的血縁集団を形成し、そうした疑似的血縁集団のうちで全人民が同志愛と革命的義理の原理に基づいて共に暮らす社会を形成しようと目指しています。この疑似的血縁集団を「社会政治的生命体」といい、社会政治的生命体を構築するための運動こそが朝鮮式社会主義であります。そして、こうした考えを支えるのがチュチェ哲学・チュチェ思想であります。

この見方からキム・ジョンウン同志による慰労の情深い書簡を位置付ければ、まさに愛と忠誠・同志愛と革命的義理に根差した書簡、朝鮮式社会主義の原則にのっとった書簡であると言えます。長年続く経済封鎖と年初からのコロナ禍、その上に襲い掛かった台風被害というあまりにも重すぎる三重苦を「正面突破」するためにキム・ジョンウン同志は、社会政治的生命体の構築という共和国・朝鮮式社会主義の原点を踏まえ、共和国における人間関係の基本としての「情」に立ち戻ったというわけです。

緊急事態においては、しばしば原点が見失われがちですが、そんな中でも「情」を示すことを忘れなかったキム・ジョンウン同志。同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治を継続する姿勢がこの一件から見出せたのではないでしょうか。

こうした姿勢は、朝鮮労働党創建75周年記念の演説において更に明確に示されました。10月13日づけ「原理を更に鮮明に表明するいう意味で一種の「原点回帰」をしている朝鮮労働党:党創建75周年記念演説について」で特に重要な部分を和訳して取り上げました。

最高領導者が演説冒頭に最前線の戦士たちを労うことは、最前線の戦士たちにあっては、自らの努力・奮闘を社会が高く評価しているサインに他なりません。自らの努力・奮闘が隣人・同胞・仲間たちから高く評価されること、社会の一員として隣人・同胞・仲間たちのために役に立つことほど名誉なことはありません。隣人・同胞・仲間たちから温かく受け容れられることほど人間的な喜びはありません。

こうした人間的喜びは、同志愛・革命的義理として首領を中心とする全人民の疑似的血縁集団を支える心理状況になります。隣人・同胞・仲間たちから温かく受け容れられることはすなわち、社会政治的生命体との結びつきを実感させるものなのです。

党創建75周年という重要な節目において、社会政治的生命体との結びつきを実感させる名文的内容を演説の中心に据えたあたり、やはりキム・ジョンウン同志の同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治姿勢が見て取れるのではないでしょうか。

また、演説でキム・ジョンウン同志はしきりに党と指導者の政策努力に対する人民の献身に≪고맙습니다≫と感謝を述べておられました。党の偉大性とは、人々の多様な要求と能力を共同の要求と能力に統一する見事な技量:リーダーシップに他なりませんが、これはリーダーシップが上手くいくためには必ずフォロワーシップがなければなりません。つまり、党の偉大さとは人民の偉大さがあって初めて成り立つものです。キム・ジョンウン同志の≪고맙습니다≫発言は、主体的、社会政治的生命体の本質を鋭く指摘するものであるといえます。

党創建75周年記念演説もまた、朝鮮労働党が変わらずチュチェの原理に根差しており、それどころか原理を更に鮮明に表明するいう意味で一種の「原点回帰」をしていることを示したものであると言えました。緊急事態において原則に立ち返ったということは、この原理を基に危機を乗り越えようとする姿勢に他ならないでしょう。

■社会政治的生命体論について探求を試みた当ブログの一年間
社会政治的生命体論は、1980年代に定式化され、それ以降発展し続けている理論です。その大本のモデルは、キム・イルソン同志の抗日遊撃隊における指揮官と兵士、兵士同士の関係性にあるとされていますが、思想理論として整備されるようになったのは建国後でした。初期のうちは、共産主義政党にありがちな「党性」を強化するための「革命への献身を人生の生き甲斐にしよう」というくらいの意味としての「政治的生命論」、及びキム・イルソン指導体制構築に関連しての「チュチェの首領観」でしたが、朝鮮の伝統的思惟との接近の中で儒教性を帯びるようになり、社会政治的生命体論として統合・定式化されるに至りました。

社会政治的生命体論は、その構造は大きく言うと、首領中心の組織論(チュチェの首領観)と世代交代・権力継承論(政治的生命論)の2つから成り立っているといえます。その内容は平たく言うと、首領・党・人民大衆を三位一体とした疑似的血縁集団形式の運命共同体が革命の主体となり、代を継いで社会主義建設を継続し人類史を開拓してゆくというものです。この疑似的血縁集団内部では、自由と平等の原則に加えて同志愛と革命的義理の原則が作用します。なお、なぜ疑似的血縁集団を「生命体」と呼ぶかと言えば、これは儒教的世界観における文化的意味での生命論に基づく呼称であり、生物科学的な意味での生命論とは無関係です。

社会政治的生命体内部では同志愛と革命的義理の原則が人間関係・社会関係の基礎となるため、形式的な自由と平等だけでは往々にして生じがちな「自由」の名を借りた放蕩が防止され、個人の自主性と集団の自主性が両立されるようになるといいます。そしてこの先に築かれる社会こそが社会主義社会であるというのがチュチェの社会主義・朝鮮式社会主義です。

朝鮮式社会主義においては、階級的対立は清算され、あらゆる支配と隷属がなく、すべての人々が首領と党の周りにかたく団結して平和的に暮らすとされています。集団主義的社会関係が原理として作用している社会政治的生命体内部においてのみ、人間の自主的・創造的な本性が実現できるとされています。すべての人々が首領と党の周りにかたく団結するからこそ、社会から疎外されて孤立する人がなくなるでしょう。また、社会の主人が人民大衆になることから生産が人民的に管理されるようになり、利潤拡大目的に基づく不必要な需要喚起、生産の奢侈化・浪費化に歯止めがかかるでしょう。

■資本主義に対する社会政治的生命体を基盤とする社会主義の優位性
資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保障にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、同志愛と(革命的)義理の関係性が実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、「自由と平等」という原理しかない状況下では極めて難航しています。それどころか「自己責任」論の隆興により逆に事態は悪化の一途をたどっています。

また、利潤機会拡大のために販路拡大に迫られがちな資本主義社会においては、半ば強引に需要喚起が要請されるので、人々の物質生活は奢侈的・浪費的に奇形化しがちで、それと軌を一にする形で人々の精神生活は退廃化・貧困化してゆくものです。物質的富が増大するにつれて文化的・精神的富は縮小してゆく、物質生活とそれ以外の生活のアンバランスが深刻化してゆくのです。本来、人間の自主的・創造的な本性が開花した豊かな生活とは物質的生活と文化・精神的生活とのバランスの上で成り立つものであるはずです。

かつて「資本主義に対する社会主義の優位性」といえば、5か年計画による資源の計画的で効率的な運用が筆頭でした。しかし今や、「社会から疎外されて孤立する人をなくすこと」や「物質生活とそれ以外の生活のアンバランスを是正すること」が資本主義に対する社会主義の優位性になったわけです。当ブログでも再三指摘してきたように、最近は資本主義陣営が"SDGs"なるお題目・キャンペーンを張るようになり始めました。"SDGs"が掲げるお題目はまさに朝鮮式社会主義が以前から「資本主義の宿痾」として指摘してきたものに他なりません。つまり、"SDGs"なるお題目が盛んに取り沙汰されているという事実は、いまや資本主義陣営さえも朝鮮式社会主義が指摘してきた問題を問題として認め、取り組まなければならなくなったということを意味しています。

私は"SDGs"は上手く行かないと考えています。結局のところ、現代の世界的な諸問題はいずれも現代の資本主義制度の本質的特徴から生じた結果であり、これらの問題を除去・解決するためには現代資本主義を大胆に変革しなければならないと考えてます。しかし、"SDGs"は制度の大胆な変革ではなく、いずれも表面的な改善が主になっています。単なる「意識改革」キャンペーンにとどまっているケースさえあります。リベラリストの道徳講釈として盛んに"SDGs"が取り沙汰されている事実一つとっても、この動きに希望が見いだせないところです。

■社会政治的生命体論の魅力とは
こうした観点から私は5月29日に「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」という記事において社会政治的生命体について論じました。ツイッターで知り合った@blog_juche_ideaさんとの議論を踏まえつつ、掲題の内容を論じた記事です。

当該記事でも論じたように私は、第一に社会政治的生命体における人間関係の原理、すなわち、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結が社会政治的生命体の根本であることに魅力を感じています。これは「自由と平等」を前提としつつも、それよりも一段高みにある関係性です。社会的存在としての人間が幸福に生きるための人生観の基礎です。

また第二に、首領・党・人民大衆を三位一体とした疑似的血縁集団形式の運命共同体が革命の主体となり、代を継いで社会主義建設を継続し人類史を開拓してゆくという見解は、システム的な主体の定義であり、とても納得がいくものです。近代的な個人は、あくまでも日常生活における主体であり、社会歴史的なスケールでは主体にはなりません。一人の個人が決意して行動することで達成できるものは限定的で、あくまでも個人レベルの課題にとどまります。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。個人は組織化されたときに初めて社会の力ある主人になることが出来ます

さらに第三に、労働者階級が知識労働に従事する機会・割合が増加するのに伴い、各自の担当職務が高度な専門性を必要とするようになると、長い時間と努力によって血肉化した専門的知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多くなった人々は、独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向を強めるようになります。そのため、「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」などと「私」中心の自信過剰になりがちで、その反面で「我々」意識が衰退して他者の貧困について「自己責任」と突き放すようになりがちになります。結果として社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解してゆくのです。このことは、12月5日づけ「リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」でも取り上げたとおり、もはやアメリカでさえ無視できないような社会的宿痾となっています。

社会政治的生命体論に基づく資本主義分析は早くも30年以上前からこうした傾向に警鐘を鳴らし、精神的に踏みにじられた知識・技術労働者らの自主性の回復のためには、社会主義の道しかないと指摘してきました。

このように、(1)同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論、(2)システム的な主体の定義、及び(3)情勢分析の3点において私は社会政治的生命体論に魅力を感じ、原則として支持しているのです。

■社会政治的生命体論における論理飛躍と日本的非現実性、そしてその解消方途とは
他方、当該記事でも書いたとおり、首領の位置づけと実際との間に「飛躍」があるとも考えています。一般論として正しい「首領の理論的位置づけ」と、いままさに共和国で展開されている「実際の首領の在り方」との間には飛躍があるというべきです。平たく言えば、「いくら首領が必要だといっても、あれほどまでに権威と権力を一元的に手中に収める必要があるのか?」と言わざるを得ないのです。現実は、革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化してしまっています。

革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化している背景に階級主義の影が色濃く見られることは、注目すべきであります。階級主義は、プロレタリア階級という「全体」を優先させてしまい個人の存在を塗りつぶすが如く超越してしまいがちなのです。

また、チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を探究する立場、「日本革命の主人」としての立場から申せば、日本的な関心から社会政治的生命体論及び革命的首領論を再整理する必要も生じているといえます。

なぜならば、社会政治的生命体を基礎づける同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している今日の日本社会において存在しているとは到底思えないからです。ブルジョア的人間関係にドップリと浸かった日本人が、革命的首領論を抵抗なく受け付けるとも思えません。それゆえ、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整する必要が生じると考えます。

日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理するということは、本質的には、日本社会の現実から出発して集団主義概念を深化させることであり、具体的には、集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・首領の役割を見直すということになると思われます。

そういった問題意識から当該記事では、首領が社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを首領が全体プロデューサー的な立ち位置から調整するというのが現実解であるとしました。また、「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から、さまざまな場面について詰めてゆく必要があるともしました。そしてこうした実践例は、すでに協同組合運動などで表れつつあるものだとも指摘しました。

■リベラリズム批判はかなり深めることができたが・・・
社会政治的生命体論の見方を導きの糸とすることで今年は、リベラリズム批判についてはかなり深めることができました。たとえば12月7日づけ「落ち目であるはずのトランプ氏が依然として強大な権力・影響力を維持している事実は、トランプ支持者」の分厚い層の存在を示している」では、トランプ氏のカルト的人気に注目して「トランプ-共和党-支持者の三位一体」という構図から分析し、リベラリストの「個人」過剰な解説を批判しました。また、11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」ではリベラリズムの社会歴史観の観念論性について社会主義・社会政治的生命体論の立場から踏み込んだ批判を紡ぎだせたように思います。

しかし、こうして年末に一年間を振り返ってみると、あくまでもリベラリズムに対する社会主義の優位性、すなわち、「リベラリズムに比べればマシ」ということは繰り返し述べてきたように思いますが、あくまでも相対的な優位性に関する主張にとどまったようにも思えてきます。

先に公開した振り返り記事第3弾:リベラリズム批判総括では、「リベラリズムの根底にある『啓蒙主義・合理主義』は、社会の集団的・共同体的結束を分解・瓦解を崩壊させるブルジョア『個人』主義の出発点になるので、これを乗り越える必要を提起したい」とか「『私の努力』の実態は『主客の相互作用の賜物』という正しい世界観を身に着け、『私』過剰の啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要がある」などと課題は提示したものの、その解を提示するにあたっては、それほど前進が見られた一年ではなかったと総括します。

■新しい課題は見出せたが・・・
また、「『個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義』を正すことは、自由主義を、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える個人主義から切り離し、人間を個人でありながら集団をなして生活する存在としてシステム的世界観及び集団主義的社会歴史観から基礎づけなおすことをも意味」するので、「自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることをも意味する」などと、従前からの課題を解決しないままに新しい課題までもブチ挙げてしまいました。

米中対立に「民主主義」という価値観が持ち込まれ、あたかも冷戦期のような対決構図が再来している昨今、たしかに社会主義陣営においては「個人の自由」についてしっかりと理屈を揃える必要があります。前掲5月29日づけ「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」でも私は、猪木正道氏の名著『共産主義の系譜』の次のくだりを引いたうえで階級主義批判を展開しました。
マルクスのヒューマニズムはその発端――現存社会における人間の自己疎外に対する憤激――とその結末――人間性の完全なる実現としての共産主義――とに局限されており、共産主義の実現過程そのものは物質的生産関係を基盤とする階級闘争にゆだねられている。この過程において主体的なものはプロレタリアートであるが、プロレタリアートは前述のように形而上学的範疇であることを度外視してもなお個性を没却した集団であり全体であって、一回生起的な人格の尊厳は集団としてのプロレタリアートの階級意識の中へと完全に埋没されてしまっている。こうしてマルクスは人間を自己疎外の魔術性から解放しようとしながら、かえって物質的生産力やプロレタリアートという集団の魔術性に呪縛してしまった。ここにマルクス主義が”プロレタリアートの独裁”の名において、全体主義的な奴隷制を生み出す危険性が潜んでいる。これはマルクスが人間を社会関係の中へと歴史的に解消したことから来る必然の帰結
自由主義と社会主義との接点を探ることは極めて21世紀的な課題であり、特に社会主義陣営こそがこの問題に真摯に取り組む必要があります。しかし、大風呂敷を広げて収拾がつかなくなっては意味がありません。

ここはポイントを絞り「集団主義の哲学的探究」と「自由主義と社会主義との接点探し」に注力することが来年の課題だと考えています。前者については、社会政治的生命体論における主体論及び社会・人間関係論とシステム工学とを擦り合わせることで進めたいと思います。後者については、啓蒙主義的自由主義は20世紀型社会主義と実は親和的なので、あえてそれとは「水と油」の関係にあるバーク流の自由主義を探求し、なにか拾えるものはないか地道に探したいと思います。

システム工学的な集団主義の哲学的探究については、ツイッターの方で@blog_juche_ideaさんとの議論のなかで幾らかは展開しようと試みたのですが、厳しい文字数制限が課せられているツイッターならではの難しさ、及び@blog_juche_ideaさんがお相手であるからこその難しさゆえに、あまり深まったようには思われないところです。

要するに、お互いの意見に大きな隔たりがあるのはよくわかるのですが、語句の定義・指し示す意味が相当異なるのに、その擦り合わせ・認識の一致が満足にできず、実りある議論にならなかったのです。本稿で振り返ろうかなと思っていたのですが、振り返るほどの中身がありませんでした(特に8月に展開した意見交換は途中からガッカリする内容でした)。今後も@blog_juche_ideaさんだけではなく多くの方々と意見交換を続けたいとは思っていますが、やり方も考えないといけないなとも思っています。

この基本方針から私は、引き続き社会主義擁護の論陣を立ててゆきたいと考えています。
posted by 管理者 at 19:00| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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