そんなdprknow.jpでちょっと意外な記事がアップされていたので、他人様の勉強不足をことさらに指摘するような形になるのは失礼なのかもしれませんが、重要な話題を取り上げていらっしゃったので、話題として取り上げてみたいと思います。
お互いに指摘し合い学び合うことで共に認識を発展させるというのが学問であり、それを実践する場が教育とくに大学教育だと、末席ながらも学問を志している者のひとりとして私は信じています。素人や半端モノ・俄かモノはすぐに知識をひけらかしてマウントを取りたがるけれども、それは「学の徒」の姿ではありません。
まずは、1月8日づけ「「欠陥の原因を客観ではなく主観で求め」 (2021年1月8日)」についです。読者の疑問コメントに対する川口氏の応答です。次のような内容でした。
コメントでご質問を頂いたので、こちらに書いておく。「欠陥の原因を客観ではなく主観で求め」というのは、普通と逆ではないのかというご質問なのだが、(中略)釈すると以下のような意味だと思う。おおむねその通りのご説明だと思います。労作から引用すれば、以下のくだりが当てはまるでしょうか(パッと思い出した限りで)。
「成果」については自己満足することなく客観的に評価する必要があり、「欠陥」については「自分自身」の問題から見いださなければならない。
「朝鮮芸術映画」を見ていると、事業ができない理由をあれこれと自分が置かれている環境(客観)のせいにし、自分の問題(主観)として考えていないことを問題視する台詞が出てくる。恐らく、そのことを言っているのだと思う。
金日成同志は日ごろから、事の成否の原因は主体に求め、なすべきことは客観に求めよ、と我々に教えています。革命と建設が成功裏に進められるか否かを決める基本的原因は、その主人である人間にあるのであって、客観的条件にあるのではありません。しかし、革命と建設は、人間が客観的対象を自己の要求に即して改造する創造的活動であるため、客観的対象の特性と運動法則を科学的に見きわめたうえで立てられた、正しい方法によってのみ、成功裏に進められます。革命と建設において人民大衆の創造的役割を高めるためには、大衆の革命的熱意と創造的積極性を十分に発揮させると同時に、それを必ず客観的対象と条件にかなった正しい戦略戦術と結びつけることが重要です。キム・ジョンイル『チュチェ思想教養において提起される幾つかの問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)
我々は常に、革命と建設の勝敗の根本的要因を客観的条件に求めるのではなく、主体に求め、革命と建設をおし進めていく根本的方途も、主体を強化し、その役割を高めることに求めるべきです。キム・ジョンイル『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という人間観から出発すれば、人間は、直面する課題を創意工夫によって克服する存在・すべき存在であるといえます。事業ができない理由をあれこれと自分が置かれている環境のせいにする姿勢は、主体的な容器夕の対極にあるといえます。
こうした主体的姿勢は、いまの日本において重要な姿勢であるといえるでしょう。当ブログでも再三指摘してきたように、日本社会ではBCP・BCRPの思想が根付いていません。緊急事態における事業継続の計画が「姿勢」のレベルで欠落しています。何かというと「できない理由」を並べたてて、何とかして工夫して実現に漕ぎつけようという姿勢が欠けているのです。
もう一つが1月31日づけ「「以民為天」の意味 (2021年1月30日 「朝鮮中央TV」)」です。党大会報道記事の邦訳は私も参考として拝読させていただいた(ただ、あまりにもタイプミスと変換ミスが多いような・・・)ところですが、≪이민위천≫を「人民中心」と意訳されていたのにはとても違和感がありました。キム・イルソン同志の座右の銘としてあまりにも有名で、「この道」の人士であれば当然知っていることだと思っていたのですが・・・
たしかに党大会報道では、いつもよりは≪이민위천≫が連呼されていたので、「今回は、ちょっと強調している方かな?」くらいには思いました。しかし、≪이민위천≫は「社会主義」並みの決まり文句なので、1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」では敢えて触れるほどではないと思い言及は見送ったところでした。うーん、キム・イルソン同志逝去から30年近くたつと、記憶も風化してくるということなんでしょうか? それとも、専門家といえども労作はそんなには読まないということなのでしょうか? 私のように、ことにつけてパッと出てくるのは異常かもw
ラベル:チュチェ思想
