2021年02月11日

赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法の必要性――森・東京五輪組織委会長の失言の後始末

https://news.yahoo.co.jp/articles/980f1faa7afe819ef2f3d2ab4e4685f7df0e81da
石原良純 森会長発言“不適切”も…「不寛容な時代」危惧 玉川氏は反論「そういう話じゃない」
2/8(月) 22:11配信
スポニチアネックス

 気象予報士でタレントの石原良純(59)が8日、テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」(月〜金曜前8・00)にリモート出演。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)が女性蔑視発言で批判を受けていることを受けて「不寛容」をキーワードに私見を述べた。

(中略)
 石原は「男女不平等に関しては憤られる方もいるし、森さんの影響力を生かさないと(東京五輪へ)立ちゆかなくなってしまうと思われる方もいる」と森会長の発言を巡るそれぞれの立場について言及。そして女性蔑視発言について「今の時代に即していないし、昭和にそういう考え方をされた方がいたのも事実だが、今、責任ある立場の方が言う言葉ではない」と不適切であるとしたうえで、社会から“寛容さ”が失われていると指摘した。

 「今の世の中は何かあった時に“不寛容”って、ひとつのことで何も許さないと。人はトラブルがあったりミスをするけれども、助け合って乗り越えていくっていう部分があまりにもなくなりつつあるっていうのは、森さんのことだけでなくて、危惧するんですよね」

(中略)
 この石原の発言に対して同局の玉川徹氏は「寛容、不寛容、そういう話じゃないと思いますよ」と反論。資質に疑問符が付いた森会長を代えられないどころか慰留した組織委を「昭和だよね、30年以上遅れている」と批判し、「これを日本全体としてどういうふうな形で決着させるんだ、と。辞めないで許すということになれば認めることになっちゃう」と話していた。


■「不寛容」という言葉の選択は不正確
石原良純氏の言いたいことはだいたい分かります。旧ブログ以来15年以上私は、当事者が強い非難を浴びがちな刑事事件に関する世論を追ってきましたが、日本世論は、人格の一側面だけを過剰にクローズアップして、それのみを以ってその人物の全体評価とする傾向、「人物評の過一面化」の傾向があるといえます。また、森氏は発言撤回を表明しているのに尚も責め立てられているように、いったん一面化してしまった評価は容易には覆らず、いつまでも指摘される傾向にもあります。

良純氏は、おそらくこれを「不寛容」という言葉で表現しているものと思われます。その点、寛容さとはまったく無縁である玉川徹氏の「辞めないで許すということになれば認めることになっちゃう」という発言は、まさに良純氏が危惧するものの典型例と言えるでしょう(双方の会話がまったくかみ合っておらず、平行線的なのが印象的です・・・)。

「不寛容」という言葉の選択が不正確であるように思われます。「寛容」というと、「そういう考え方もあるよね」として是認しているように聞こえるからです。しかし、森氏の当該発言は妄言の中でも低レベルの部類に入るものであり是認は難しいところです。

■赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法が必要
ここは「赦し」というべきだったのではないでしょうか? 「破邪顕正」が全世界を覆っている現代においてもっとも足りていないのは、赦しであります。間違いを正すことに不十分があってはなりませんが、相手を吊るし上げて叩き潰しす方法、相手の人格や業績などをすべて否定する文化大革命的な方法はとるべきではありません赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法が必要でしょう。

キム・イルソン同志はかつて次のように指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

森会長の先の撤回発言が本心からの反省・謝罪に基づくものであれば勿論、仮に反省の色が薄くとも、赦しあるいは包摂を根本価値観として粘り強く対応する必要があります。森氏が抱いているような、今乗り越えるべき古い性差別的意識の克服もまた「統一と団結を目的」としているはずであり、けっして女性階級が男性階級を打倒することを目的としているものではないからであります。

■「辞める」ことで社会通念の進歩が促進されるのか?
ところで、「辞める」ということは「責任を取る」ということになるのか、事態を打開することに繋がるのかについては、常々疑問に思っているところであります。「辞める」ことが単なる面倒な追及から手を打つことに成り下がっているように思えてならないのです。森氏が数十年来の「失言家」であるのも、安易に「辞める」ことで問題を打ち切ってきたからだと考えます。

また、森氏の発言は前述のとおり、妄言の中でも低レベルの部類に入るものですが、これと会長職の遂行にどれほどの関係性があるのかが分かりません。たとえば、新型コロナウィルス軽視の発言を連発し、実際に防疫に失敗したアメリカのトランプ前大統領を辞めさせることは、アメリカの事態打開において重要だったといえるでしょう。しかし、「引責辞任しなければならない」ケースと、「辞めたところで特に意味がない、パフォーマンス・儀式に過ぎない」ケースがあるように思われます。

森氏辞任の方向で調整を始まったとのことですが、本件も結局のところパフォーマンス・儀式性の高い辞任劇に終わりそうです。83歳の老人個人の問題として幕が引かれるということです。これから「ただの老人」になる(元首相として色々活動は続けるでしょうけど)わけだから、森氏本人の誤った思想を正すための追及はこれで沙汰止みになるでしょう。仮に、森氏が劇的に回心したとしても、そのことにスポットライトが浴びることもなくなるでしょう。そうなると、森氏のような発想の人は決して少なくないでしょうが、そうした人々に対するメッセージの機会や、古い性差別思想を持った人が教化され回心していく過程を目にする機会もなくなるでしょう。

誤った考え方をした人を排除・排斥して表舞台から葬るばかり。こうやってずっとモグラ叩きのように、出てきては叩き出てきては叩き・・・を続けるつもりなんでしょうか? これで社会通念の進歩が促進されるとはとても考えられません
posted by 管理者 at 16:12| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。