■女性会長ありきは「逆差別」ではない
https://news.yahoo.co.jp/articles/77828c4facfe59effca12fc8753d345d6d9d1a7a
藤田ニコル 森氏発言「全文読んでもいやだった」森喜朗氏の発言全文を見よという主張は早くから上がっていました。私も、マスメディアは「切りとる」ものだというのが骨身にしみてよく分かっている(「北朝鮮」報道はひどいからね)し、最近の記者の破滅的な国語力の低さゆえに、言われる前から自発的に全文をチェックしていたところです。
2/14(日) 11:23配信
日刊スポーツ
藤田ニコルが14日、TBS系「サンデー・ジャポン」(日曜午前9時54分)で、女性蔑視発言で東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を辞任した森喜朗氏(83)について言及した。
(中略)
発言の一部を切り取ったとして、メディアなどへの批判もあがっていることについて藤田は「私も全文読んだんですけど、全文読んでもいやだった」と切り捨てた。
その上で「これは、全文読んでも私はいやだと思ったんですけど、確かに切り取りはマスコミのみなさんやりすぎだなっていう部分はこのニュースだけじゃなくてもすごく思います」と話した。
(以下略)
うん、やっぱり擁護困難であり、不快感を抱かずには居られませんでした。「森喜朗会長の発言の真意は「女性登用」に苦心するJOC山下泰裕会長を擁護するものだった」(ニッポン放送 2/15(月) 15:50配信)という記事は森氏擁護の旗色鮮明な記事ですが、それでも「確かに見方によっては、女性蔑視とも取れるような発言で不用意ですよ、脇が甘いですよ」と言わざるを得ませんでした。女性蔑視的な主張をメインに据えたスピーチでないことは確かですが、主題を述べるにあたって補助的に述べた事柄に「女は・・・」「男は・・・」的な思想が見え隠れしているのが問題なのです。
いっそ「女は話が長くて困る」と正面からケンカを売ってきたほうがよかった。それなら「なにっ?!」と言えますが、さも自明なことであるかのようにサラッと触れられるとますます腹が立つものです。「たけのこの里サイコー、きのこの山はクソ」と言われると「なにっ?!」と思うが、「きのこの山がクソなのはさておき、たけのこの里のビスケット部分とチョコレート部分との比率についてですが・・・」と言われると、「ちょっと待ったぁ! 聞き捨てならないぞぉ!」になるのと同じ感覚かな? えっ、同列視するなって? ごめんなさい・・・ちなみに私は、きのこ党です。なお、朝鮮労働党がきのこ革命を標榜しているから、きのこ党というわけではありません。さすがにそこまでのめり込んではいません・・・
結局、森氏の後任は橋本聖子氏になりました。よりによって橋本聖子かよ。ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)勢は早くから「後任は女性にすべきだ」といい、川淵三郎氏の名が上がると「なぜ女性ではないのか」といいました。
後任の選定をめぐる騒動は、日本の根深い「男性優位社会」に起因する破滅的な女性人材の不足を示していると言えます。日本は、人の上に立てる女性があまりにも少ない徹底した男性優位社会なのです。
ところで、ここのところ、ポリコレ勢の「後任は女性にすべきだ」に対して「それは逆差別であり、能力や実績で選ぶべきだ」という主張がみられました。これは一見して正しいように見えますが、この手の「逆差別」論は、徹底的な男性優位社会から両性平等社会への「過渡期」においては間違った言い分です。
社会の性格は、チュチェ思想の立場から申せば、政治権力の所在とその権力の志向によって決まります。政治とは社会の構成員を統一指揮することであり、権力とは他人に対して自己の意志を貫徹する力です。このとき権力として最も効果的なのは、人事評価に基づく人事権の行使です。つまり政治権力とは、指導者が自己の意志を貫徹するために、人事権を駆使して人材を任免し、以って社会の構成員を統一指揮することに他なりません。
この観点から分析すると、男性優位社会とは、男性たちが人事評価を付け人事権を行使する社会であるといえます。人事評価は、評価者が絶対的に優位なものです。評価者の男性が両性平等に深い理解のある善人であれば幸いですが、そうであるならば今頃とっくに両性平等は実現しているはずです。しかし、いまだにそうなっていない事実こそが、男性優位社会において絶対的に優位であった男性評価者たちが両性平等的でなかった証拠であります。
こうした社会において、女性の「有能さ」を証明する機会、「実績」を挙げる機会が十分に与えられていたと言えるでしょうか? ポテンシャルがあったとしてもそれを発揮・証明する機会が十分にあったとは言えないでしょう。今まで機会に恵まれて経験を積み、能力と実績をあげてきた男性と、そうした機会に乏しかった女性を、いきなり同じスタートラインに立たせてこれを「平等だ」というのは、子どもと大人を同じスタートラインに立たせて徒競走させることを「平等だ」と言うのと同じくらい荒唐無稽な話であります。こういうのをよく「形式的平等」といいますが、持ち上げ過ぎ。「形骸的平等」というのがお似合いなくらいに、くだらない「平等」論です。
徹底的な男性優位社会から両性平等社会への「過渡期」においては、多少能力や実績が「劣って」いたとしても、真の両性平等社会においては「逆差別」とすべきだとしても、「女性」であることが重要になります。積極的に女性に機会を提供し、能力を開発し実績をあげられるように便宜を図る必要があるのです。
しかしながら、それで出てきたのが「橋本聖子」、それしか出てこないというのが、日本の深刻さを示しています。
■「老害」云々とくちにした手合いのタプル・スタンダードっぷりについて
https://news.yahoo.co.jp/articles/4864778ae6d7f3afb42382a101130cec0417b057
森喜朗会長が辞意表明 15分ラスト演説は謝罪、回顧、恨み節…「老害」には「極めて不愉快」森氏の発言について「老害」という罵倒が少なからず見られました。これに対して「高齢者差別にならないのか」という批判が起こりました。もっともな指摘です。
2/13(土) 6:00配信
スポーツ報知
(中略)
組織委で女性理事や職員をたたえ、発言を促してきたと胸を張り「このひと言でこうなったということは、私自身の不注意もあったのかもしれないが、長い83年の歴史の中で本当に情けないことを言ったもんだなと思う」。最後は世間にかみついた。「誰かが老害と言ったが、年寄りは下がれというのは、どうもいい言葉じゃない。老人もやっぱり日本の国、世界のために頑張ってきた。老人が悪いかのような表現をされることも極めて不愉快な話」と意地を示した。
(以下略)
「女は・・・」に対するジェンダー平等的立場からの批判が「老害・・・」では、ダブル・スタンダードだと言う他ありません。少し立ち止まって考えれば直ちに分かりそうなものですが・・・リベラリストたちの発想が「事実としてどうなのか」ではなく「自分はこう思う」に過ぎないことについては、昨年7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」を筆頭に以前から指摘してきたところですが、今回は輪をかけて酷い。こんなことを躊躇いもなく口にしてしまうあたり、ポリコレやリベラルな人たちは、自らを客観視できていないことが推察されるものです。
■リベラリストのいう「時代」論の正体
https://news.yahoo.co.jp/articles/f7f9345353ce2f29e47e66d8fb655858e3737151
蓮舫氏、自民幹部の橋本聖子氏は「男みたいな性格」発言に呆然「昭和から令和に時代は移っています」蓮舫氏発言。以前から述べてきたところですが、社会とは、人間が社会的富と社会的関係を以って創り上げるものです。キム・ジョンイル総書記は、ソ連崩壊の総括として超重要労作と位置付けられる『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』において、次のように指摘されました。
2/18(木) 18:18配信
スポーツ報知
(中略)
「この局面でこの発言。昭和から令和に時代は移っています」とつづると、「べき論や決めつけでもない、年齢や性別ではなく個々の能力を伸ばし、評価。多様性溢れ認め合う社会を。それが新しい創造社会をもたらすと思うのです」と続けていた。
社会とは一言でいって、人間が集まった集団です。人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会なのです。社会の主人はほかならぬ人間であり、人間は自主性、創造性、意識性をもち、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく社会的存在です。人間の自主性、創造性、意識性の発展水準によって社会の発展水準が決まり、人間の自主的な思想・意識と創造的能力の向上にともなって社会的財貨が増大し、それによって社会関係も発展します。それゆえ、社会は物質的条件を基本にしてではなく、人間を中心にして考察すべきであり、社会の発展過程は自然史的過程としてではなく、社会的運動の主体である人民大衆の自主的で創造的な活動の過程として考察すべきです。社会の主人はあくまでも、そこに生きる人間なのです。よって、社会意識・時代意識とは、そこに生きる人々の総体的な意識に他なりません。
蓮舫氏は、時代は昭和ではなく令和だと言います。だから何だと言うのでしょうか? 令和の時代にあっても日本人のジェンダー意識は、昭和時代の水準のままに過ぎないのです。
リベラリストは「時代遅れの感覚」という言葉を好みます。たしかに、令和の御代に江戸時代のイエ意識を口にすれば「時代遅れ」でしょう。しかしリベラリストは、令和社会でも割とよく見られる主張に対しても「時代遅れの感覚」といいます。「社会意識・時代意識とは、そこに生きる人々の総体的な意識である」という立場から申せば、奇怪極まる主張です。「時代意識」は「その時代に生きる人たちの意識」なのに、その人たちの意識を「時代遅れ」というのは、論理として成り立っていません。
蓮舫氏は「べき論や決めつけでもない、年齢や性別ではなく個々の能力を伸ばし、評価。多様性溢れ認め合う社会を。それが新しい創造社会をもたらすと思うのです」といいます。違う意味で「なるほど納得」です。リベラリストがいう「時代遅れ」は、現に生きる人々が持っている意識に対して異なっている・遅れているということではなく、自分が正しいと思う意識・そうあってほしい考え方と異なっているということに過ぎないのです。「虎の威を借る」ならぬ「時代という言葉の威を借る」なんとやらというわけです。
「私はこういう社会をつくりたい。それに対してこの物言いは違うと思う」と言った具合に、リベラリストたるもの、あくまでも主語を「私」にすればいいものを、なぜここにきて急に尻込みをして「時代」を持ち出すのでしょうか? こういう一貫性のなさ・ここぞというところで尻込みするあたりが、リベラリストのリベラリストたる所以で、社会主義者・共産主義者の「断固さ」には及ばないところであります。
■抑圧者側の回心で新時代が開ければ世界史的画期だが・・・
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c614d43fae4e040b9375aa88f8933d716599084
仁藤夢乃さん サンモニ出演し「この問題にコメントする女性が私だけなのか」森会長の女性蔑視発言仁藤夢乃氏は、「おじさん社会の構造を変える必要がありますし、そのためには男性自身が変わることが必要」といいます。言いたいことは分かりますが、いままでの人類史を振り返るに、被抑圧階級が自己解放を成し遂げたときは必ず、自ら実力をもって抑圧階級に対して抵抗して抑圧階級を打倒するか、あるいは実力の裏打ちを以って抑圧階級から譲歩を勝ち取ったケースばかりであることを思い出さざるを得ません。
2/14(日) 13:16配信
スポニチアネックス
(中略)
そして、この日の番組のコメンテーターが男性3人に対し、女性が仁藤さん1人だけということに、「こういう問題が起きた時に、この問題にコメントする女性が私だけなのかってことも思ってしまいます。もっと女性たちの声を聞いて、おじさん社会の構造を変える必要がありますし、そのためには男性自身が変わることが必要で、自身の言動を振り返ったりだとかこれまで浸ってきた女性差別を前提とした文化から出ていく必要があると思います」と自身の考えを述べた。
ブルジョア階級解放の戦いであったフランス大革命は、アンシャン・レジームを打倒してブルジョア階級が権力を掌握しました。これを見た列強諸国は、首をはねられては困るということで、王族・貴族・聖職者連合権力はブルジョア階級に譲歩し、彼らを取り入るに至りました。また同時に、ブルジョア階級の経済力に注目した王族・貴族・聖職者連合権力は、政治権力の一部をブルジョア階級に分譲することとの交換条件として、ブルジョア階級の経済力の一部を要求する取引を持ち掛け、結果として王族・貴族・聖職者連合権力とブルジョア階級との「利益共同体」を作るに至りました。王族・貴族・聖職者連合権力がブルジョア階級を取り込んだわけです。
労働者階級解放の戦いであったロシア大革命は、レーニンの指導の下、労働者階級がブルジョア階級を打倒して権力を掌握しソビエト連邦が誕生しました。これを見た資本主義諸国は初めは干渉戦争によってプロレタリア革命政権を打倒しようとしたものの、赤軍の抵抗によってあえなく挫折。革命に勇気づけられた世界中の労働者階級が精力的に労働運動・革命運動を展開し、コミンテルンが積極的に支援したことをうけて、資本主義諸国では自国でもロシアのような大革命が起こっては困るということで、労働者階級に譲歩して「福祉国家」の道を歩むにいたりました。また同時に、さらなる経済発展=ブルジョア的利益機会の拡大のためには、労働者階級に対しても一定の譲歩を見せ、彼らの購買力を増強することが効果的であるという見解が広まるに至り、ブルジョア階級と労働者階級との「利益共同体」が形成されるに至りました。ブルジョア階級が労働者階級を取り込んだわけです。
しかし、ソビエトの衰退及び崩壊以後、労働者階級の革命運動を指導する指針の不在をうけて今ふたたび、労働者階級を抑圧する者としてのブルジョア権力は、「新自由主義」の旗の下で搾取を強化しているところであります。
もし、仁藤氏がいうように「男性自身が変わることが必要」で済むのであれば、つまり抑圧ある側が回心することで被抑圧者が解放されるのであれば、これは世界史的画期といえるでしょうね。「道徳講釈で世界は変わらない」と繰り返してきた私ですが、もし本当にそれで変わるのであれば、とてもよいこと。歴史的快挙だと思いますよ。
しかし、仁藤氏の言論活動とはまったく無関係にいま、女性は社会で活躍の場を広げ実力をつけています。これからの時代、女性の更なる参加なくして社会の発展はもちろん維持さえもできないでしょう。そうなれば、男性権力も女性を取り込まざるを得なくなります。アンシャン・レジームがブルジョアを取り込み、ブルジョア社会が労働者階級を取り込んだように。時代を切り開くのは、女性自身の自力自強だと私は思っています。