竹中平蔵氏 ドヤ顔で不倫論≠語るも共演者猛ツッコミ「言ってることが浅いよ!」■「不倫の是非」論争の5年間で見えてきた「ニッポンの不倫観」の変遷
2/14(日) 19:39配信
東スポWeb
菅義偉政権のブレーンで経済学者の竹中平蔵氏(69)が、14日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」に出演。不倫問題≠ノついて持論を展開したが、共演者から猛ツッコミを食らった。
この日は相次ぐ有名人の不倫問題が話題に上り、出演者に「配偶者の不倫は許せるか? 許せないか?」とアンケートがとられた。
(中略)
ただ続けて「でも、一つのアンケートがありまして『不倫経験がありますか?』って聞いたら、男性の7割があると答えたっていうんです。女性も3割があるって答えたっていうんですよね」と指摘し「これほんとに偏ってるアンケートかもしれませんから分かりませんけども、今の一夫一妻制っていう制度の中で人間の本能みたいなものと、社会の制度との間でのちょっとしたズレみたいな中でこういう問題が起きてる。だけども、社会で律しなきゃいけないから、ま、『許せない それが普通やろ!』という回答」とドヤ顔≠ナ説明。
これに経済ジャーナリストの須田慎一郎氏が「浅いねー。浅いよ。言ってることが浅いよ、浅い!」と猛クレーム。同志社大学教授・村田晃嗣氏は「竹中さん、今分かったけど、ウソつくときは関西弁使うのね」とイジった。
東京スポーツ
毎週出演のレギュラーというわけでもないのに、なぜ「不倫の是非」に関する議論に竹中平蔵氏をぶつけたのか制作側の意図がサッパリ分からないところですが、お笑い芸人に新型コロナウィルスの話や政治とカネの問題の話をさせるのと同じような意味合いなのかも知れません。つまり、それだけ不倫の是非がポピュラーな論題になってきたということなのかも知れません。
不倫報道自体は、昭和の時代からワイドショー的情報番組の定番的話題でしたが、あくまでも不倫という「事実または疑惑」に関する(ほとんど興味本位的な)報道に過ぎませんでした。「不倫の是非」が話題になったのは、やはりチュチェ105(2016)年1月の「ゲス不倫」騒動のあたりからでした。
「SNS時代最初の大型不倫」だった当該事件。昔であればテレビの前で、せいぜい一緒にテレビを見ている家族相手に呟くくらいで消滅していた様々な感想は、いまや即時に全世界に発信できる時代になりました。ひとり一人の瞬間的に浮かんだ感想が、脳裏から消え去る前に全世界に発信できるようになったわけです。そうした瞬間的感想どうしがインターネットネット空間で出くわし合うことで議論が自然発生的に発生し、いままで見られなかった「不倫の是非」という論題が社会的規模で取り上げられるようになったわけです。
この5年間の「不倫の是非」論争を振り返ると、「ニッポンの不倫観」の変遷が見えてきます。不倫批判論はあまり変化しませんでしたが、不倫擁護論は手を変え品を変え出現したので、不倫擁護論の振り返りが効果的です。
■2016年:「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」
まず、ゲス不倫騒動によって「不倫の是非」論争の火蓋が切られたチュチェ105(2016)年。同年4月3日づけ「不倫擁護の精神的貧困――不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。」及び12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(1)――「ゲス不倫」はパートナー間の問題に留まらない」で取り上げたように、このころはまだ、「不倫は悪いことではない」とか「価値観の多様性を認めろ」といった具合の主張がみられました。「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」なんだそうです。
荒唐無稽極まる主張と言う他ないものです。不倫の本質は「信頼に対する裏切り」であり、信頼は社会的人間の根幹であります。上掲記事でも論じたとおり、社会的人間の根幹に反する行動を取りながらも、それは「悪」でないというのならば、いったい何が「悪」なのでしょう? 社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しないでしょう。あまりにも軽薄な人間観に基づく不倫擁護論と言わざるを得ないものでした。
幸いにして、こうした擁護論が社会的な支持を得るには至らず、概ね同年中にはほとんど耳にしなくなりました。口にしている側が回心したとは到底思えないので、おそらく相当冷ややかな応対をされたことで「変人・悪者にされたくない」という心理が働き、戦術的に引っ込めるようになったのでしょう。
■2017年〜2019年:「ヨソの家庭内問題だから口出しするな」
つづいて登場したのが、「不倫は悪いことだとは思うが、ヨソの家庭内問題だから口出しするな」論でした。当ブログではチュチェ106(2017)年3月17日づけ「軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論による無理筋の不倫批判への「批判」」で取り上げました。
こうした新手の議論は、実質的には「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論と違いはなく、それどころか、不倫され傷つき悲しんでいる人に寄り添うことをも「他人の家のことでしょ?」と突き放しかねない冷たい議論です。また、仮に「他人の家」であり直接的被害を受けていないとしても、サザーランド(E. H. Sutherland)の「犯罪行動の分化的接触理論(Theory of differential association)」に照らせば、反社会的行動を「対岸の火事」としてはならず、主に「自分の立場を確認・表明する」という意味で反対するべきであります。
このように「ヨソの家庭内問題」論は、「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論と同程度にレベルの低い主張でしたが、「貧乏人が不満と嫉妬のはけ口を求めて他人の家の不倫問題に口を出す」論とセットで出てきた場合は、さらに酷い論理展開になったものでした。
「貧乏人は、日頃の不満の捌け口として他人の家の不倫問題に口を出す」というのは、裏を返せば「自分の生活に余裕のある人は、ヨソの家庭内問題に口出ししない」ということでになりますが、これは「自分の生活に余裕が出来ると、他人のことに鈍感になる」「自分の利益が守られていれば他人への不当な仕打ち、他人同士のトラブルなど眼中になくなる」と言っているに等しいだと言わざるを得ません。
こういう理屈を展開する手合いは、人間を「社会的集団の一員」という位置づけとしてではなく、「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけていることが推察できます。社会においては、たとえ他人同士のトラブルであっても、どこかで必ず繋がっています。特に、信頼関係の問題は社会の基本的紐帯の問題です。それを脅かすような性格をもった人物の行動は、最初は他人同士のトラブルであったとしても、その問題人物が社会生活を送ってゆくことによって、ゆくゆくは各地で問題を引き起こし、自らにも被害が及ぶようになり、ついには全体のシステムにも悪影響を及ぼしかねません。
その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の社会において、不倫という裏切り行為の最たるものの一つが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な現象を見て見ぬふりをすることは結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してないという人間観の発露、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。
このように、私なんかは「ヨソの家庭内問題」論に基づく不倫擁護論は「むしろ悪質性が高まった」と思っていたのですが、「個人」主義が跋扈する現代日本にあっては、かなりの勢力を誇ったのものでした。
■2020年〜:「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」
こうした風潮を一変させたのが、昨年の東出昌大さん(妻:杏さん)の不倫騒動でした。この間もさまざまな不倫報道が定期的にスクープされたことにより、不倫報道に「飽き」がみられつつあったところでしたが、一転して大変な大騒ぎになったものでした。
私も第一報を聞いたときは、「また不倫報道か」と思ったのですが、報道記事を一応読み進めると「これはひどいね・・・いままでとは違って久々の大炎上になりそう」と思ったものでした。最初の子どもが双子で、年子の第三子がいる中で夫が外でかなり若い女を作っていたわけです。特に杏さんは好感度の高い女優で、自らも親の不倫で苦しんだ過去がありました。こうした事情を総合すると、杏さんに感情移入する人は少なくないと思われたのです。案の定、東出さんは袋叩きにあい、芸能界で干されてしまったのは記憶に新しいところだと思います。
杏さんに感情移入した人たちの東出さんへの袋叩き攻勢の前では「ヨソの家庭内問題だから口出しするな」は、なぎ倒されてしまいました。「そうだね、ヨソの家庭内問題だね。でも私は東出が嫌いなの! 私の好き嫌いを言って何が悪い!」といった具合に。
渡部建さん(妻:佐々木希さん)の件も同様でしょう。なかなかインパクトの強い事案ですが「ヨソの家庭内問題」であり、彼の芸能活動に直ちに関係のある話ではありません。しかし、「渡部の顔など二度と見たくない! 私の好き嫌いを言って何が悪い!」という声の前では、やはり東出さんへの袋叩き攻勢のときと同様、あっけなく擁護論は突破されてしまいました。
不倫が「ヨソの家庭内問題」であり「口をはさむべきではない」としても、しかし、「個人的な感想を持ってはいけない」ということにはなりません。「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ」というのは十分に成り立つのです。そしてこの個人的感想が人気商売としての芸能人にとっては死活問題になります。
芸能人以外でも程度の差こそあれ同様でしょう。周りの人から嫌われてしまうと生活の難易度は跳ね上がってしまいます。小学校じゃあるまいし「特定個人を嫌うな」というのは無理な要求です。村八分レベルでない限り人間同士の好き嫌いに基づく応対の丁寧さの違いは当然あるものです。
「不倫の是非」論争は、いったんは「不倫は悪いことだとは思うが、ヨソの家庭内問題だから口出しするな」論という相対主義的な魂胆を持った「個人」主義によって議論が沙汰止みになるかに見えました。しかし、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」によって再燃するようになったわけです。ただ、後述しますが、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」はもはや理屈ではないので、これ以上、議論が深まることはなさそうです。
■少数派意見の立場を固める意図での「多様性」論の危うさについて
ここで、2016年内に自然消滅的に現れなくなった「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」に基づく不倫擁護論に話を戻したいと思います。この理屈は、いわゆる「多様性尊重」論をベースに構築された主張です。「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という原理に基づくものですが、「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」に基づく不倫批判論もまた、「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」に基づくものであると言えます。
「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論は、「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という御旗を掲げて社会道徳に挑戦状を叩きつけたわけですが、当の社会道徳側が「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という御旗を掲げ返すことで、圧倒的な数の力で「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論を捻じ伏せたというわけです。
以前から述べていることですが、少数派意見の立場を固める意図で「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という意味での「多様性」を持ち出すと、数の力で返り討ちに遭う可能性があります。
仮に、「あなたはそう考えるんですね。私とは考え方は違いますけど。特に干渉はしないのでご自由にどうぞ」といって貰え、積極的に批判・排斥されることはなくなったとしても、あくまでも「相互不干渉の確認」という意味合いに過ぎないでしょう。相異なる「正しさ」の体系が同じ思想文化空間に併存することは相当困難であり、「価値観の多様性の尊重」というのは、現実的には「棲み分けと相互不干渉」にならざるを得ません。
現にヨーロッパではいま、従来のヨーロッパ的価値観とイスラム移民が持ち込んだ新興の価値観との衝突が起きていますが、「棲み分けと相互不干渉」という形での隣人関係構築に落ち着こうとしています。お互いに排斥し合わないが、お互いの思想文化空間に棲み分けし、必要に応じて「異文化交流」するという形です。相異なる二つの価値観体系がヨーロッパにおいて融合統一されるには、数世代以上の時間が必要になるでしょう。
「不倫の是非」はここまで大袈裟ではないとしても、「一夫一妻制を基本とし、お互いの信頼を裏切らない」という価値観体系と「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」の価値観体系も論理の問題として両立し得ないものです(ポリアモリーについては、チュチェ106・2017年7月11日づけ「「新しい」ものの魔力」で触れましたが、ここでは関係のない話です)。そうなると、不倫擁護論の考え方や存在を否定されることはなくなったとしても、持論に対して共感を得たり仲間として輪に加わったりすることはできないでしょう。
■社会道徳はどのようにして形成されるのか、社会道徳は単なる好き嫌いの問題の総体なのか
このように、「不倫の是非」論争を通じて形成された「ニッポンの不倫観」の変遷を振り返ると、ひとり一人の「他人に対する好き嫌い」の感情と「他人から嫌われたくない」という感情(利害関係?)によって自由社会にあっても一定の社会秩序としての社会道徳が作られる様が見えてきました。
社会道徳は理屈だけで成り立っているわけではなく、「こうあってほしい」「こんなのは嫌だ」というひとり一人の小さな思いが、ちょうどベクトルの合成のような形で社会的に共通の考え方として形成されるのです。もちろん私は観念論者ではないので、ここに現存社会制度等の客観的制約が影響していることを無視するわけではありませんが、ここでは割愛します。
いま最新の情勢は、上述のとおり「私の好き嫌いを言って何が悪い!」に位置しています。おそらく、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」が個人的感想の表明として理解できる範囲内にとどまる限りは、もっと具体的に言えば、よってたかって総攻撃を仕掛けることで当人が自死に追いやられるようなことが頻発しない限りは、この批判論に勝る新しい擁護論は出てきにくいものと思われます。好き嫌いは理屈ではないので、他人が論破できることではないからです。
もちろん、擁護論が批判論を論破できないように批判論も擁護論を論破することはできないでしょう。「好き嫌い」という軸で議論にはならす、永遠に分かり合うことができない平行線をたどり続けることでしょう。そして、その時代時代の人々ひとり一人が、どちらに自らの理想を見出すかによって社会道徳が決まることになるでしょう。
ただ、社会道徳を単なる好き嫌いの問題の総体であるという結論に帰するのには躊躇いがあります。古来から道徳については人智の積み重ねがありますが、社会道徳というものはそんな程度のものではないはずです。キム・ジョンイル総書記は「道徳的信義は、革命家の品格を決定する基本的表徴の一つである」と指摘されましたが、主体的社会主義を考えるには道徳の何たるかを考えることは避けられません。継続的に取り上げたいと思います。
■まだまだ我々の社会は人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている
それはさておき、今回の「不倫の是非」論争は、人間同士の信頼関係を基本的紐帯とする我々の社会の姿を再確認できたものだと言えるでしょう。「個人」主義が跋扈する現代日本では「ヨソの家庭内問題」論は大きな「説得力」を持ってしまい、社会道徳が一瞬揺らいだかに見えました。しかし、「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」によって体勢を立て直したわけです。
他人事と相対主義が深刻化の一途をたどる今の世の中ですが、まだまだ(主体的な意味で)社会的存在である人間にとって最も大切な価値観体系は力強く残っているということです。