2021年03月23日

まったく何も進歩していない

https://news.yahoo.co.jp/articles/ecd3681d6961af31b86037fc8a2cf754f8e605b7
制服に「選択の自由」を! コロナが変えた学校生活の“先入観”〈AERA〉
3/14(日) 8:02配信
AERA dot.

 校則の象徴の一つともいえる「制服」に、大きな変革の波が押し寄せている。多様性に対応した「服の選択制」を──そんな考え方が、形になって表れ始めた。AERA 2021年3月15日号から。

(中略)
■学校運営に生徒参加を

 1月28日、若者の声を政策に反映させる「日本若者協議会」は、文科省に校則についての提言書を提出。「校則の改正プロセス明文化」「学校運営への生徒参加」など9点を要望した。代表で慶應義塾大学大学院2年の室橋祐貴さん(32)はこう話す。

「制服や校則に法的な根拠はありません。『たまたま理解のある校長や教員のいる学校なので変えられた』というのではなく、どこの学校でも生徒、教員、保護者の3者で民主的に見直しができる仕組み作りが重要です」

 同協議会では、高校生と大学生による「学校内民主主義を考える検討会議」を立ち上げ、2020年11月にアンケートを実施。「児童や生徒が声を上げて学校が変わると思うか?」の質問に対し、回答した生徒や学生779人のうち約7割が「(どちらかというと)そう思わない」と否定的だった。

「日本の若者は政治への関心は低くないが、『自分の参加により社会を変えられるかもしれない』という意識が他国に比べ著しく低い。学校生活の中で経験がなかったり、試みたものの学校に取り合ってもらえなかったりといったことが背景にあることが、アンケートからも明らかになりました。健全で民主的な社会を築いていくためにも改善が不可欠です」(室橋さん)

 生徒ががんじがらめに管理されるのでなく、風通しのいい環境のなか主体性を持って、教員、保護者と制服や校則を見直すプロセスを経験する。それこそが、生きた教育になるのではないだろうか。

(編集部・石田かおる)

※AERA 2021年3月15日号
「選択の自由」というと、どうしてもネオ・リベラリズム(新自由主義)経済学者のミルトン・フリードマンをまず思い出すところです。リベラリズムとネオ・リベラリズムはまったく異なります。アエラが選択の自由とは、転向したのか最低限の教養さえもなくなったのか・・・

それはさておき、画像説明で「制服についての「議論」はこれまでも続いてきたことだ」という指摘、確かに本件は、昔からの定番ネタです。その上でアエラ編集部は「生徒や教員からの声が可視化されたことで、大きなうねりになっている」などとして社会状況に進歩がみられている強調しています。

しかしながら、この記事を読む限り、まったく何も進歩していないと言わざるを得ないでしょう。なぜならば、この記事で述べられている・触れられていることを総合すると、結局のところ、「自分にはこのルールは理解できない、だから改めよう」に過ぎず、そのルールが形成された経緯には触れないし、既存のルールを支持する人たちの意見(異論)にも一切触れていないからです。歴史的な視点、異なる視点を一顧だにせず、ひたすら「私は・・・と思う」なのです

「私」過剰――まさしくリベラリズムの悪しき特徴と言わざるを得ません。リベラリストたちの偏狭さ:包容力のなさと思慮の浅さ=素人の浅知恵は、やはりここからきているのでしょう。かつてハイエクが指摘した合理主義的設計主義者の「致命的な思い上がり」と通底するものがあるとみるならば、20世紀からまったく何一つ進歩していないと言うべきでしょう。

そして案の定出てきました「学校内民主主義」。「素人の浅知恵」という批判への対抗としてリベラリストたちは「民主主義」を持ち出します。しかし、真の民主主義は教養があり思慮深い「市民」による討議の上に立つものであり、素人の思い付きの寄せ集めではありません。思えば20世紀社会主義=合理主義的設計主義も「民主主義」という言葉を殊に愛用していました。「科学」の名の下に素人の思い付きを「民主的」に討議して実行に移したものでした。

最近では、ジェンダーフリーとジェンダーレスの違いもつかないようなド素人の思い付きが持て囃される始末です(「学校の制服選択を「ジェンダーレス」に 生徒の声が校則変える 防寒対策や性的少数派に配慮も【高知発】」 3/22(月) 8:01配信 FNNプライムオンライン)。もう少し教養と思慮深さを身に着けてから論じてほしいものです。

「私」過剰の事情は海外でも同様であるようです。カナダでの事例。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0f399c02341a69c177621aeac7cfc7391f1223c5
教師が「不適切で気が散る」と批判…高校生の服装が議論に
3/11(木) 23:01配信
コスモポリタン

カナダ・ブリティッシュコロンビア州カムループスの高校に通う17歳のカリス・ウィルソンさん。ある日、登校した彼女は「洋服が不適切」と教員に言われ、帰宅することに。この事態に問題意識を感じた父親がSNSに動画をアップしたことで、議論が巻き起こっている。

(中略)
自分自身は保守的な方だと語る、カリスさんの父親クリストファー・ウィルソンさんは、これに対して、抗議の動画をSNSにアップ(現在は非公開)。カリスさんも「後輩たちのために変化を起こせるなら、意味があると思う」と賛成した。

「娘は女性の教員に『あなたの洋服を、私や男性の補助教員が不快に感じるかもしれない』と言われたんです」
学校には「教えることや学ぶことの妨げにならない格好をする」という校則はあるそう。カリスさんは「服装に関する校則は必要だけれど、その規則の範囲内で生徒たちが自分自身を表現するのは許可されるべき」と『CityNews1130』にコメントした。

またクリストファーさんは、2021年にこんなことが起きるなんてがっかりすると心境を語った。

「これを許してはいけないと思います。女性に対してこんな扱いをするべきではありませんし、ある特定の格好をしてはいけないと伝えるべきではありません。これは不合理です」

「今こそ変化を起こすときです。友達や周りの人と議論してほしい。教員の知り合いがいるなら、生徒にこんな風に話すべきではないと言ってください。生徒たちは学ぶことを楽しむ若い人間です。自信を失い、非難され、家に帰るのはおかしいと思います」

これを受けて学校では、「カリスの味方」「何を着ているかよりも教育が重要」などのプラカードを持った生徒たちが抗議。またSNSでも「#imwithkaris」というハッシュタグでサポートしたり、同じような経験をした人が声を上げたりするなど多くの意見が集まっている。

(以下略)
人間は個人として孤立しているわけではなく、社会のうちで生きて活動しているものです。ある人の「自由」は、周囲との調整のうちにあります。「他人を不快にさせないか」という相手側の視点を持たなければならず、そして、忌憚のない意見交換で、「程度」を調整する必要があります。それが社会的存在としての人間の本質に照らしたときに、各個人が持つべき姿勢であります。

これに対して記事中の出来事はどうでしょうか。双方の意見は出揃っていますが調整過程とは程遠い印象を受けます。

プラカードを持ち出す手合いが出現したようです。そして、この事態をアエラ編集部は、必ずしも悪い展開ではないと思っているようです。プラカードが意見交換の場面に馴染まないのは、おそらく、日本でもカナダでも大きく違わないと思われます。プラカードというものは、要求や主張を書き連ねて集団的示威(デモ)において気勢を上げるときに使うというのが「国際標準」だからです。やはり、調整過程とは程遠い印象を受けます。

歴史的な視点や異なる視点を一顧だにせず、ひたすら「私は・・・と思う」だけの報道、冷静な意見交換で「程度」を調整すべき場面でプラカードが出てくる状況、そしてそれを問題視しない報道――まったく何も進歩していません。
posted by 管理者 at 22:36| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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