2021年04月03日

ジェンダー平等を導くチュチェ思想

https://news.yahoo.co.jp/articles/a45f766b1cce95c69f132c789f09539f4d01c94c
『報道ステーション』CMに見え隠れする「ポストフェミニズム」の悪質性
3/29(月) 8:34配信
HARBOR BUSINESS Online

(中略)
 ただ、それ以上にこのCMからは、現在の日本ないし世界中で一般的になりつつある風潮が見えてくる点こそ不気味だと筆者は考える。その風潮とは、ポストフェミニズムである。

ポストフェミニズムとネオリベラリズム、女性性
 ポストフェミニズムとは、「フェミニズムはもう終わったもの、古いものと認識させる言説とそれによって構成される社会」と定義づけられる。

 もちろん、フェミニズムは終わっていない。女性差別もジェンダー不平等もまだ残っている。それなのに、終わったものとしてしまうことで、いわゆる「古い価値観」に立つ復古主義とは異なる権力構造に基づく女性差別が生まれているのである。

 その異なる権力構造とは、新自由主義である。新自由主義とは、市場への国家の介入を最小限にするべきと考え、自由競争や能力主義を重んじる経済思想のことだ。フェミニズムと新自由主義は複雑な関係にある。このことについて、2つの側面から説明したい。

 まず1つ目は、経済的な側面だ。これまでフェミニズムは女性にも男性と同様に能力に応じて賃金を支払うように要求してきた。これは、一見すると新自由主義の能力主義と整合性があるように見える。実際フェミニズムが歴史のなかで新自由主義に加担しなかったというのは嘘になる。たとえば日本の「女性活躍」政策はまさにこの文脈に位置付けられる。

 しかし、本当にフェミニズムは新自由主義を正当化してよいのだろうか。新自由主義は男性にとっても女性にとっても経済的格差を拡大した。

 また、後に述べるように新自由主義のなかでも文化的な性別役割規範は消滅しないため、女性たちは家事をこなしながら、家事をしない男性と同じ基準で能力競争していかなければならないという男性優位の構造は残ったままだ。

 さらに、そのなかで新自由主義は女性たちの連帯よりも個人主義的な「成功」を目指すことを女性たちに求める。「女性が輝く」などと叫ばれるなかで、女性たちに実際かけられている身体的・精神的負荷の大きさは察するに余りある。

 次に2つ目の文化的な側面について述べる。文化的な女性性の強制は、外部からも内部からも女性たちを呪縛している。

 まず外部からの呪縛について、重要なのは新自由主義は多くの国で新保守主義とセットになっているということだ。新保守主義の政治家が新自由主義の旗を掲げて改革を進める際、自分たちの支持基盤である保守的な人々の生活も掘り崩すということになりかねないため、性別役割規範を含む伝統的な価値観を必要以上に強調することになる。

 次に内部からの呪縛について、新自由主義の文化的な特徴には、経済的主体としての自己管理や自己監視がある。一方、フェミニズムのもたらした果実の1つとして、女性が性的対象から欲望する性的主体へ変容したことが挙げられる。それらが組み合わさった結果、男性の視線によって客体的に評価されるのではなく、女性自身の視線によって自己検閲される形での女性性の強制が起こっているのである。

 このように、フェミニズムと複雑な関係を持つ新自由主義という権力構造の上に、ポストフェミニズム下での女性差別は起こっているのである。女性たちは男性と同じように市場に参加して競争に勝たねばならないと同時に、伝統的な女性性をより主体的に体現しなければならないというダブルバインドの状況に立たされている。

(中略)
 つまり、全体をまとめると、新自由主義の政治経済体制を背景に、女性は都合の良い労働者/消費者として「活躍」しつつ、しかも女性性を主体的に体現しているべきだというポストフェミニズム的なメッセージが読み取れるのである。

分断を超えた連帯
 もちろんこのCM作成者が狙ってポストフェミニズム的なメッセージを発した訳ではないだろう。それにしてはあまりにも短絡的な物言いだと思われるからだ。とはいえ、このようなメッセージがついうっかり世に出てきてしまうということは、日本にもポストフェミニズムの風潮が深く根付いているということを示しているといえるだろう。

 だから、そんな今こそフェミニズムの連帯が必要なのではないだろうか。雇用形態、階級、セクシュアリティ、人種、障碍など様々な違いを越えて、女性たちが互いをサポートすることが今求められている。

 もちろん今回のCMは分かりやすい例だったから、誰もがその悪質性に気が付くことができた。だが、大抵のポストフェミニズムの言説はもっと巧妙だ。その巧妙な言説に騙されず、わたしたちは共に連帯していくべきだ。

【参考文献】
菊地夏野『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店)
早稲田文学会『早稲田文学 〈2019年冬号〉 シリーズ特集第1回:ポストフェミニズムからはじめる』(筑摩書房)

<文/川瀬みちる>

最終更新:3/29(月) 8:34
HARBOR BUSINESS Online

最近のお気楽なリベラリズム的フェミニズムを鋭く批判する良質な記事! いままでのフェミニズムが結果的に新自由主義と共闘関係にあったこと、連帯よりも個人主義的な「成功」を目指すことを推進してきたという歴史的事実を明快に説明しています。

マルクス、そしてキム・ジョンイル同志がかつて指摘したとおり、ブルジョアジーは己の経済的利益を実現するために「世界の均質化」を志向します。この結果、一面においてはブルジョア革命によって身分制度が打破されて近代化・文明化が進むが、他方においては各自・各民族の自主性が毀損することにもなるものです。

近年、フェミニズムとリベラリズムが接近しています。もとよりリベラリズムとネオ・リベラリズムとは近縁関係にあるため、これによりフェミニズムとネオ・リベラリズムとが接近するに至っています。また、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)的なジェンダーレス潮流、そしてそれを更に先鋭化させた生物学的性差をも無視する絶対的平等主義とフェミニズムとが接近する事態にもなっています。結果的に、ネオ・リベラリズム=リベラリズム=フェミニズム=ポリコレ的ジェンダーレス潮流=生物学的性差絶対的平等主義のラインが形成されつつあります。

このラインが形成されることによって最も得するのは、自己の経済的利益を実現するために「世界の均質化」を志向するブルジョアジーたちです。異なるものを異なる待遇・配慮で取り扱うという相対的平等主義は、ブルジョアジーたちの利益にとっては「持ち出し」を増やすものです。ブルジョアジーたちは経済効率性を重視するからこそ絶対的平等を好むものです。このとき、絶対的平等主義と親和的なフェミニズムの旗印は、連中にとって極めて都合のよいものでしょう。

こうしたカラクリに気が付かないまま、いままでのフェミニズム運動はブルジョア的利益をアシストしてきました。たとえば、かつて日本の労働法は、女性保護として各種規制を敷いていたものですが、フェミニズム運動の高まりを受けた「男女共同参画」の盛り上がりを奇禍とした自民党ブルジョア政権は、これを口実に女性保護規制を撤廃し「男女仲良く」地獄に突き落としました。

また、海外の事例になりますが、「女性の社会進出・男女平等先進国」として持て囃されがちなスウェーデンでは、チュチェ106・2017年11月19日づけ記事でも触れたとおり、推進担当の当局者自身が女性の社会進出には労働力確保という目的があり、決して単なる「女性への贈り物」ではないと言明しています。女性の社会進出による女性の労働力化は、労働市場への労働力供給の増大であり、労働者個人同士の競争の激化、一人当たりの労賃の低下、そして雇用主に対する労働者の地位・交渉力の低下につながるものです。これは、労働力を安く買い叩くことで利潤機会を更に拡大しようとするネオ・リベラリズムの方向性と軌を一にするものに他なりません。

※近年ようやく日本でも「北欧幻想」が解かれ始めてきました。「北欧福祉国家」と呼ばれる国々は、経済政策においてはネオ・リベラリズム的な方向性を採用しており、決して手放しで称賛できるものではありません。

本稿はこうした歴史的事実を見据えたとき、「実際フェミニズムが歴史のなかで新自由主義に加担しなかったというのは嘘になる」というくだりに最も顕著に表れているとおり、重要な指摘をしていると言えます。「役に立つバカ(Useful idiot)」レベルのお気楽なフェミニズム言説、結果的にネオ・リベラリズムの利益を擁護している言説とは明らかに一線を画した良質な記事です。

しかしながら、「そんな今こそフェミニズムの連帯が必要なのではないだろうか。雇用形態、階級、セクシュアリティ、人種、障碍など様々な違いを越えて、女性たちが互いをサポートすることが今求められている」という最終的な主張は、あくまでも「女性階級」の内部における「連帯」を提唱する点において「階級闘争主義」に留まっていると言わざるを得ません。リベラリズム及びネオ・リベラリズム的な発想を乗り越えつつもマルクシズム・マオイズム的な発想までは乗り越えられなかった点において、とても残念な出来に留まってると言わざるを得ません

偉大な首領:キム・イルソン同志はかつて次のように指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
キム・イルソン『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』チュチェ56・1967年5月25日)

キム・イルソン同志のこの談話は、ちょうどこの当時に中国で展開されつつあった文化大革命を批判する内容として理解できるものです。キム・イルソン同志が仰る社会主義社会とは、人民大衆の協同社会のことであります。いま私たち現代日本人がジェンダー平等の文脈で実現するべきは男女間の協同社会を構築することであり、決して一方が他方を打倒して天下を取って敗れた他方を使用人的に使役する社会ではないはずです。

その意味において、キム・イルソン同志が仰る社会主義社会のための階級闘争とジェンダー平等のための運動とは原理原則の面において一致するはずであります。

その点、繰り返しになりますが、川瀬みちるさんの主張はあくまでも「女性階級」の内部における「連帯」を提唱する点において「階級闘争主義」に留まっていると言わざるを得ず、男女間の協同社会を構築するという目標にあっては不足があると言わざるを得ないのです。

リベラリズム、ネオ・リベラリズムを乗り越えるだけではなく、さらにマルクシズム、マオイズムをも乗り越えて真の男女の「協同」社会を構築する必要があります。このとき、チュチェ思想は必ず有用な指針になることでしょう。
posted by 管理者 at 20:19| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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