2021年04月10日

自主権の問題としてのジェンダー平等

https://news.yahoo.co.jp/articles/a497bcde6916444c8f7e961430ca5b4b9e338e66
報ステのCM炎上、「批判する人は“読解力”が足りない」と言う人に伝えたいこと
4/4(日) 9:01配信
現代ビジネス

(中略)
 この表現によって報道ステーションが「「ジェンダー平等」なんて必要ないのだ」と反フェミニズム的なスローガンを主張したかったわけではない――ということなど、このCMを視聴した人たちは十分に理解している。

 視聴した人々は正しく、この女性の台詞からCMのメッセージを読み取った。それは、「わざわざスローガンに掲げる必要がないくらい、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げることは、すでに当たり前になってるよね! (だから私は安心して、お肌の手入れに専念できる)」ということだ。

 今回のCMの作り手たちに勘違いしてほしくないのは、「ジェンダー平等」というワードを組み込んだせいで、このCMが批判されたわけではないということだ。

 そうではなく、若い女の子に、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げるのが「当たり前になってほしい」と言わせるのではなく、「(すでに)当たり前になってるよね」という前提の台詞を語らせたことに、視聴した人々の怒りと批判の声が殺到したのである。

 なぜなら、私たちの生きるこの社会で「ジェンダー平等」はいまだ達成されていないと、多くの女性たちが考え、日々、不平等な世界を生きているからだ。

(中略)
「ポストフェミニズム」の感性
 YouTubeにアップされていた30秒バージョンのCMを最初に見た時、もし今が30年前の1990年だったなら、共感できていたかもしれないな……と感じた。端的に言えば「センスが古い」ということだ。

 確かに1990年頃の時代の気分としては、「男女平等」というスローガンやフェミニズムなんてもう古いのだ、女性たちはいまやジェンダー平等に向かって自分ひとりの力で邁進できているのだから、という個人主義的な考えが蔓延していたように思う。

 このように、「フェミニズムの目標はすでに達成されてしまったのだから、もはや必要のないものだ」という考え方が社会の中に広がり、(じつのところ事態はそこまで改善していないにもかかわらず)女性たち自身でさえそのように考えるようになった時代を、イギリスのフェミニスト・カルチュラル・スタディーズの研究者であるアンジェラ・マクロビーは2000年代の終わりに「ポストフェミニズム」と呼んで批判した。

 そして、この「ポストフェミニズム」的な感性は、現在、いたるところで批判されるようになり、まさにポストフェミニズム的に生き、ガラスの天井を突き破るために突き進んできた女性たちでさえ自己批判し始めているものなのである。

 ポストフェミニズム的な女性たちは、女性であっても自分自身の力で運命を切り開いて自己実現できると信じてきた。仕事をし、収入を得て消費をし、身ぎれいでありつつ社会問題にもそれなりに関心を持ち、おじさん中心の組織ともうまくやれる柔軟さとしたたかさをもち、おじさんたちに脅威をあたえないていどに「わきまえた」行動を選択することが正しい道であるのだ、と。

 当初、それは女性にとって「可能性」のように見えていた。しかし実際のところ、彼女たちは(多くの場合、男性には求められることがない)「美貌も実力も」「仕事も家庭も」「自分の仕事もおじさんのケアも」「あれもこれも」を求められるという不平等にさらされていたのである。そのうえ、大学入試や昇進など、さまざまなシーンで相変わらず性差別が行われていることも明らかになっているのだから、批判が出てくるのは当然だ。

 そうしたポストフェミニズム的な女性であるということを、このCMに登場する女性はしっかりと語らされている――「化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。それにしても消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね?」という台詞によって。

 この台詞を最初に聞いたとき、この女性に背負わされた分裂気味の感性に、ぞっとするような恐怖を感じた。仕事をし、収入を得て消費をし、身ぎれいでありつつ社会問題にもそれなりに関心を持っているこの若い女性は、まさにオーストラリアのメディア文化研究者であるアニタ・ハリスが「意欲的な女の子(Can-Do Girl)」と名付けたポストフェミニズム的な主体である。

 そしてまた、(男性には求められることのない)あれもこれもすべてを手に入れるプレッシャー――「あれもこれも」を手に入れなければ、この社会で男性と同等に扱われないという不平等――を宿命づけられた若い女性に、「『ジェンダー平等』とかってスローガン的にかかげてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」と無邪気に言わせるセンス(の古さ)に唖然とした。

 同時に思い出したのが、現在、人気沸騰中のマンガ『呪術廻戦』の中で、呪術師である西宮桃というキャラクターが親友の少女の心を代弁した台詞である。「女はね、実力があってもカワいくなければナメられる。当然、カワいくっても、実力がなければナメられる。分かる? 女の呪術師が求められるのは、”実力”じゃないの。”完璧”なの。」〔読みやすくするために句読点を挿入〕。

 この「呪術師」という特殊な職業を、たとえば「会社員」と置き換えみてほしい。

 このCMの女性のように(おそらく)総合職として働き、肌のお手入れにも余念がなく、甘えたようなカワイイ声で話し、「消費税」や「国の借金」の心配もする、カワいさと実力の双方を得て、完璧であることを示そうと突っ走った結果、女性たちは何を得ることができたのだろうか?

 その答えが、このCMへの多くの批判であることは間違いないだろう。

(以下略)
■風刺が通じなかった
コンテンツとして「消費」し尽くされ、忘却の彼方に去りつつあった本件を4月4日になってから「読解力不足などではない!」と言い出す本記事。「若い女の子に、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げるのが「当たり前になってほしい」と言わせるのではなく、「(すでに)当たり前になってるよね」という前提の台詞を語らせたことに、視聴した人々の怒りと批判の声が殺到したのである。なぜなら、私たちの生きるこの社会で「ジェンダー平等」はいまだ達成されていないと、多くの女性たちが考え、日々、不平等な世界を生きているからだ」とは、議論が堂々巡りしていると言わざるを得ません。

ジェンダー平等が現実的として実現「していない」ことは、本件炎上騒動で騒ぎ立てた側について「読解力不足」を指摘した側も十分に承知していることです。

当該CMのメッセージを制作側の意図に即して読み取った人たちは、ジェンダー平等という至極当然のことが先進的・先覚的であるかのように位置づられている「日本社会の現実」、そして、とっくに取り組みを「実行」していて当然のことを最先端の「概念」であるかのように喧伝する「日本の政治家たちの程度の低さ」に対する痛烈な風刺として受け止めたわけです。当たり前のことが「スローガン」になっている日本のどうしようなもない「現実的後進性」を言外に批判しているものと受け止めたわけです。

なぜ正面から批判しないのかといえば、一般社会においては「正面から批判」するという方法は、相手に対して敬意を持っていることを示すからです。社会人は忙しいでバカの相手をしている暇はありません。相手の意見を取り上げ正面からその誤りを指摘するのには時間資源を消費します。それゆえ一般社会では、あまりにも程度が低い人や時代遅れ甚だしい人については、「正面から相手をする時間が勿体ない」として、面と向かって相手の程度の低さや時代錯誤を指摘するのではなく、「それってxxだよね・・・えっ、知らないの?w」といった具合に軽くバカにすることで対処するものです。

それゆえ、一般的な社会人の感覚としては、あの短いフレーズから「ジェンダー平等化を推進するだなんて当たり前になってるよね。でも自民党の政治家を筆頭にそうじゃないのもまだまだ多いよね。ほんと自民党ってのは、いちいち取り上げて言い分の誤りを指摘する価値もないほど程度の低い連中の集まりだよね」といったニュアンスを汲み取るのです。

こうしたわけで、当該CMを痛烈な風刺として捉えた人たちは、逆に当該CMを炎上化させた人たちについて、「CM制作側の意図を汲んでいない」という意味で「読解力不足」としたわけです。より正確には「風刺が通じなかった」と言った方がよかったのかもしれません。

■そこまで考え抜かれていたのか?
さて、田中教授は当該CMからポストフェミニズム的な思想を見出し「このCMの女性のように(おそらく)総合職として働き、肌のお手入れにも余念がなく、甘えたようなカワイイ声で話し、「消費税」や「国の借金」の心配もする、カワいさと実力の双方を得て、完璧であることを示そうと突っ走った結果、女性たちは何を得ることができたのだろうか? その答えが、このCMへの多くの批判であることは間違いないだろう」としています。

しかし、あの炎上騒ぎでそこまで考え抜かれた主張がとれほどあったのでしょうか? 当ブログでも3月28日づけ記事で取り上げたように、ジェンダーギャップの国際比較資料などを持ち出して「日本はこれだけ遅れているのに、ジェンダー平等が実現したという誤った見地に立っているCMだ! フェイクだ!」といった批判(たとえば、治部れんげ氏)が大部分ではなかったでしょうか? 脊髄反射的な批判が相当目立ったように思われます。そして上述のとおり、「読解力」云々「風刺」云々は、そうした脊髄反射的な反応を念頭に置いたものでした。

やはり総じてあの炎上騒動は、風刺の通じない人たちが引き起こした脊髄反射的な反応による炎上騒ぎだったと言えるのではないでしょうか?

■ジェンダー平等問題を「自主権の問題」として位置付け、協同管理的手法によって
ところで、ポストフェミニズムが結局、差別構造の温存の一助になっていたという見立ては私も異論はありません。報ステの風刺描写の背後に潜むポストフェミニズム的発想に斬り込む田中教授の主張部分は読みごたえのあるものでした。「忘れられた論点――報ステの風刺描写の背後に潜むポストフェミニズム的発想」といった風合いの記事だったらよかったのに、脊髄反射的な手合いを無理に弁護したせいで記事の価値が下がってしまっています。

ただ、おそらく田中教授が気が付いていないはずがなく文脈的に割愛しただけだとは思いますが、「ジェンダー平等」を論じながら「女性の地位向上」に主眼を置いた話になってしまっており、それゆえに、ジェンダー平等問題を「自主権の問題」として位置付けるときに、著しい中途半端さがあると言わざるを得ない記事であります。

田中教授はポストフェミニズムが実際に実現したことについて「)「美貌も実力も」「仕事も家庭も」「自分の仕事もおじさんのケアも」「あれもこれも」を求められるという不平等にさらされていたのである」とします。このことは一面においては紛れもない真実です。

しかしながら、では男性はどうだったのでしょうか? 男性もまた、決して「ありのまま」であることは許されませんでした。稼ぐのに役に立つ男性、剰余価値の生産に役に立つ男性のみが「男らしい男」「立派な男」として称揚されたわけです。

「仕事も家事も」で女性が苦しんできたこと、そして今も苦しんでいることは否定できない事実です。では男性は? 「家事に参加しない特権階級」としてではなく、「男らしい男・立派な男たるべし」という通念により「家事から徹底的に疎外された存在」としてみるべきではないのでしょうか?

2月27日づけ「「私はこう思う」を乗り越え、真に社会を変革し得る人民大衆の自主化偉業としてのジェンダー平等運動に進化するために」でも述べたとおり、女性に対して当為を要求する価値観は、同様に男性に対しても当為を要求するものです。抑圧されているのは女性だけではなく、取り組むべきは「女性の権利拡大によるジェンダー平等」ではなく「自主権の問題としてのジェンダー平等」、階級闘争的手法によってではなく協同管理的手法によってなのです。
ラベル:チュチェ思想
posted by 管理者 at 18:37| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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