2021年04月15日

社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念

https://news.yahoo.co.jp/articles/69013a618fdb17272cf688293e0da34a7fd7cc87
玉川徹氏、吉村府知事の「医療非常事態宣言」に「予想できることに対して準備できなかった」
4/8(木) 9:40配信
スポーツ報知

(中略)
 コメンテーターで同局の玉川徹氏は、大阪だけでなく宮城県も医療体制が逼迫していることを指摘した上で「こういう風になり得ることは散々、言われていたわけじゃないですか。想像もできないことが起きているんじゃなくて、むしろ予想通りのことが起きているんです。じゃあ、なぜ予想ができることに対して準備できていなかったんだっていう話なんです。何をやっていたんだ、と」と指摘した。

 さらに「変異株だってイギリスで大変なことになっているっていうのは、2月の時点で分かってて、いずれ入ってくるだろうって分かっていて、入ってきて案の定。こんな状態になってて、変異株のせいですって。今頃、言ったって、そんなのずっと前から分かっているでしょうって。何の準備もしてないで。医療非常事態宣言ですか?」と疑問を呈した。
■想像力・推理力の欠落
なぜ予想ができることに対して準備できていなかったんだっていう話なんです。何をやっていたんだ」――「言うは易く行うは難し」の典型。医療のように高度な専門性と熟練を必要とする知識集約産業は、人手を増やそうとしても短期間では達成できないものです。たしかに行政サービス・公衆衛生サービスを「受ける側」としては、ふと疑問に思うこともあるでしょう。しかし、サービスを「提供する側」の事情に少しでも想像力や推理力が働けば、ここまでお気楽で一方的な物言いはできないでしょう。

この手のお気楽で一方的な物言いは決して玉川氏に固有のものではなく、昨今では分野・場面を問わず割とありふれたものになりつつあります。この手のお気楽で一方的な物言いは消費者意識の奇形的肥大化としてのクレーマーによくみられるものです。その点、日本社会はクレーマー気質的になりつつあると言えるかもしれません。

また、批判ばかりで具体的な提案が出てこないというのは、人民主権の国家としてあるべき姿ではありません。主権者みずからが考えて提言し、事態打開の可能性に乏しい問題についてヒステリックに喚きたてるべきではないのです。その点、日本社会は「口を開けてエサを求める雛鳥」あるいは「駄々を捏ねているおこちゃま」化が進んでいるとも言えるかもしれません。

■社会的分業の徹底的な専門細分化が個々人を「バカ」にしている
ところで、ではなぜこのようなお気楽で一方的な物言いが蔓延しつつあるのでしょうか。その原因として私は、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化があると考えています。

かつて、まだ社会的分業が未熟で専門的細分化が進んでいない時代においては、人々は、取引相手側の事情についておおよその察しをつけることができました。材料の仕入れや運搬、各種調整にかかる所要時間はだいたい見当がつくので、詳しい段取りまでは分からなくても自分の注文が満たされるのにかかる日数は推測可能だったわけです。また、それらにかかる手間暇や各方面への根回し・気遣いの大変さについても、だいたいどの世界・業界でも同じなので、仮に個人的に急いでいたとしても無理筋な要求を突きつけるには躊躇いが生じるものでした(突きつけたところで仕方がない)。

しかし昨今は、社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。結果、モノの道理が分からなくなってきた人々、ある意味で「バカ」になってしまったサービスを「受ける側」は、ただひたすら自分の都合を並べ立てるようになり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえなくなるというわけです。

■一億総「お役人」化
少し前ですが、こんなこともありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3abc7c8645bade7613b2f9a7702187330de07143
青木理氏が机をたたいて憤慨 麻生財務相の「いつまでマスク?」発言に
3/21(日) 14:11配信
デイリースポーツ

(中略)
 麻生氏は、新型コロナウイルス対策の長期化にからめて「マスクなんて暑くなって口の周りがかゆくなって最近えらい皮膚科がはやっているそうだけど。いつまでやるの?」と逆質問。「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と付け加えた。

 青木氏はこの日、「政権のナンバー2が…」とこのくだりを持ち出し、「いやいや、政府の対策とワクチンの接種次第で変わるわけですよね」と口調は穏やかながら、右手で机をたたきながら指摘。「そんなことを冗談なのかもしれないけど、おっしゃっている人がナンバー2なのかと思うと、(日本が)先進国なのかという議論がありましたが、残念ながらこれが今の現実なのかな」とあきれたように語った。
「その道筋をつけるのが政府の仕事だ」という青木氏の指摘は、原則としてそのとおりです。しかしながら、新型コロナウィルス禍を劇的に打開する秘法が全世界的にいまだ見出されていない事実を踏まえるに、この任務は果たして政府だけが担うべきものなのか、全国民が一丸となって探究模索すべきものではないのかという疑問が沸いてこざるを得ません。

これもまた社会的分業の徹底的な専門細分化による事象であると言えるでしょう。つまり、「それは私(国民)の担当ではない」というお役所的発想の社会的蔓延です。「縦割り行政」という言葉があるように、お役所仕事は基本的に高度に専門的に細分化されているものである点、こうした発想の社会的蔓延は、一億総「お役人」化と言えるでしょう。

これも結局のところサービスを「受ける側」の都合を並べ立てているものであり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえていないわけです。このことは、現代社会における、他者の事情に対する想像力と推理力の深刻な欠落を示す更なる証拠であります。

■社会的分業を見つめ直す必要
日本社会のクレーマー気質化の根底には、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化があるわけです。現代を生きる我々にとって社会的分業はあまりにも当然のことであり、わざわざそれを問い直すことはしないものです。しかし上述の理由から、いまこそ社会的分業を見つめ直す必要があります。

社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化、そしてそれによる相手の事情を踏まえなくなるという現象は、新型コロナウィルス禍を乗り越えるにあたっては意味のない負担を行政や保健医療の担当者に強いることになり、それだけリソースの無駄遣いになります。新型コロナウィルス禍収束の足枷になるわけです。

またそれにとどまらず、こうした現象を野放しにし、むしろ勢いづけることは、現代社会の次に来るべき新しい社会としての「協同社会としての社会主義社会」の実現においても有害であります。というのも、協同社会としての社会主義社会を実現するためには個々人のプチ・ブルジョア的な発想を超克する必要があります。協同社会は、まさに人々が協同的に連合する社会ですが、ここにおいては「お互いさま」の精神が必要不可欠です。お互いに事情を踏まえ合い、無理筋な要求を突きつけないように調整する必要があるのです。

この点、キム・ジョンイル総書記はかつて労働者大衆のプチ・ブル化について次のように指摘されました。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)

社会的分業が進展して各自の担当職務が高度な専門性を必要とし、人々が知識労働者化するようになると、長い時間と努力によって血肉化した専門的知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多くなった人々は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向を強めるようになります。

そして、「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」などと「私」中心の自信過剰になりがちで、その反面で「我々」意識が衰退して他者の貧困について「自己責任」と突き放すようになるのです。結果的に社会の集団的・共同体的結束の分解・瓦解が進み、協同社会としての社会主義社会が遠のくことになります。

いまこそ社会的分業そのものを見つめ直し、その弊害を取り除くべきです。そのためにはアダム・スミスやカール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスといった近代の古典を読み返す必要があるでしょう。スミスは『国富論』などにおいて近代社会の特徴として社会的分業の公用を指摘しつつも、それによる人間存在の部分化・不具化を指摘しました。マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』などの若かりし時代の著作において、社会的分業が意識の実践からの乖離をもたらすこと、私的所有の起源になること、及び自己疎外の契機になることを指摘しました。

新型コロナウィルス禍において、お気楽で一方的な物言いを控え全国民が一丸となって効果的・効率的に乗り越えるためにこそ、そしてその先に来るべき協同社会としての社会主義社会の実現のためにこそ「社会的分業」を見つめ直す必要があると言えるでしょう。

今日は4月15日、太陽節です。偉大な首領、キム・イルソン同志の生誕記念日です。チュチェ思想は、スミスに始まるイギリス古典派経済学を批判的に取り込んだマルクス主義を継承しつつ独自に発展させた思想です。キム・イルソン同志の生誕記念日にこそ、スミス並びにマルクス・エンゲルスの共通的研究対象だった「社会的分業」に現代的な視点から注目することを訴えたいと思います。
ラベル:チュチェ思想
posted by 管理者 at 00:04| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。