長嶋一茂が河野太郎ワクチン担当相を猛批判 回線パンクに「なんで想定できないのか不思議」おそらく、ある程度「想定」はできていたが、それでも突入せざるを得なかったものと思われます。
5/14(金) 10:33配信
東スポWeb
(中略)
「交通整理が全くできていないですね。一日の接種キャパシティーはリサーチすればわかること。それをやらずに予約してください≠カゃ、パンクするに決まってる。なんでこんなことが想定できないのか不思議です。これは平等性とかの問題じゃない。河野さん、大問題、大責任だと思いますよ。国が各自治体に責任を押しつけてるとしかボクには見えない」
お年寄りが一日も早くワクチンを打って安心したいのは当然。国も自治体も、もう少し知恵を出せないものか。
「先着順」は典型的なお役所仕事であり、いつも住民は程度の差こそあれ、待たされているところです。お役人とて、待たせていることについて問題には思っていないとしても、気が付いてはいるはずです。
しかし、いままでずっと住民を待たせる仕事の仕方をしてきたお役人たちが、急に効率的な受付方法を思いつくはずがありません。中には個人的に効率的な方法を思いついた職員もいるかもしれませんが、硬直化した行政組織の中で新方式を直ちには実践できないでしょう。
また、「国が各自治体に責任を押しつけてるとしかボクには見えない」といいますが、「一日の接種キャパシティー」を国が正確に把握しているとでも? 長嶋一茂氏が「普通のお仕事」をご存じだとは思いませんので、これが「彼の限界」なのでしょうが、本当に素人さんの思いつきは「中央集権的計画経済」と親和的なのだな改めて思ったところです。
長嶋一茂氏のような言説もまた、近頃当ブログで指摘している「実現可能性を考慮しない、お子ちゃまの駄々」と通底するところがあるものです。
政策目標の実現可能性を考えるにあたっては「所与の条件」に対する分析が必要ですが、これは、物量などだけではなく、それを制御・利用する主体としての人間、担当者の能力も含まれます。上述のとおり、いままで住民を待たせる仕事の仕方をしてきたお役人たちが一朝一夕に効率化するはすがありません。スピーディーにワクチン接種を推進するという政策目標においては、その所与の条件が整ってはいないのです。
ステレオタイプ的な理解かもしれませんが、お役人たちは平時の定型的な業務の遂行においては有能ですが、例外的事態への対応は苦手とされています。まさに例外的事態と言うべき新型コロナウィルス禍への対応が苦手で、どうしてよいのか手探りであるのは無理もないことでしょう。
そもそも、難しい試験(公務員試験)を突破した優秀な人々といっても所詮は生身の人間。その知性・知能には限界があります。お役人といえども全知全能ではありません。総力戦が求められているコロナ禍においてこそ、「民間の知恵の活用」が必要されているはずですが、まったくその機運は高まっていません。「国は何をやっているんだ」「国はxxすべきだ」なとど、国民・住民はまるで「口を開けた雛鳥たち」のようです。
ほんの少し前まで大流行で、ついに大阪市営地下鉄を売り飛ばすに至った原動力たる「民間の知恵の活用」云々は一体どこへ行ってしまったのでしょうか? 公の財産を営利企業に切り売りすることだけが「民間の知恵の活用」ではないはずです。
いまこそ公民協働・協同で知恵を出し合い、総力戦でコロナ禍を乗り越えるべきときであります。口を開けた雛鳥たちのように誰かが何かしてれるのを待っている段階ではありません。真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が必要されています。
もちろん、社会的分業の高度専門化により専門外の人々には「他人の仕事」の内容が見えにくくなっている現代においては、なかなか思うように「知恵を出し合う」に至らないのは理解可能です。ならばせめて、一方的な物言いは控えてほしい。消費者意識の奇形的肥大化が進む日本、この点における意識改革こそが公民協働・協同の前提であるといえるでしょう。そして、この意識改革はゆくゆくは社会全体の協同化の前提でもあります。新しい協同社会の時代を開拓するにあたっては必ず実現する必要があると言えるでしょう。