関大がワクチン2510回分廃棄へ 職域接種の大学で初コメ欄。
6/30(水) 19:17配信
朝日新聞デジタル
関西大学は30日、新型コロナウイルスの米モデルナ製ワクチン2510回分が使えなくなったと発表した。保管する医療用冷蔵庫に不具合があったため。ワクチンは余裕をもって国に申請しているため、学内で予定する接種に問題はないという。
(以下略)
余裕をもって申請してるとのことだが、2500回分破棄しても平気なくらいなのは、余裕を持ちすぎなんじゃ?21世紀の資本主義市場経済国家である日本で、20世紀の中央集権的計画経済(ソ連や東欧など)で見られた「不足の経済」の法則が発動するとは!
こういうとこが多いからモデルナのワクチンが足りなくなってるんでしょう。
「不足の経済」とは、ハンガリー人民共和国の経済計画当局者だったコルナイ(Kornai, János)が指摘したものであり、詳しくは「基礎研WEB政治経済学用語事典」で解説されているとおりですが、要するに、現場が「くれ」と言えば言っただけ原材料等が供給されるような世界(「ソフトな予算制約」の世界)では「とりあえず、もらっておこう」と考えがちで、必要以上の過剰な在庫を持ちたがるようになるというものです。
仕入れや在庫保管のために身銭を切らなければならない世界では、予算の制約を念頭に置く必要があります。また、身銭を切って取り揃えた在庫を無駄にすれば損をするのは自分自身です。それゆえ、使うあての乏しい過剰な発注を控えようという考え(インセンティブ)が生じます。しかし、予算制約がソフトだとそうしたインセンティブが働かなくなるのです。
ところで、ソ連や東欧などでは生産拡大のための「ニンジン」としてノルマの超過達成にはボーナスが支払われていました。「働いても働かなくても同じ」とよく言われますが、正確には「熱心に働かなくても困らない」だけで(解雇規制が厳しかった上に、怠け者をクビにしたところでその補充労働者もどうせ似たり寄ったりなので敢えてクビにしようとはせず、さらに労働力企業はモノだけでなく人員も過剰に抱えようとしたから)、熱心に働けばその分の褒賞はありました。特に顕著な成果を挙げれば共産党への入党が許され、特権階級として党員専用商店や党員専用保養所の利用ができるようになりました(「社会主義とは『能力に応じて働き、労働に応じて得る』社会である」というのがソビエト流の社会主義解釈でしたが、これはすなわち、非常に強烈な能力主義の表明に他ならず、能力の差に起因する地位や収入の差は肯定されていました)。
このボーナス目当てで、おのおのの生産現場はますます「とりあえず、もらっておこう」の意識を強めたとされます。この過剰在庫志向から過剰な需要が発生し、物不足が引き起こされ、その物不足ゆえに更に「もらえるときに、とりあえずもらっておこう」になり、物不足を慢性化させていったわけです。これが「不足の経済」の法則なのであります。
現在の職域接種のワクチン供給体制は、職域接種を実施する現場からすれば、「くれ」と言えば言っただけ供給される世界であり、「ソフトな予算制約」の世界であります。また、政府から「早く接種しろ」と急かされています。打てば補助金も出ます。予算の制約なしにほぼ無条件的に原材料(ワクチン)が国から供給され、急いで打てば褒賞金が出、ワクチンを無駄にしたところで自分の懐は痛まないのが、現在のワクチン職域接種です。20世紀にソ連や東欧などで見られた「不足の経済」と21世紀の日本で見られている「ワクチン不足」は、この点において瓜二つと言うべきではないでしょうか?
必要以上の在庫を抱えることにコストまたはペナルティが発生する制度設計が必要です。経済学、とくに制度比較に多少なりとも造詣のある人ならば、いまのワクチン職域接種体制とかつての「不足の経済」の類似性に気が付くはずです。ワクチンが全世界的に潤沢にあるのならば何も考える必要はないでしょうが、ワクチンは世界規模の争奪戦という様相を呈しています。制度設計が抱える問題点は目に見えています。しかしそれにまったく気が付かずに、わんこそばの如くワクチンを供給し接種を加速することばかりを考えてきたわけです。
本件に限らず、今回の新型コロナウィルス禍を巡っては、「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示したものと言えるでしょう。
たとえば昨春の不織布マスク不足。さっさと国を挙げての配給切符制度切り替えれば不織布マスクの流通不全の緩和と正常化がもっと早くなっただろうに、政府がとった策といえば「転売禁止」でした。このやり方の経済政策的誤りについては、当ブログでは昨年3月4日づけ「「北朝鮮」にも劣る稚拙な転売規制要求を展開する日本世論の愚:真の問題である「買占めの発生」には「転売規制」ではなく「配給制の導入」で対応すべき」で指摘したとおりです。
配給品が不足しているからこそ闇市が生まれ、闇市があるからこそますます配給品が不足するわけですが、配給を正常化するためといって闇市に権力的に規制をかけても意味がないとキム・イルソン主席は賢明にも見抜いておられたわけです。慢性的な物不足に悩まされている「北朝鮮」だからこそ、しっかりと現実を分析し対策を練っていたわけです。
翻って日本。途方もない生産力にモノを言わせ、無駄や廃棄をものともせず圧倒的な物量作戦を取ることで、市場機構・資源配分メカニズムの綻び・不十分性・非効率性を押し切り消費者・国民に物不足を感じさせずに来ました。慢性的な物不足に消費者・国民が苦しめば、学問的・実践的な探究の動機になったでしょうが、物量作戦で押し切ってきたためにそういった経験の蓄積がまったくなされて来なかったのです。
「平和ボケ」ならぬ「飽食ボケ」というべきでしょう。