オリンピック「幸せは結果だけではないんだ」以前から述べてきたことですが、スポーツには、単に肉体を鍛えるだけではなく思想的な効用もあるものです。その思想的効用が正しく実現されていることを上掲記事は示しています。今回のオリンピック東京大会では、選手と観客の間での一体感・連帯感が育まれたことによって、人間が持っている社会政治的な生命を実感させる契機になりました。
2021年8月7日 14時01分
「小学生の頃から夢みてきたオリンピック、こんな形で終わってしまうなんて」
結果を残せなかった選手がSNSに投稿すると、続々と反響が寄せられました。SNSで選手とファンがつながる新しい形のオリンピック。
「幸せは結果だけではないんだ」
たくさんの励ましに選手はそう返信していました。
(中略)
こんな形で終わるなんて
そして、思うような結果が残せなかった選手の投稿にも、多くに人たちから反響がありました。
トランポリン女子の森ひかる選手。
世界選手権の女子個人で日本選手として初の金メダルを取って代表の座を獲得し、オリンピックに臨みました。
本番前にSNSには、「皆さん、強くなった森ひかるを、そして私の最高の笑顔をみてください」と投稿していました。
しかし、結果は予選の2回目の演技で失敗。
決勝に進むことさえできませんでした。
会見では、肩をふるわせて涙を流した森選手。
SNSに心境をつづりました。
「小学生の頃から夢みてきたオリンピック、まさかこんな形で終わってしまうなんておもってもいませんでした。しっかりした演技をしたかった、笑顔で終わりたかった」
「こんなに何年間も私だけで無くみんなががんばってくれたのに、こうなってしまうことがあるんですね。悲しいし残酷だけどこれがオリンピックの難しさ、トランポリンの難しさ」
するとこの投稿には続々とコメントが寄せられ、その数は200件を超えました。
幸せは結果だけではないんだ
「たくさんたくさん力もらってます。みんなあなたの味方、応援してます」
「私たちファンは結果ではなくて目標に向かって頑張っている姿を応援しています。少しでも背中を押せたらいいな」
「私は看護師で、どちらかというと五輪にはやや否定的な気持ちでした。でも、頑張るひかるちゃんの姿や思いに勇気を与えられた」「一緒にみた患者さんもすごいねー頑張ってるねーって感動してました」
こうした声に森選手は、新たな気持ちを投稿して応えていました。
「皆さん温かいメッセージ本当にありがとうございます。私からパワーをもらったなどのコメントに助けられました。もちろん結果も大事だけど、幸せを感じられるのは結果だけではないんだな、と」
「やってきたことは間違ってなかったんだと思えました。たくさんの方にサポートしてもらいながら頑張れたこと、ずっと忘れません」
SNSを通じて選手とつながることができる時代。
一部では選手個人へのひぼう中傷も課題となりました。
選手と競技を見た人たち、その双方が互いに励まし合える、そうした形をこれから作っていかなければなりません。
いろいろあった今回のオリンピック東京大会でしたが、単にメダルの色と数の問題だけでなく、こういう報道が出てきたということは、非常に良い結果が残せたと思います。
ところで、今回「リベラリスト」たちは、オリンピック反対運動や政府の新型コロナウィルス対策の追及で大忙しで、オリンピック日本代表選手たちの活躍に対する世論の大盛り上がりには基本的に反応を示していませんが、過去のオリンピック大会ではしばしば、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁していました。基本的に彼らの社会観は、「個人」を社会から切り離した存在として捉えているからでしょう。
このことについて私は、チュチェ108(2019)年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」で次のように批判したものです。
「個人」を重視する戦後民主主義的リベラリズムは、むしろ「我々」意識の衰退を歓迎さえしていたのではないのか、ということを問わねばならないでしょう。今回の東京大会がここまで盛り上がっているのは「自国開催」だという点も大いにあると思われます。国レベルでの一体感・連帯感の高まり、人間が持っている社会政治的な生命を実感させる契機になっている現状を「リベラリスト」たちは、どのように捉えているのでしょうか・・・
人間を社会集団共同体の一員として見なさず、あくまでも「個人」として見なそうとする言説は、たとえば卑近なところでは、スポーツにおけるナショナルチームに対するリベラル派の見解・言説によく現れています。昨年のピョンチャン・オリンピックにおける日本代表選手の活躍には、多くの自然発生的な賞賛が寄せられましたが、江川紹子氏を筆頭とするリベラル派は、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁し、物議を醸しました。
たしかにオリンピックで世界レベルの優秀な成績をおさめたのは、「選手個人」です。しかし、その選手個人の育成には国家的なサポートがあります。もちろん、諸外国と比べて十分な援助を受けられておらず手弁当主体の不遇な競技種目があることは私も承知しています。しかし、その場合でも「みんなの応援」という大きなサポートがあります。「みんなの応援」というものは、人間にとって大きな力になるものです。「我々」意識をベースとする「我が共同体の仲間たちの応援を背に、共に闘っているんだ!」という認識は、「個人」として孤立している哀れな人間には理解できないのかもしれませんが、類的存在としての人間においては、その意欲に火をつけ、持っている能力を十二分に発揮します。キム・ジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と仰いましたが、そのエンジンに点火させるのが「みんなの応援」なのです。
先の大戦の反省から官製ナショナリズムに対して警戒するのは当然のことでしょう。オリンピック等のスポーツ大会が政治利用されてきた歴史的事実を見逃すことはできません。しかし、スポーツ選手・アスリートに対する自然発生的な「我々」意識に基づく応援にまで「選手個人の活躍だ」と強弁することは、結果的に「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやるものです。
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