『45歳定年制』? 進む、人材の新陳代謝■アジャイル・モデルは国や社会レベルでは大きすぎる
9/12(日) 13:48配信
日本テレビ系(NNN)
雇用市場の変化がコロナ禍で後押しされている。政府の会議のメンバーも務め、論客の新浪剛史サントリーホールディングス社長の口から飛び出した「45歳定年制度」。その背景は? 実現性は?
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9月9日。緊急事態宣言の最中ということでオンラインで開催された「経済同友会・夏季セミナー」。経済界だけでなく一般にも名の知られた経営者らが参加し、「日本が三流国に落ちていかないようどう変わるべきか」という危機意識のもとに議論が行われた。ここではその中で出た2つのキーワードに注目したい。
■キーワード1「アジャイル」
オイシックスの創業者でオイシックス・ラ・大地の社長を務める高島宏平氏(48)の発言。「先の見通せない時代にはいかに社会をアジャイル化するかだと思う」。
アジャイル…。もともとは開発の現場で使われてきた言葉で「すばやい」「俊敏な」という意味だ。完成図ありきの「ウォーターフォール」と対比される手法で、「アジャイル」はテスト版ができたらすぐにオープンにして、走りながらどんどん開発し直していく手法だ。
高島氏いわく、先の見通せない社会で、しっかり考え抜いてから実行するというのは難しいので「まずやってみて」というアジャイルが向いているという。「たくさん失敗して、方向転換して、正しい方向に」という考え方なので「失敗を許容する文化」が必要だという。
高島氏の「アジャイルの重要性」の発言を受けて、森トラストの伊達美和子社長は、コロナ禍での行動制限の緩和がワクチンを接種した順にとなってしまうと不公平が生じる、などといった議論について「アジャイル型の対応が生きる」との見解を示した。
(中略)
■キーワード2「45歳定年制度」
「定年を45歳にすれば、30代、20代でみんな勉強するんですよ。自分の人生を自分で考えるようになる」。―これまでも「最低賃金大幅引き上げ」などで世の中の議論をかき混ぜる役割を担ってきたサントリーホールディングス新浪剛史社長(政府の経済財政諮問会議議員)はこう提案した。
日本を眠れる獅子のまま終わるわけにいかない、そのためには成長産業への人材移動が必要。企業の新陳代謝を高めるためには、雇用市場は従来モデルから脱却しなくてはいけない。その一環として定年退職の年齢を45歳に引き下げる、個人は会社に頼らない、そういう仕組みが必要だ、と力説した。その上で今の社会では転職のチャンスも十分あるとの見方を示した。
■退職、転職の動向は…
制度として“40歳定年”を入れていなくても、実は40代以上を対象とした退職の募集はすでに始まっている。東武百貨店の例を見てみよう。6月に40歳から64歳の従業員750人を対象に希望退職を呼びかけたところ、約4分の1が応じたという。
(中略)
退職募集の増加は新型コロナの感染拡大前からすでに始まっていたのだ。さらに、東京商工リサーチの二木章吉氏は、景気が回復すれば今度は業績の悪くない企業による早期退職の募集も増える可能性があるという。多くの企業が、40代、50代のボリューム減らし、全体の若返りを図りたいからだ。
(以下略)
社会のアジャイル化が重要な論点であるのは間違いないことです。当ブログでも繰り返し、ウォーターフォール・モデルを批判してきたところです。
しかし、ウォーターフォール・モデルに問題点が多いとはいえ、アジャイル・モデル的な発想にも当然問題点があり、そしてそれはウォーターフォール・モデルが抱える問題以上に本質にかかわる根深いものであると私は考えます。
国レベル・社会レベルの大きなプロジェクトは、アジャイル・モデル的な試行錯誤には些か「大きすぎる」のです。それゆえ、適切にダウンサイジングやサブ・システム化をしないとプロジェクトの収拾がつかずに破綻してしまうのですが、サブ・システム同士の連携構築は、国や社会レベルでは規模が大きすぎるがゆえに、非常に困難なのです。
分割しなければ手に負えなくなって失敗してしまうが、分割したらしたで今度はまとめ上げられずに失敗してしまうわけです。20世紀は国家の中央集権化が著しく進んだ100年間でしたが、その最後の最後に超中央集権国家であったソビエト連邦が空中分解したことは、歴史的教訓であります。
アジャイル・モデルを実践可能なレベルにまで国家・社会システムをサブ・システム化した上で改革したとして、それを如何にして再度、国家・社会レベルに連携再構築するのか、そのあたりの見通しが記事からは見えず、一企業というミクロレベルの経験をマクロレベルに無邪気に導入しているような気がしてなりません。まさか「お願いベース」ではないでしょうね??
ミクロレベルの経験をマクロレベルに無邪気に導入することの失当性は、社会主義者:ペレール兄弟が19世紀に実践した「クレディ・モビリエ」の失敗が明々白々に示しているところです。優秀な経営者は優秀な政治指導者ではないのです。
■社会のアジャイル化は、まさに「文化大革命」的な大事業にならざるを得ない
また、コメ欄で矢萩邦彦氏が指摘しているように、そして、当ブログでも以前から指摘してきたように、日本では学校教育においても日常生活においても「計画性」を非常に重視している点、社会のアジャイル化には著しい障害があるというべきです。
日本「文化」では、緻密な計画を事前に立て、そのとおりに実践することが優秀さの証しとされています。想定外のトラブル発生への反省が、「もっと予見力を高めて、さらに緻密に計画を立てること」とされる始末です。短時間で事態の本質を見抜き、即断即決・即断即応することが尊ばれるような文化ではありません。
このような「文化」は、トライ・アンド・エラーを必然的に伴うアジャイル・モデル的発想とは正反対のものです。そうであるがゆえに、日本「文化」にアジャイル的発想を導入することは、まさに「文化大革命」的な大事業にならざるを得ないでしょう。そこまで考え抜いているのか、甚だ疑問であります。
このこと、「やりながら考える」で済むことではなく、よく戦略・戦術を考えてから取り掛からなければならないものであります。
■行き当たりばったりへの逆行になりかねないアジャイル推し
そもそも、ウォーターフォール・モデルは、もっぱら職人芸的・「目分量」的に業務進捗を管理してきたソフトウェア開発現場に、工業生産のような管理体系を導入するために編み出された手法であります。それを「試行錯誤」の名の下に逆戻りさせないか注視する必要があります。
実際のところ、甘い見積もりや行き当たりばったりを取り繕うために「アジャイル・モデル」が引き合いに出されてきました。しかし、アジャイル・モデルと行き当たりばったりは根本的に異なるものです。
その点、矢萩氏の「アジャイル導入が進む各国では、小学生のうちからプロジェクト型の学びに親しんでいるため、社会に出ても柔軟で素早いプロジェクトチームを作りやすいのですが、日本ではそうはいきません」は、よくある海外出羽守にしても大袈裟ではないでしょうか? ごく一握りの優秀な層はそうであっても、全社会全階層がそのように鍛えられているかのような書き方は、事実に反するでしょう。
全世界的なポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)の風潮の中で黙殺されていることですが、特に欧米では、「努力」では埋めようがないくらいに人々の能力格差が深刻化していると言われます。たとえば、ペーパーテストの設問文が理解できない、何が問題として問われているのかさえも理解できない人たちが日本とは比べものにならないくらいに多いと言われています。これでは、ウォーターフォール・モデルだのアジャイル・モデルだのと言っている場合ではないでしょう。
■ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は、問題所在を取り違えてしまう――行き当たりばったりが正当化されて、ますます混迷が深まるだけ
ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は、問題所在を取り違えてしまうように思われます。そして、良くも悪くも計画を持ち規律ある日本「文化」に「行き当たりばったり」を正当化する口実を与えかねないものであると考えます。繰り返しになりますが、試行錯誤と行き当たりぱったりは全く異なるものなので、両者を峻別する必要があります。そしてこのことは、非常に重要で絶対に押さえなければならないことなので、「やりながら考える」ことではなく、よく戦略と戦術を練ってから取り掛かるべきことであります。
軍事作戦を見てください。戦略・戦術・作戦をよく練ってから行動に移しつつも、現場の戦況に応じて臨機応変に対応しますよね? それと同じことです。作戦等を墨守する必要はありませんが、まったく無計画では討ち死にするだけです。
日本の新型コロナウィルス対策やワクチン接種事業について政府批判の言説を含めて振り返ったとき、ウォーターフォール・モデルとアジャイル・モデルの悪いところだけが発揮されてしまったように思われます。
総路線として比較的に固定的であるべき部分で試行錯誤があったかと思えば、ドタキャン余剰ワクチンの処理のように現場裁量で柔軟に行うべきところで「計画性」が発揮されてしまいました。目的意識を持って本質を見抜く力が欠けているので、枝葉的な批判に動揺して総路線がブレてしまいました。かと思えば、公平・平等の建前に基づいく施策に固執してしまいました。
ここで単純にアジャイル・モデル推しをしようものならば、本質を捉えない滅多矢鱈なダウンサイジングとサブ・システム化だけが進み国家・社会はアノミー化するだけでしょう。行き当たりばったりが正当化されて、ますます混迷が深まるだけでしょう。
■大量の情報を効率よくシンプルに整理することを優先すべき
話がシステム開発上のアイディアの準用であるので、引き続きその線で話を進めると、「ロシアのソフト開発がいろんな意味で凄い」という記事が興味深いところであります。やまもといちろう氏の文体は少しふざけているようにも読めますが、内容は至ってマトモです。
ロシア人は伝統的にシンプルな構造設計のモノを大量生産することに長けています。T−34戦車やAK−47突撃銃など枚挙に暇がありません。その発想における片鱗をこの記事から読み取ることができます。「基幹」や「主系統」といった発想であり、樹形図的な整理であります。
大量の情報を効率よくシンプルに整理することは、ウォーターフォール・モデルでもアジャイル・モデルでも共通して求められることでしょう。そして偶然にも、日本の詰め込み教育的なカリキュラムは、否応なしに高度な情報整理能力を要求します。歴史科目、世界史の通史は顕著であります。
問題解決能力とは、情勢に応じて暗記した内容を思い出し、それらを適切につなぎ合わせる能力であると私は考えています。また、情勢判断とは座学や経験から学んだ過去の類似事例と眼前の現実との間の共通点を瞬間的に見出し、過去の類似事例の経緯を踏まえて現状を判断することであると考えています(本質的に統計学であるAI・人工知能の思考回路もこんなところであります)。それゆえ、暗記力が高いからといって問題解決能力が高いわけではありませんが、問題解決能力の前提には暗記した内容があるのです。つまり、問題解決能力の前提には大量の情報を効率よくシンプルに整理する能力があるわけです。この意味で私は、世界史が得意な人は情報整理能力が高いと個人的に考えています。
ウォーター・フォールモデルかアジャイル・モデルかという議論よりも、大量の情報を効率よくシンプルに整理する方法論を論じた方が遥かに有益だと思われます。アジャイル・モデルが単なる行き当たりばったりの正当化に堕落しないためにも重要なことであるはずです。
■アジャイル推しが行き当たりばったりの正当化にならないために
アジャイル・モデルの名の下での試行錯誤の「昇格」には注意が必要です。前述のとおり、ウォーターフォール・モデルは職人芸的な進捗管理を工業生産の管理水準に引き上げるために導入されたものですが、単純二分法的な「ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルか」の二択においては、せっかく「工業化」されたものが「職人芸」に逆戻りしかねません。
日本の職場においては、依然として「職人気質」が残っています。「本社は現場のことを分かっていない!」や「コンプライアンス対策なんてやっていられないから、適当に誤魔化しておけ」といった会話はまったく珍しくないでしょう。現場が現実を一番よく知っているから現場の判断が一番正しい、本社は現実を知らない・・・
現場と本社は視点が違うだけでどちらかだけが正しいというものではないはずです。現場が眼前の事実を基に判断するのに対して、本社は各現場を越えた総合的・全体的な最適化を目指して判断するものです。本社が机上の空論を弄することもあるでしょうが、現場が井の中の蛙になっていることもあるでしょう。
試行錯誤は主に現場レベルで行われることですが、必要以上に試行錯誤を持ち上げると「現場の方が正しい」というある種の「職人気質」を助長しかねません。その行く末は「井の中の蛙」であります。単純なアジャイル・モデル推しは、システムとしての会社・職場を損ねかねないのです。
ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は間違っています。
■「45歳定年制」は、「トリクルダウン理論」以来のインチキ――問うに落ちず語るに落ちる
すこぶる評判が悪い「45歳定年制」について。
企業レベル(ミクロレベル)の最適化と国家・社会レベル(マクロレベル)の最適化がゴチャ混ぜになっている、「トリクルダウン理論」以来のインチキと言わざるを得ません。
「企業の新陳代謝」が進めば、そりゃ当該企業にとっては利益になるでしょうが、それが国家・社会レベルでの「成長産業への人材移動」に繋がるのでしょうか? そしてそれが国民福祉の増大に繋がるでしょうか? 「新陳代謝」というからには「排泄物」が発生するはずですが、その「処分」は誰がどうするのでしょうか? 誰が「食べもの」としての人材を用意するのでしょうか? まったく見えてきません。それぞれバラバラな希望的観測を並べ立てているにすぎず、そこに筋の通ったストーリーなどありません。
本気で「企業の新陳代謝を高め、国の成長産業に人材移動させる」というのであれば、それこそスウェーデンのように国家的な人材投資やソーシャル・ブリッジの構築が必要になるでしょう。いわゆる「北欧の福祉国家」は、通念とは異なり、経済産業政策は左翼が泡を吹いて卒倒するような新自由主義的なものであります。
しかしここで語られているのは、昨今の希望早期退職が引き合いに出されている時点で、労働者の個人的な「自己研鑽」への期待のみであります。何故か、もともとオワコンである東武「百貨店」の例を持ち出すあたり(デパートなんてリストラして延命――生き残りあらず――しかないでしょ)、そして最後の最後に二木章吉氏の「景気が回復すれば今度は業績の悪くない企業による早期退職の募集も増える可能性があるという。多くの企業が、40代、50代のボリューム減らし、全体の若返りを図りたいからだ」で持ち出してきたあたり、よく分かっていない人たちを騙そうとする魂胆はミエミエであります。「問うに落ちず語るに落ちる」とは、まさにこのことをいうものであります。
ここには、国家的な人材投資やソーシャル・ブリッジの構築など、影さえも感じられないものです。焼畑式経営以外の何物でもありません。これ、歴史的に悪質な扇動記事として記憶にとどめるべきですよ、ほんと。
■必死に取り繕っても、元が元だから無意味
ここにきて新浪発言について、その内容を微妙に書き換えながら擁護する言説や記事が複数出てきています。「観測気球」が「地対空ミサイル」で迎撃されたかの如く予想外の猛反発だったので、必死に火消しに追われているのでしょう(実際、不用意な新浪発言で連中の狙いは数年単位で遠のいたでしょうね)。
これらの取り繕いもまだまだ浅い。まあ、浅はかで一方的なプルジョア的利益追求でしかないのだから、深くなるわけがないのですが。「45歳定年制に憤る人に知ってほしい働き方の現実」(9/16(木) 11:31配信 東洋経済オンライン)という記事のコメ欄に付いているコメントが全て言い尽くしています。以下。
この手の制度は、働き方を選択できるオプションを与えるだけだと言って制度を導入し、その実態は肩たたきに都合よく利用されてきたという歴史がある。また、経済評論家の門倉貴史氏もいいこと言いますね。「多様性」談義は、ポリコレを見ればわかる通り大抵はロクでもないものですが、今回ばかりは正当です。
仮にその制度自体はいくら正しくても、制度を悪用する連中について何の対策も講じなければ、世の中に納得されるわけがない。
その対策を説明しないのは、説明が下手くそなのか、最初から悪意があって故意に説明しないのかどちらかであろう。
門倉貴史
エコノミスト/経済評論家
アフターコロナ時代の経営戦略として注目されているのが「ダイバーシティ経営」だ。多様性が発揮されず、同じような考え方を持つ社員だけで組織が構成されると、新しいアイディアの創出やイノベーションが起こりづらくなり、企業業績や生産性にもマイナスの影響が出てくるだろう。ダイバーシティ経営とは年齢、性別、人種、宗教、職歴、趣味嗜好などの多様性を活かして、企業組織における生産性の改善や競争力の強化を目指す戦略だ。実際にダイバーシティ経営を実践している企業では生産性の改善が確認されてもいる。その点、45歳定年制は、年齢の多様性を尊重しない経営戦略であり、中高年層の経験や考え方が経営に活かされなくなることで、かえって企業の生産性や業績に悪影響が出てくるのではないか。
■労働者も強か、ますます「腰掛化」が進み、システムとしての会社は機能低下・機能不全に陥る
ところで、ブルジョアも悪辣ですが今や労働者も強かです。ますます「腰掛化」が進むでしょう。
かつて一世を風靡した「成果主義」は、労働者のヒラメ化、すぐに形に現れる仕事にばかりが人気になる現象を引き起こしましたが、そりよりも酷いことになるでしょう。
成果主義は、評価者の工夫次第でシステムとしての会社組織の維持に必要な、地道で泥臭い仕事に労働者を差し向けることができました。まだ労働者たちが上司の顔色を窺っていたからです。
しかし、労働者が自分のキャリアアップを第一に考えて会社を渡り歩くようになると、もはや労働者は在籍企業の方向ではなく転職市場の方向を向いて行動するようになります。そのマインドは個人事業主のそれに近くなるでしょう。会社内でクリーム・スキミングのようなことが発生するでしょう。他方、何とかしてしがみつこうとするあまり冴えない労働者だって、40歳くらいで自分が有望株かどうかくらいは分かるでしょう。一気にやる気をなくし40歳にして「消化試合」を始めることは、いまの55歳くらいを見れば目に見えることであります。
国家であれば公共部門が尻拭い・後始末をしてくれますが、会社内にそんなものはありません。ある程度はメンバーシップ採用人材を残さざるを得なくなるでしょうが、優秀な人材が企業を渡り歩く時代で、あえて腰を据えて一企業のつまらない火消し業務に奉仕する人が「優秀な人材」なのでしょうか? 結局、システムとしての会社は機能低下・機能不全に陥ることでしょう。
■総括――同じ「フルジョア根性」を持った人間同士なのだから
上に政策あれば下に対策あり。御上が露骨に私的利益追求に乗り出せば、同じように下々も上手く立ち回って私的利益を確保しようとするものです。同じ「フルジョア根性」を持った人間同士なのだから。ハルマゲドンは近い。