グレタさん「地球からの搾取やめろ」会場付近で訴え■可能なのは「自然の恵みを頂戴するにしても限度を弁えろ」といったあたりにならざるを得ない
11/2(火) 10:58配信
テレビ朝日系(ANN)
気候変動対策を話し合う国際会議、COP26がイギリスで開催されるなか、環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが会場近くで行われたデモに参加しました。
環境活動家、グレタ・トゥーンべリさん:「人々や自然、そして地球からの搾取はもうたくさんだ。搾取をやめろ。ああだ、こうだ言うのはやめろ」
グレタさんは、温暖化対策が進まない現状を痛烈に批判しました。
(以下略)
アカの私がロシア革命記念日である11月7日に言うのもなんですが、「搾取」という厄介な概念を持ち出すだなんて・・・いったいどこで覚えたんでしょうか。ああこの泥沼に自分から入り込むだんて・・・
「考えるきっかけ」などという逃げ道を塞ぎ、あくまでも科学的に厳密に考える立場を貫徹するとき、そもそもあらゆる生産活動は自然環境からの搾取に他なりません。
たとえば農業。農夫は種蒔きや施肥、水やりに草刈りと自らの労働を多く投下しますが、同時に植物固有の生命力や土壌中の微生物活動、気温や湿度、太陽光といった自然環境の条件からも多くの利益を引き出しています。寒冷地の冬に敢えてトマトを栽培しようとすれば膨大な燃料費が持ち出し費用としてかかりますが、温暖な土地で季節に合わせてトマトを育てれば、その生命力ゆえに「勝手に」育ってくれます。このとき、人間はトマトや土壌中の微生物等に「給料」を払うはずがなく、一方的に収穫し消費します。まさに搾取以外の何物でもありません。
人間は光合成できない存在なので、かならず自然環境から生存のための食料等を獲得する必要があります。その存在からして自然環境から一定の「搾取」を行わなければそもそも命を繋ぐことができない存在なのです。よって、「地球からの搾取やめろ」を字義どおりに実践することは不可能であり、可能なのは「自然の恵みを頂戴するにしても限度を弁えろ」といったあたりにならざるを得ないでしょう。
■主体がしっかりと確立されていない人物がSDGsを語っている
その点において、慶應義塾大学の若新雄純特任准教授が下記の記事で述べたことは衝撃的であります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/da09206b2e166106e8162e73bbbf2ecd95710424?page=4
「地球からの搾取をやめろ!」グレタさんのメッセージに感じてしまう違和感の正体…制限の“無理強い”ではなく選択肢の“提示”を11/4(木) 15:22配信若い世代の「持続可能性」という言葉の意味の取り違え・・・驚くべきことであります。チュチェ思想的に考えるとこのことは、主体がしっかりと確立されていない、すなわち自分自身の観点と立場がしっかりと定立されていないというコトに他なりません。
ABEMA TIMES
(中略)
慶應義塾大学の若新雄純・特任准教授は「高校生たちとSGDsワークショップをやると、多くの生徒が“持続可能性”について勘違いをしていてびっくりする。つまり、人間の欲望ある生活、経済活動も、これくらいであれば環境に負荷をかけ過ぎない形で持続可能になるよ、ということであって、地球環境を持続可能ではない。かつてはみんなが道端にゴミを捨てていた時代もあったけれど、今は減っている。それに僕らがものすごくストレスを感じているかというと、そうではない。それが持続可能という意味だと思う」と話す。
「それなのに、どこか“資源を守れ”みたいなものだと勘違いをしている。グレタさんもちょっと惜しいと思うのが、その言動自体が周りの人にとってはとてもじゃないけど“持続不可能”なものになってしまっていること。
(以下略)
主体がしっかりと確立された人物は、なによりも人間自身の利益から出発して世界に対応します。人間の活動は、自らの自主的要求の実現を目標としているからです。そうである以上は、人間が世界に対応するうえでは人間自身の利益を出発点とすべきです。
もちろん、地球は人間だけのために存在しているわけではありません。エゴを貫き通せすことを推奨している訳では決してありません。しかし、人間自身の利益をかなぐり捨て、とても実践できないような禁欲生活を提唱する必要もありません。バランス・均衡を取るべきなのです。チュチェ思想が「自由」よりも「自主」すなわち、社会と世界そして自分自身の責任ある「主人」として振舞うことを重視しているのは、この点にあります。
上掲記事の別箇所で、会社経営者の岩澤直美氏も「毎日食べていたお肉も、赤ワインを飲む時だけにしよう、みたいにすると、特別な感じがあって楽しめる。そういうアプローチの方法が大事だと感じている」などと口走っています。「SDGsに理解ある人士」として恰好つけたいのかもしれませんが、本気で言っているのでしょうか?w ご自身はいたって本気だったとしても、それを政策として全人民の取り組みとして展開できると思っているのでしょうか?ww 若新氏が取り上げた勘違い高校生と同じレベルだと言わざるを得ません。現実に足を付けずに観念世界で概念を捏ね繰り回しているようにしか見えません。
※まあ昔の日本では肉食は非常に限られたハレの日でしかできなかったことなので絶対不可能とは言いません。しかし、数世代かけて文化として定着させる必要があることでしょう。そんなに悠長に論じていられる課題なんでしょうか?
■相変わらずの観念論っぷり
チュチェ108(2019)年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」においても、啓蒙で社会が変わるなどと夢想するグレタさんを持ち上げるエコロジー運動の観念論性について論じた上で、気候変動は危機水準であり環境問題は喫緊の対策が必要であるからこそ、エコロジー運動は、観念論から卒業して新たな局面を切り拓く必要があるとしました。
それから2年経ち、気候変動はさらに加速度を増して気候危機というべき状況を深めています。しかしエコロジー運動は相変わらずであると言わざるを得ません。「搾取」という新しい単語を覚えたようですが、使い方が間違っています。また、現実味のない禁欲主義でこの気候危機を乗り越えようとしているようです。
資本家による労働者の搾取、すなわち人間による人間の搾取は、生産手段の共有化によって理論的には廃絶可能だと考えられます。しかし、上述のとおり、人間による自然環境の搾取は、人間存在が植物ではなく動物である以上は原理的に廃絶できないものと思われます。唯一可能なのは、環境負荷を軽減させて自然復元力とのバランス・均衡を取ることだけでしょう。
■ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したい
思うに、このバランス・均衡実現は、禁欲ではなく新技術の開発でしか達成できないものと思われます。石炭を燃やさないとか牛肉を食べないとかではなく、石炭を燃やしても温室効果ガスの大気中排出量が減るとか肉牛がゲップしてメタンガスが排出されてもトータルでプラスマイナスがゼロになるとか、そういった手法のみが事態を打開するものと思われます。
禁欲的生活によって地球上の問題を解決しようという気持ちは分からないでもありません。私は最近、的場昭弘氏の『ネオ共産主義論』を読み返しているところですが、たしかに人類史を振り返れば、ロマン主義的な社会改良・社会変革を望む流れは脈々と存在してきたものです。聖書も読み方によってはそう読めるかもしれません。
しかしながら、我々が現在直面している喫緊かつ困難な問題の解決のためには、人間精神を陶冶して禁欲を以って対応する時間的余裕はないでしょう。まだ新技術開発の方が現実味があります。
また、そもそも上述のとおり、昨今論じられている禁欲主義は、人間自身の利益というものを捨象しており「逆に振れ過ぎ」と言うべき代物になっています。ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したいと思います。
ラベル:チュチェ思想