■比例代表での獲得議席数と得票率から考える
まず、(1)について、維新の比例代表での獲得議席数と得票率から考えてみましょう。
今回、維新が獲得した比例25議席のうち10議席は近畿ブロックでのものでした。議席を獲得できなかった北海道ブロックを除いて、そのほかの各ブロックでは、1〜3議席の獲得に留まりました。得票率については、近畿ブロック内の大阪・兵庫では堂々の第一党でしたが、同ブロックの他の府県では自民党の後塵を排しています。他ブロックの都道県別の得票率では第3党以下であることが多く見られます。
全国の比例各ブロックで同じように議席を獲得していれば、維新支持の理由が全国で概ね同じだと言えるでしょうが、近畿ブロック、とりわけ大阪・兵庫だけが突出しているとなると、「大阪・兵庫」と「それ以外」に分けて分析するべきでしょう。
大阪・兵庫以外の都道府県での比例獲得議席及び得票数からは、まだまだ維新の力量への信用が十分に醸成されていないことが強く推認されます。よほど関心がなければ他県の地方行政をチェックしないのが普通でしょう。その点、維新には大阪などの一部の自治体での地方行政の経験と実績しかありません。まだ大阪等以外では維新への信頼が醸成される機会がないのです。
大阪・兵庫については、月並みの分析になってしまいますが、やはり10年以上にわたって展開されてきた「行財政改革の実績」なるもの、および、昨年の一時期に「吉村総理待望論」まで出てくるようになった「リーダーシップ」なるものによるでしょう。
もちろん、この行財政改革によって大阪府の病院が「身を切ら」れてしまい、この度の新型コロナウィルス禍において大阪府の医療提供体制がいち早く限界を迎えてしまったと指摘されているところです。また、新型コロナウィルス禍での社会不安やフラストレーションの捌け口としての「自粛警察」を扇動し、パチンコ店などを文化大革命的に吊るし上げることで「リーダーシップ」を演出してきたのは、まさしく維新副代表の吉村氏その人でした。しかし、非常に巧みな宣伝術でそのことを切り抜けています。
とはいえ、維新の「実績」はあくまでも地方行政でのそれであり国家行政でのそれではありません。地方行政を司れるからといって直ちに国家行政も司ることができると考えるほど有権者も単純ではありません。「政権与党に化ける見込みはあるが、まずは自民・公明連立政権に喝を入れさせよう」という投票動機であり、その意味では現時点ではまだ一種の政権批判票として取り扱うべき段階でしょう。
■地方部へも深く根を張るときに直面するであろう思想的問題
馬場幹事長は、「ホップ・ステップ・ジャンプで政権狙う」と述べました(「維新・馬場幹事長を直撃!「ホップ・ステップ・ジャンプで政権狙う」 「非共産党」の国民民主と連携も視野 衆院選11議席から41議席と大躍進」2021.11.6 夕刊フジ)。吉村氏のイソジンの件といい、維新はすぐに調子に乗ります。
もし維新が政権を取り永く維持しようとするならば、今はまだ支持が弱い地方部へも深く根を張る必要があります。地方の既存利益集団等と関係性を構築し、彼らと利益配分について折り合いをつける必要があります。しかし、そもそもそうした「既得権」と戦うことが維新の原点であるはず。この点の思想的整理なくして政権獲得を狙える入口に立ったとは言えないでしょう。
一気に政権獲得などと考えずに地歩を固めなければ、無党派層頼み・風頼みの党に過ぎなくなるでしょう。個人的には、現状では維新はこの点を突破できないとみています。
■現時点ではまだ一種の政権批判票として取り扱うべき段階
今回の総選挙の結果からは、維新は、依然として大阪中心、都市部中心の政党であると言えるでしょう。決して無視はできませんが、全国レベルではまだ「次の段階」を狙えるような大きな勢いを持っているとは言えそうにありません。固い組織力(組織票)があるわけでもないので、ジャーナリストの田崎史郎氏が言うように、自民党が公明党を切ってまで維新と組むとは考えにくいところです。
■そもそも維新は、新自由主義を前面に打ち出して勝負しているとは言い難いし、新自由主義ブームが起こっているとも言えない
次に(2)について考えてみたいと思います。
「それでも日本人は新自由主義を選んだ」という記事があります(11/1(月) 15:29配信 ニューズウィーク日本版)。筆者である藤崎剛人氏は、維新の躍進を新自由主義の復権として捉えているようです。
前述のとおり、維新の躍進はあくまでも政権批判票の受け皿としての色合いが濃く、後述の理由から考えて「新自由主義の復権」は大袈裟過ぎるでしょう。たしかに維新が掲げている政策を慎重に吟味すれば、それが新自由主義と親和的であることが分かります。しかし、そもそも維新は、新自由主義を前面に打ち出して勝負しているとは言い難いところです。表向きは「行財政改革」や「不合理な規制・制度を改めて経済成長を目指す」といった程度にとどまっています。
次のくだりは、詳しい人は知っているが多くの人は知らないと思われます。知っていたとしても「あくまでも自公連立政権へのカンフル剤でしかないから・・・」という、それこそ「日本の共産化を望んでいる訳ではないが日本共産党に票を入れる無党派層」と同じ考えだと思われます。
こうした中で、日本維新の会は唯一はっきりと新自由主義政策を主張していたといえよう。新自由主義者として知られる人材派遣会社パソナの竹中平蔵会長と結びつき、社会保障としては弱者切り捨てに近いベーシックインカムを主張。規制緩和と民営化で「小さな政府」を実現し、「経済成長」のための競争社会をつくろうとしていた。ある議員は、「正社員」は「既得権」だと明確に言っていた。これはまさしく竹中平蔵の持論でもあり、雇用の不安定化を進めるということだろう。このような路線が、多くの有権者に支持されたということなのだ。
もし、新自由主義が、岸田総理が掲げる「新しい資本主義」への対抗馬として興りつつあるのならば、一般大衆の間で先んじて新自由主義を求める声や熱意が高まっているはずです。小泉改革の時代を思い起こしていただきたい。「勝ち組・負け組」という言葉が人口に膾炙し、自己責任論の嵐が荒び、ライブドア堀江氏や楽天三木谷氏らが時代の寵児として持て囃されました。しかし現在、一般大衆の間で新自由主義を求める声や熱意はまったく見られません。
一般大衆の要求や熱意が、特定の政党を政権与党に押し上げるという主体的な政治理解が必要です。
「資本主義の枠内での改革」を標榜している日本共産党への支持が高まったからといって日本が赤化に近づいたとは言えないのと同じく、維新が議席を増やしたからと言って必ずしも新自由主義への支持が高まったとは言えないでしょう。
■新自由主義どころか「改革」さえもニッチ業界化している
また、維新が小泉改革の残り香をまとってブームとなった2010年代初頭を思い起こしていただきたい。この頃は、「みんなの党」など維新と主張が似通った党が他にもあり、「新自由主義ブロック」とでも言い得るものがありました。しかし今や、新自由主義どころか「改革」さえもニッチ業界化して、ほぼ維新一党だけになっています。元経産官僚の古賀茂明氏は、「なぜ「改革」の旗を掲げる政党は絶滅しかけているのか」(10/29(金) 6:00配信 週プレNEWS)と述べているところです。結構面白い記事です。「この20年間で叫ばれてきた「改革」というキーワードが影を潜めてしまった理由は想像に難くない。有権者の多くが「改革」という響きに警戒心を抱くようになったからだ。(中略)今、必要なのは「改革」のバージョンアップ。すなわち「改革の改革」だ。これまでの「改革」は企業の効率を重視する規制緩和が中心だった。しかし、これからは企業優先、効率一辺倒の「改革」から、@働く人に優しい改革、A自然環境に優しい改革、B社会的不公正に厳正対処できる改革へとフェイズを移さなければならない。効率から公正へと言ってもよい」という指摘は、いい線行っているのではないでしょうか。
今回の維新の躍進を「新自由主義の復権」となどと位置付けることは困難であると思われます。上掲、古賀氏の指摘を踏まえれば、その取っ掛かりを掴んたとさえ言えるかどうか怪しいところです。
■おわりに
もちろん、決して無視できる勢力ではありません。維新的なモノへの批判は加えてゆく必要があります。当ブログでも11月14日づけ「日本維新の会の「古臭さ」について」などでも論じました。今後も折を見て展開しなければならないと考えています。
ラベル:政治