兵庫に続き、高知市も公務員に「水道代の自腹弁償」請求へ 賠償額が数百万円に上るケースも〈dot.〉https://www.yomiuri.co.jp/national/20211214-OYT1T50058/
12/28(火) 15:57配信
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プールの水を出しっぱなしにしてしまうなど、ミスで大きな損失を出した公務員に、自治体が損害額の一部を請求するケースが相次いでいる。中には数百万円という高額な例もあり、安定した身分の公務員とはいえ賛否両論がある。果たしてこうした「自腹弁償」の流れは加速していくのか。
(中略)
2021年7月、高知市の小学校で教員がプールの水を止め忘れ、一週間出しっぱなしの状態となった。井戸水のため上水道代はかからなかったが、7月の下水道代は例年の同じ時期より10倍ほどとなる290万円にのぼった。市は今月、教諭に約66万円、校長と教頭にそれぞれ約33万円と、損失の半額程度となる計132万円を請求する方針を明らかにした。
同様の事例は各自治体でも起きている。21年2月には、兵庫県が貯水槽の排水弁を閉め忘れた職員に対し、損害の半額程度に当たる300万円を請求したことを明らかにしたが、あまりに高い弁済額が物議を醸した。
半額程度を請求する自治体の姿勢には根拠がある。過去に都立高校でプールの排水バルブを閉め忘れたまま給水を行ったため、100万円余りの余分な水道代が発生した事案があった。ある都民が独自に損害額を算定した上で「都はミスをした教職員らに全額を請求すべきだ」と提訴したが、裁判所は「賠償額は半額を限度とするのが相当」と判断した。請求は棄却された形だが、この「半額」の判断を兵庫県も参考にしていた。
(中略)
兵庫県のケースもそうだったが、公務員に対しては「税金で食べている」という風当たりがある。損失の補填も税金で支払われるため、県民からミスに対し厳しい処分を望む声もあった。例えごく一部の意見であったとしても、市民感情を無視できないという事情が見え隠れする。
「自治体は同じような事案が生じないよう、定期的なチェックシステムを取り入れるなど、今以上にミスを防止する体制を整えたり、損害保険を導入したりする必要があるでしょう。一方で、自治体が職員に請求せざるを得ない背景には、市民感情への配慮があると思います。県民や市民の皆さんが個人への賠償請求をどう考えるかも、今後の対応に影響していくと思います」(村松弁護士)
ミスした責任は確実にある。ただ、誰にでもミスはある。責任を追及しすぎるギスギスした世の中も疲れてしまう気がするが…。(AERAdot.編集部・國府田英之)
排水弁閉め忘れた県職員が300万円弁済…公務員個人のミス、自治体からの賠償請求が増加国家賠償法や地方自治法では、故意又は重大な過失がある場合は、自治体は公務員個人に対して求償権を有するとされています。同様の規定は労働基準法第16条(賠償予定の禁止)の解釈としての「賠償の予定は禁ずるが、実際に発生した損害の賠償を請求することまでは禁じられていない」という定めに見出すことができます。その点、報道されている範囲内で考える限り、本件は公務であっても民間企業であっても「違法」とは言えないように思われます。
2021/12/14 10:20
業務上のミスなどで生じた損害について、自治体が職員個人に賠償を請求する例が増えている。住民による行政監視が強まっていることが背景にあるとみられ、民間企業よりも厳しい対応が求められているようだ。(山本貴広)
(中略)
職員はどの程度弁済すべきなのか。兵庫県が排水弁の閉め忘れで弁済額の参考にしたのが、東京都立高校で15年、8日間排水バルブが開いた状態でプールに給水を続け、都に約116万円の損害が生じたケースだ。
都は注意義務違反にあたるとして、関係した教職員7人に半額相当の賠償を求め、全員が納付。この後、全額負担を求める住民訴訟が起こされ、東京地裁は訴えを棄却する一方、設備上の問題などを認め、職員の負担割合は「5割を限度に認めるのが相当」との判断を示した。
一方、企業法務に詳しい村松由紀子弁護士によると、民間企業では、従業員が 萎縮いしゅく したり、責任のある仕事を避けたりすることを防ぐため、損害賠償を個人に求めることはほとんどなく、企業側が保険に加入して備えるのが一般的という。
同志社大の太田肇教授(組織論)は「公務員は市民の税金を扱っている以上、民間よりも責任が厳しく問われるケースがある」と指摘する。
(以下略)
しかし、民間企業において労働基準法第16条の解釈に則って下っ端の社員個人に損害賠償をさせているケースを思い浮かべると、たとえばブラック引越業者などが脳裏に浮かぶものであります。上掲読売記事でも「民間企業では、従業員が 萎縮したり、責任のある仕事を避けたりすることを防ぐため、損害賠償を個人に求めることはほとんどなく、企業側が保険に加入して備えるのが一般的」とのこと。賃金未払いでコキ使うだけがブラック企業ではなく、会社組織が負うべき責任を個人に押し付けることも立派なブラック企業です。また、ブラック企業の経営者たちは必ずしも悪魔的確信犯とは限らず、無知な個人が成り上がりで経営者になってしまったケースも多々あります。面と向かって社員の人格を否定するような明白なパワハラを展開したり、どう見ても違法な賃金未払いを平気でやってのけ、案の定、労基などから是正勧告を食らったりしている企業などは、無知な個人の成り上がり以外の何物でもありません。
これに対して公務労働においては、「民間では〜」という枕詞に始まる批判が氾濫するようになってから久しく、公務員バッシングをウリに「日本維新の会」が伸し上がってきており、それを受けて自治体側が不祥事等に対して過剰に反応している嫌いがあるように思われます。結果的に、社会に一定数存在しているブラック企業的メンタルの手合いによる「市民の声」を恐れるあまり自主規制的に過剰反応しているように見受けられます。
「プールの蛇口閉め忘れ」だなんて昔からの定番のミス。いままでいったいどれほどあったことか。個人の注意力頼りだなんて一番低次元であり、もはやそれ頼りは「対策を講じているうちには入らない」というべきものです。未だに下っ端の個人の注意力頼りということの方がよほど「民間では〜」といいたくなるものです。
資金力のある企業であれば自動検知装置を用意するし、資金力のない企業であればチェックリストやダブルチェック体制をとり、ミスを組織的になくそうとしています。この手の下っ端の個人の注意力頼りは、まともな民間企業であればやらないことです。また、まともな民間企業では、ミスが起こってしまったあとその「傷口」を如何に小さく留めるかという縦深防御的発想も持っています。担当者が職務を完全に忘却しきり帰宅してしまっても、次の日以降に誰かが気が付いて被害を最小化するという次善の策です。そして、担当者個人のミスについていちいち損害賠償を請求していては社員が事なかれ主義に陥るので、めったやたらには賠償請求しないものです。だからこそ、「家具に傷がついた」からといってその修繕費を会社の持ち出しではなく担当者個人に負担させる一部引っ越し業者がブラック企業扱いされるわけです。
ミスは極力起こさないようにする、しかし絶対に起こさないことは無理なので、ミスが起きてしまったことを前提に次善の策をも講ずる――これがマトモな民間企業の危機管理です。商売人たるもの、「ミスは絶対に起こさないこと!」の精神論、個人の注意力に頼り切る方法ではどうにも成らないことは重々承知しているので、現実主義的な対応が身に付いているというわけです。
その点、組織的には何もせず個人に頼り切りだったのが本件。下っ端の個人の注意力に頼り切りで、また、「傷口」が大きく広がるまで何ら組織的に対応しなかったわけです。その意味では確かにお役所は未だに「民間の感覚」が身に付いていないと言えるかもしれません。もちろん、ここでいう「民間」とは、マトモな企業の経営に参画しているプロの経営者・商売人のことであり、個人の注意力に頼り切りの素人のことではありません。
もっとも、公務員・自治体の究極的な雇い主・主人がこの国民であることを考えれば、当然の帰結とも考えられます。精神論をこよなく愛するこの国民。半径数メートルの個人的感覚で天下国家を語るこの国民。この度の新型コロナウィルス禍における政策の迷走について「政治家・役人にやる気がないからだ」「政治家・役人は無能だからだ」といった罵倒が展開されたものでした。「個人のやる気」や「個人の能力」にばかり目が行ってしまうのがこの国民であります。個人の能力頼りという一番お手軽な低い次元でしか考えられないのがこの国民なのです。アエラ記事も読売記事も結局この流れは「市民感情」によるものと総括しています。
この国民がこのように考えることは、無理もないことかもしれません。日本では子供のころから「ミスは絶対に起こさない」を美徳として教育されます。たしかに子どものころから注力散漫であっては困るので、子どもに対する教育としては「ミスを起こさない」でもよいかもしれません。しかし、子どもから大人に成長するどこかで「ミスは極力起こさないようにする、しかし絶対に起こさないことは無理なので、ミスが起きてしまったことを前提に次善の策をも講ずる」に切り替えなければならないはずのところ、この国ではその切り替えが教育カリキュラムに組み込まれていないように思われます。よって、何かのきっかけでそれに気が付けた人は企業人としてやっていけるが、それに気づけない人はいつまでも「ミスは絶対に起こさない」のままになってしまうものと思われます。
公務員・自治体の究極的な雇い主・主人がこの国民であり、その国民がブラック企業顔負けの要求を公務労働者に展開しているわけです。また、この国民の発想は、個人の能力頼りという一番お手軽な低い次元でしか考えられず、この発想はまさに無知な個人が成り上がりで経営者になってしまったブラック企業のケースそのものです。このように考えると、ニッポンのブラック企業は、この国の「文化」的な帰結であるように思えてなりません。
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