■新型コロナ5類引き下げ論の背後にある誤謬:「彼我の分断」というべき「個人」主義的な世界観・社会歴史観
あいかわらず、正しく危機感を持つことができていない日本世論。最初の感染拡大期であった一昨年の春は、まさにパニックと言ってよい尋常ではない恐れ方が世間標準でした。いくら「新型」といってもコロナウィルスはコロナウィルスでありまったく新種ではないのだから、その特徴から大きく外れることはありません。しかし、「未知の新型ウィルスに対して手洗い・うがい・マスク程度で済むはずがない! 専門家は信用ならない!」という声があがったものでした。そうかと思えば此度のオミクロン株による感染拡大では、「どうやら重症化しにくく、軽症で済みそうだ」という感染拡大先行国での知見をうけて、市井では1日の新規感染者数が5万人を超えても10万人を超えてもあまり危機感が表出されていません。
それどころか、「重症化しにくい」や「軽症で済む」とことばが独り歩きして「ほとんどの人が重症化せず軽症で済むのだから、経済を回すことを優先しよう」とか「毎年のインフルエンザの流行だってたくさんの人が感染して、中には死ぬ人もいるが、ここまで厳重な対策はとっていない。早くインフルエンザと同じ5類感染症扱いにすべきだ」という声が聞こえるようになってきました。
たとえば、「感染症学専門家 楽観視に警鐘「数の横暴が起こると尋常じゃない死者数に」」(2/10(木) 11:14配信 デイリースポーツ)という記事のコメント欄には次のコメントが寄せられていますが、正しく危機感を持てていない人の典型的な発想が凝縮されているように思われます。
今より遥かに感染者数が少なかったにも関わらず致死率が現在より遥かに高かったデルタ株はまた、日本維新の会の根城である大阪府の感染状況と病床使用率が全国でもかなり深刻であり続けていますが、維新率いる府当局が事態を的確に収拾できているとは言い難いところです。むしろ、維新がここ15年弱の間に推し進めてきた「行財政改革」が、東京都の6割程度の人口しか居ないのに東京都なみの深刻な状況に至った元凶だとも指摘されています。維新がいう「行財政改革」が、科学的な見通しに基づく冗長性を確保したものではなく、素人の成金発想的なコストカットでしかなかった証左だと思いますが、そうであるためか、熱心な維新シンパが精力的に維新フォローの論陣を張っています。維新から「行財政改革の成果」を剥ぎ取れば、文化大革命的な手法による社会分断の爪痕というマイナスの成果しか残らないので、維新シンパたちが論点逸らしに必死になるのも無理もないことですが、かなり苦しいと言わざるを得ないものも含まれています。たとえば「大阪のコロナ死者、第4波の1.7倍 2週間で203人、9割高齢者」(/12(土) 15:34配信 毎日新聞)のコメント欄には次のコメントが寄せられています。東京都の6割程度の人口しか居ないのに東京都なみの深刻な状況に至っている弁護になっていません。
強力な規制が必要だという論調に至り行動制限に踏み切った昨年夏はまだ納得できたのですが
現状はそもそもが致死率や肺炎率共に低いので寿命に近い高齢者以外は影響が小さいという事で
行動制限を課してない結果としての感染者数の多さと死者の多さだと思います
これは数字上過去最悪でもデルタの時とは実質二桁くらいインパクトが小さいと思ってまして
withコロナに本当の意味で成功し始めたフェーズに思うのです
医療関係者の負担は政治行政側からお金と人を供給する以外無いと思いますし
社会全体の正常化を目指すに当たって現状は決して悲観的なマクロ事象が起きてるとは私は思いません
繰り返しますがデルタの時は確かに悲惨だったと思いますし行動制限の必要性もあったと思います
今はかなり危機から脱した段階の必要経費のイメージです
日本人の平均寿命84.5歳。デルタまでの平均死亡年齢が82歳。オミクロンになって87.5歳。コロナ前でも高齢で体が弱ってる方は最後は風邪を引いて呼吸ができなくて亡くなる。今まで当たり前の死生観。高齢者を軽視するわけではないが、亡くなる寸前の方をも助けるために、子どもや若者に規制をかけ、日常生活(部活やスポーツ少年団、修学旅行など)が通常通りできなく、医療、ワクチン、飲食店補助で税金を垂れ流し。この状況をいつまで続けるのかね。いい加減考えをシフトしないと。ウイルスは突然無くなるものではない。生きていくためのリスクとして、受け入れて共存していくしかない。上に引用した2記事2コメントに共通する発想は、「新型コロナウィルス感染症で重症化したり死亡したりする人は『少数派』に過ぎないのだから、そのために『社会全体』が付き合う必要はない」というものです。そしてその底流には、人々を「重症化リスクがある人」と「そうではない人」とに分類した上で両者を切り離し、双方の間には何らの関連もないものと考える「彼我の分断」というべき「個人」主義的な世界観・社会歴史観があるものと思われます。
現実は、このような「個人」主義的な発想の誤りをはっきりと示しています。今まさに起こっていることは、「重症化リスクがある人」たちが新型コロナウィルスに感染したことによって、その対応に医療資源の多くを優先的に回す必要が生じ、その結果、救急医療等の誰でも当事者になり得る症状による患者対応を後回しにせざるを得なくなっていることであります。
たしかに新型コロナウィルス感染症そのものは、若年層等にとってはそれほど致命的なものものではありません。しかし、社会はシステムであります。人々は相互に連関し合っています。そして、医療資源は潤沢というほどは存在していません。また、医療サービスはもとより支払い能力ではなく必要性に基づくものであり、さらに新型コロナウィルス感染症に対する医療サービスは公費負担でもあるので、一般の消費財・サービスとは異なり「カネがない? そりゃ残念だったね、あなたにはここまでだよ」という訳には行かないものです。それゆえ、社会全体で一定の供給量しかない医療資源について、ある層からの需要が増えればそれ以外の層への割当量が減るのは自明の理であります。しかし、飽食ボケ、高い生産力ゆえに物不足・供給不足に陥ることが滅多になく、仮に希少品の争奪戦になったところで他人の取り分を気にする「義理」のない「個人」主義者は、この自明の理に考えをめぐらすことはありません。そのため、「彼我の分断」というべき「個人」主義的な世界観・社会歴史観に基づき放蕩の限りを尽くした結果、軽症で済むとタカをくくった手合いがウィルスをばらまき、重症者を増やし、限られた医療資源にそうした人たちが殺到し、救急医療等が逼迫するという結末に至ったわけです。
また、オミクロン株の感染拡大初期から「たしかにオミクロン株で重症化する『確率』は低いが、算数の問題として、高い感染力によってたくさんの人に感染が広がれば、重症者の『人数』が増えるので、結局、対応するために病床が逼迫する」と懸念されてきました。これもまた、今まさに起こっていることです。この点においても「個人」主義の誤りを現実が示しているものです。あくまでも個人レベルでの「重症化しにくい」というオミクロン株の特徴をそのまま社会レベルでの「経済を回すことを優先しよう」の政策根拠とすることは、個人レベルでの感覚で天下国家を論じる観念論的言説以外の何物でもありません。
自分自身の身に重症化の災禍が降りかかる確率は、デルタ株以前と比べて格段に下がり、その意味で個人レベルでは一息つけるようにはなりました。しかし、社会全体を見渡したとき、医療資源の総供給量に対する総需要量のバランスは、まだまだ楽観できる状況にはありません。たとえ話として少し変化もしれませんが、古代とは異なり近現代では、戦争においては死ぬ人よりも生き残る人の方が多いものです。銃弾や爆弾に当たらない人の方が多いものです。しかしだからといって、「この戦争は平和な戦争だ」とはならないでしょう。新型コロナウィルスについて社会全体として一息つくためには、飲み薬の実用化とワクチンのブースター接種推進が鍵になるでしょう。
■「少数派のために社会全体が付き合う必要はない」はどのような点においてダブル・スタンダードの屁理屈であるか
上述のとおり「少数派のために社会全体が付き合う必要はない」論は、その「個人」主義的な世界観・社会歴史観に起因する誤りの他にも、「新型コロナウィルス感染症で死ぬような人はどうせ死期が近かった」と言っているようなものなので、道徳的にもトンデモなものであります。しかしここからは、そのトンデモっぷりをさらに浮き彫りさせるために、あえてこの主張に乗っかって進めてみたいと思います。
さて、たしかに新型コロナウィルス感染症によって重症化する人は「少数派」です。しかしながら、日本人が有難がるいわゆる先進諸国(西側諸国)においては、新型コロナウィルス向けワクチンを接種していない人の方もまた少数派であります。体質的に打つことは可能だが自分の自由意思で打たない人はその中でもさらに少数派であります。
オミクロン株の感染力は非常に強力です。いま日本では、季節性インフルエンザ患者数が記録的なレベルで低く抑えられているほどに徹底的な感染対策が行われていますが、オミクロン株は爆発的に感染拡大しています。しかし、それでもワクチンは依然として有用であることを多くの調査結果は示しています。
フランスでは、ワクチン未接種者が重症化するケースが相次いだことから、「ワクチンを打たない選択をした人はICUでの治療を辞退してほしい」という議論まで出てきました。さすがにフランス政府はそこまでは要求しませんでしたが、ワクチン接種の義務化には踏み出しました。あのアメリカでさえ、医療従事者へのワクチン接種の義務化は連邦最高裁で支持されました。日本人が有難がるいわゆる先進諸国(西側諸国)においては、ワクチン未接種者は少数派であり、その中でもリーダー格に君臨している米仏両国政府はそんな少数派のために社会全体は付き合わないと言明したわけです。しかし、このことに対する評判は必ずしもよくありません。自由の侵害なんだそうです。他人の生命に直結する問題を「少数派」扱いしておいて、自分の自由の問題が少数派扱いされることはまかりならないと言うのであれば、それは自己中心的なダブル・スタンダードという他ないでしょう。
このようなダブル・スタンダードを平然とやってのけるあたり、「少数派に社会全体は付き合う必要はない」論は、現行の厳格な防疫体制を規制緩和することのみを目的とした「結論ありきの屁理屈」という他ないと思われます。
■新型コロナウィルス感染症を季節性インフルエンザと同列視する誤り
ここからは、「結論ありきの屁理屈」であることを前提に新型コロナウィルス感染症を季節性インフルエンザと同列視する言説、新型コロナウィルス感染症を5類感染症に格下げすべきだという主張について検討してゆきたいと思います。
厚生労働省は一昨年3月から『新型コロナウイルス感染症(COVID-19) 診療の手引き」を改定しつつ世に出し続けています。現在の最新版は6.2販です。本書では臨床手引きとして新型コロナウィルス感染症と季節性インフルエンザとの比較が表記まとめられています(30ページ)。これを見るに、無症状感染の確率、無症状患者のウィルス排出量、発症後の重症化リスク、そして致死率において新型コロナウィルス感染症はとても季節性インフルエンザと同列視できないことが分かるでしょう。この表を見る限り、季節性インフルエンザが5類感染症として、保健所を中心として感染拡大防止に注力する公衆衛生の問題としてではなく医療機関での治療に注力する医療の範疇に入る一方で、新型コロナウィルス感染症がその逆である政策意図が見えてくるのではないでしょうか?
季節性インフルエンザにおいては無症状感染の確率が低いようです。症状が出ていなければ感染していない可能性が高いのであります。よって感染の自覚がないままに出歩いてウィルスをばら撒くというケースが少ないものと考えられます。もちろん、季節性インフルエンザにおいて無症状感染者が完全にゼロということはあり得ませんが、それでも季節性インフルエンザにおいて無症状感染者が排出するウィルス量は少ないものです。また、季節性インフルエンザのウィルス特性は既によく知られており、治療方法や治療薬のラインナップが充実しています。発症しても死に至る確率は低く抑えることができています。要するに、季節性インフルエンザにおいては不幸にして発症してしまった人を各個撃破的に治療すれば事足りるのです。
これに対して新型コロナウィルス感染症は季節性インフルエンザとはその特性が大きく異なっています。無症状感染の確率が比較にならないほど大きく、そのウィルス排出量が多いので、感染力が強いのです。ウィルス自体にもまだまだ未知の部分が多く、確立された治療法もありません。致死率も決して低くはありません。これでは発症してしまった人を捉えて治すだけでは十分な対策であるとは言えないでしょう。予防の役割は大であります。医療としてではなく公衆衛生の問題として取り掛かるべき問題であります。
■5類引き下げ論の魂胆は「利潤獲得のためなら公衆衛生などどうでもいい」
ところで、ヤフコメのオーサーコメントや新聞などを眺めていると、「エコノミスト」たちが声高に新型コロナウィルス感染症を5類感染症扱いに引き下げるべきだと主張している場面に出くわします。さしづめ、保健所の積極的疫学調査による濃厚接触者の特定及び濃厚接触者への外出自粛要請が利潤獲得活動の上で目障りなので、何とかして止めさせたいのでしょう。「利潤獲得のためなら公衆衛生などどうでもいい」ということなのでしょう。
「対オミクロン、「2類相当」で大丈夫か」(2022年1月14日 11:30 日本経済新聞)という記事では、日本経済新聞の矢野寿彦編集委員は「『2類』か『5類』かのルールに縛られている場合ではない」としつつ、「保健所の負担を減らすため」という大義名分の下、「積極的疫学調査や濃厚接触者の洗い出しをやめ」よなどという、医学的にも公衆衛生的にも根拠不明な「提言」をしています。5類感染症においても積極的疫学調査は行われるので、「『2類』か『5類』かのルールに縛られている場合ではない」なる言い分の下、さらに奇形化させよということであります。あまりにも「利潤獲得のためなら公衆衛生などどうでもいい」という魂胆が露骨であります。
仮に新型コロナウィルス感染症を5類感染症に引き下げたり、矢野氏のさらに踏み込んだ提言が国策として採用されたとしても、季節性インフルエンザの患者数を記録的なレベルで低く抑えられるほどに徹底的な対策をしていても感染拡大が続くオミクロン株に対する警戒を緩める医療機関は存在しないでしょう。いくら「ほとんどの人は軽症」であっても、もともと医療機関には重症化リスクのある病人たちが集まるところです。そこにおいては、新型コロナウィルス感染症が2類だろうが5類だろうがやるべきことに違いはありません。
日経新聞矢野氏は記事中においてやたらに「保健所」という言葉を連呼し、その負担軽減を云々しましたが、保健所が新型コロナウィルス患者を治療してくれるわけではありません。肝心要は医療機関の余力であります。保健所の負担が減ったり、一般人の濃厚接触者が大手を振って出歩けるようになったとしても、5類引き下げによって医療サービスの逼迫が解消されることはないでしょう。
むしろ矢野氏が記事中で自ら述べていたように、5類引き下げは、「感染を抑え込まず、成り行きに任せる」ということなのだから、病床逼迫の度合いは更に深刻化し得る可能性があります。一昨年の春を思い出していただきたい・・・ただ発熱しているだけで診療を渋っていた町医者たち(特に小児科診療所!)のことを・・・
■新型コロナウィルス禍は、ウィルスとの闘争であると同時にブルジョア利己主義との闘争でもある
「感染を抑え込まず、成り行きに任せながら、重症化リスクが高い人は引き続き自己防衛してもらいつつ、そのリスクが低い人たちは日常を取り戻すべきだ」というのであれば、前述のとおり、社会をシステムとしてみる視点が欠落しており、世界観・社会歴史観レベルで間違った言説だと言う他ありませんし、まったく異なる特性を持つ新型コロナウィルス感染症と季節性インフルエンザとを同列視して扱うことは、単なる無知蒙昧でないのであれば、悪質な「結論ありきの屁理屈」以外の何物でもありません。他人の生命、健康、公衆衛生を顧みないブルジョア利己主義の発露以外の何物でもありません。
新型コロナウィルス禍の最初期、「罹っても自己責任扱いでいいから好きにさせてくれ」という言説が見られたものでした。もちろん、感染症対策・防疫事業において「自己責任の下での自由行動」は馴染まないものです。当時から強い批判を受けた当該言説はしばらく鳴りを潜めていましたが、底流として脈々と受け継がれていたようです。
新型コロナウィルス禍は、ウィルスとの闘争であると同時にブルジョア利己主義との闘争でもあるのです。
