2022年03月04日

日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)

ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論がますます「日本らしく」なってきています。その特徴はおおむね次のものにまとめられるでしょう。
(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立
(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない
(3)「個人の意志」の過大評価
(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する
(5)他力本願

このことについて、分量の問題から2回程度に分けて論じたいと思います。1回目の今回は、(1)から(3)まで論じます。2回目の記事は「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」です。

■日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されない
アメリカに次ぐ超大国であるロシアと隣接するウクライナがNATOに救いを求めるのには一理あります。他方、冷戦が終結しても解体されず、むしろ逆に徐々に包囲網を狭めてくるNATOの東進にロシアが恐怖し、最終防衛線たるウクライナに固執するのにも一理あります。もちろん、だからといってロシアのウクライナ侵攻は正統化しがたいものです。これはアメリカやイスラエルの手口だからであります。とはいえ、停戦及び終戦のためには、両国の動機をフォローする必要があるはずです。動機がなくならない限り、停戦や終戦が実現しても遠からず戦火が再び燃え出してしまうからです。

しかし、われらが日本世論は、その勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「悪党」の主張には一切耳を傾けないゆえに、ロシア側の事情を一顧だにせずウクライナに徹底抗戦を「求める」発言が氾濫しています。たとえば、「東国原英夫氏、ロシアとウクライナの交渉は「大統領らの命は助けてくれという落とし所になっていくのでは」」(2/28(月) 14:53配信 スポーツ報知)のコメント欄には次のコメントが寄せられています。
ピントがずれている。先ずどちらも完全な勝利か、より完全な勝利かの2択しか持っていない。日本人全部ではないが政治家を含め公共の場で口を開く人の不見識には呆れる。

妥協なき戦いは悲惨な最後を迎えると知った風に言う人も居るだろうが、妥協なんて頭の片隅にでも有れば最初から戦争にはならないし、そもそも強大な軍事力を持つものが世界を統べる流れに成るはずだろう。だが、実際にはそうはならない。誰も妥協なんて用意してないんだ。

だから戦う事になる。侵略して、破壊して、力を見せつける。そこに落とし所なんて無い。歴史上最終的な「勝利者」は常に「より完全な勝利」を目指している。妥協なんてそれこそ死者への冒涜だろう。

因みに停戦を時間稼ぎと呼ぶのは間違え。停戦ってのは戦争行為そのものだよ。日本史ならば「大坂の陣」が好例です。休戦を挟み攻め手有利に運んだでしょ。

本土決戦一億玉砕の発想が現代に蘇ったのでしょうか? 日帝でさえ最後は国体護持と引き換えに終戦し、完全なる破壊から免れました。一種の拡大自殺でベルリンを灰燼に帰さしめたヒトラーを連想させる恐るべき時代錯誤な破滅的発想であります。

さすがにこれは極論中の極論です。しかし、日本メディアにおいて唯一マトモに取り上げられて来、またそれ自体には一理ある「NATOの東方不拡大の確約」というロシアの一貫した要求が意図的に無視されていると言わざるを得ない展開になっています。知られていないはずはないのに、あまり触れられていないのです。

これでは解決するものも解決しなくなってしまいます。ロシアの侵攻動機を踏まえて対処しない限り、結局は殺るか殺られるかの二択しかなくなってしまいます。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されえません。安倍晋三元首相は、プーチン大統領を「力の信奉者だ」と述べました(「プーチン氏は「力の信奉者」 安倍元首相が指摘」2/27(日) 18:09配信 フジテレビ系(FNN))。日本も実は発想においては同じ穴の狢なのです。「日本は和をもって貴しとなす」国であると古くから言われてきましたが、本当のところにおいて如何に事実と異なっているのかを目下の状況は示しています。

■アメリカンドリーム史観と大河ドラマ史観の行く末
ところで我らが日本世論は、今回のウクライナ侵攻をプーチン大統領の個性と結び付けて説明し、その解決とプーチン大統領の排除とを結び付けようとしています。しかしとながら、今回のロシアの行動は歴史的・地政学的に見てロシア帝国主義の南下政策以外の何物でもありません。プーチン大統領が急に思いついたオリジナルプランではなく、歴代のロシア指導者が繰り返してきたことです。それゆえ、だれがロシアの指導者になろうとも今後も条件が整えば同じことが繰り返されるでしょう。プーチン大統領を排除すれば済む問題ではないのです。

今回のウクライナ侵攻とプーチン大統領の個性とを結びつける言説は、とりわけ日米両国に強いと見受けられますが、この両国に共通するのは「個人の意志」を過大評価する文化です。アメリカンドリーム史観と大河ドラマ史観です。

アメリカンドリーム論は、客観的条件よりも個人の強い意志と努力に注目するものです。日本の大河ドラマ史観は、まさに大河ドラマや歴史小説に描かれているように、英雄・豪傑・武将・志士らの「思い」が歴史を動かしてきたと見たがるものです。

人間の意識や行動は物質的条件の制約を受けます。何かを「思う」ということは、その人が生きている環境に「思わされている」のであります。ドラマや小説になぞらえれば、歴史的登場人物は歴史に与えられた役を演じている役者なのです。役者の演技力によって作品の質は変わってきますが、その台本は歴史が与えているのです。

歴史的・地政学的、つまり客観的条件から構造的に考えずにプーチン大統領個人の「邪悪な意志」の問題として考えると、やはり力で排除しようとする誘惑にかられるものです。傾聴よりも排除のほうが面倒な気遣いがなくて済むし、悪党膺懲感が出るので正統性を感じやすくなるものです。

アメリカンドリーム史観と大河ドラマ史観は観念論の見方です。この見方で今般の情勢を分析するのは大きな間違いです。プーチン大統領を排除したとしても、「プーチン的なもの」は残り続けるのです。それどころか、プーチン大統領個人の「邪悪な意志」の問題として考えると、やはり「力の信奉」に行き着いてしまうものです。

■日本の勧善懲悪文化の非人間性・非人道性
このことに関連して注目すべきは、プーチン大統領を邪悪な個人、独裁者などと断じ、この事態の全責任を彼にかぶせながら、彼の「捨て駒」として死傷しているロシア軍兵士たちへの人間的な同情の声があまり聞こえてこないことであります。北京パラリンピックからロシアとベラルーシの選手が排除されたことについても、「お気の毒に・・・」くらいあってもよいだろうに、それがないことであります。ロシア第一の同盟国でありながらウクライナ侵攻においては派兵せず一線を画しているベラルーシへのドサクサ紛れ感を否めない抱き合わせ的制裁に対して、それほど異論が聞こえてこないことであります。ルカシェンコ・ベラルーシ大統領は確かに個人として非常に親ロシア派ですが、ベラルーシの国としてロシアに本気で刃向かえるのか非常に疑問です。

ちょうど「北朝鮮」のキム総書記を「独裁者」などとし、その斬首や経済制裁(経済封鎖)を云々しながら、それによって最も苦しむ朝鮮の一般人民をまったく眼中に入れないことと同じであると言わざるを得ないでしょう。勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立が糞も味噌も一緒に「ロシア」に関連するものすべてを彼岸に押しやっています

ちなみにウクライナの人々はロシア軍兵士たちに対して非常にあたたかく接しているというニュースがあります(「ウクライナ住民からパンと紅茶…涙を流すロシア兵士」3/3(木) 15:32配信 中央日報日本語版)。人間的・人道的であります。これに対して日本の勧善懲悪文化の非人間性・非人道性が際立っていると言わざるを得ません。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」では済ませられない非情さであります。

「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」及び「他力本願」については、次回の記事で論じます。今回はここまで。

関連記事:「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)
posted by 管理者 at 19:25| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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