日本にとってロシアは「敵性国家」であることから、ロシアによる侵攻の失敗を願う声にはひときわ大きいものがあります。また、大河ドラマ・歴史小説史観にドップリ浸かった日本世論は、今回の侵攻が典型的な南下政策であるにも関わらずプーチン大統領個人の「邪悪さ」に原因を求めています。
■怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、ロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大取り上げた最近のロシア報道
「大嫌いなロシア・プーチンが泣きっ面になるのを一刻も早く見たいのに、まだまだその気配さえない」――今の世相はこんなところだと言えましょう。そのためかここ最近、「戦闘の長期化によりプーチンの求心力が落ちてきている」「政権内部で内紛が起きているようだ」「市民に被害が出るような攻撃は、プーチンの焦りの表れ」にはじまり、「経済崩壊間近」「政権転覆もありうる」、果ては「プーチンは病気だ」「正気を失った」といった記事が大量に出てくるようになってきました。
ザッと読む限り、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大取り上げたものであると言わざるを得ません。
ロシア報道が「北朝鮮」報道のようになってきたわけです。「北朝鮮」報道も、怪しげな「内部情報筋」発の情報に始まり、「経済制裁が効いているので、北朝鮮はこの冬を越すことはできない」「クーデターは近い」「民衆蜂起の可能性」そして「最高指導者が重い病にかかっているので体制は長くない」といったニュースがここ20年ほどは定期的に出続けているところです。しかし、朝鮮民主主義人民共和国は今も赤旗を掲げ続けています。
■やたらに民衆蜂起の可能性をめぐって盛り上がっている日本の世論
「北朝鮮」報道化したロシア報道でとりわけ興味深いのは、歴史上一度たりとも民衆自身が新体制・新時代を開拓したことがない日本の世論が、やたらに民衆蜂起の可能性をめぐって盛り上がっていることであります。民衆蜂起によってレジームチェンジがあったフランスやアメリカの国民がロシアでの民衆蜂起の可能性を嗅ぎ付けて期待を寄せるのであればわかりますが、民族の経験としてやったこともないくせに軽々しく口にすることが不思議でなりません。
案の定、歴史的・社会的な経験・知見の蓄積が乏しいがゆえに、日本世論は、いったい今のロシアで誰がプーチン打倒の首領たり得るのか、誰がポスト・プーチンの器なのか、そもそも打倒に向けた全人民的気運=革命情勢が整っているのかについては、ほとんど分析できていません。
「研究者」でさえもそうです。筑波大学の中村逸郎教授は、「「現政権が一気に崩壊する姿を見てきた」「民衆が一斉に動く」専門家が指摘 “反プーチン”のカギを握る“ソ連崩壊”という市民の記憶」(3/15(火) 10:37配信 ABEMA TIMES)及び「露TVスタッフ生放送で「NO WAR」訴え ロシア政治専門家「プーチン政権も終末を迎えてきてる」」(3/15(火) 16:54配信 スポニチアネックス)においてソ連崩壊を引き合いに出していますが、現状とソ連崩壊時の状況はかなり異なっているというべきです。
ソ連末期はすでに社会的には規律が弛緩しきり、アルマアタ事件やスムガイト事件のような統制を失った騒乱までもが発生していました。政治的にも最高会議に代わって人民代議員大会が設置されるも、混迷が深まる一方でした。そこにエリツィンが政治・社会の変革における組織者・指導者、新ロシアの首領然として現れたのでした。民衆は熱狂的にエリツィンを押し上げ、8月クーデターは失敗に終わり、加速度的にソ連は崩壊に突き進んでいきました。
今のロシアにソ連崩壊時のような社会的・政治的混迷はあるのでしょうか? 救世主的な首領は存在しているのでしょうか? とりわけ、個々人の多様な現状不満を糾合し、一定の方向に束ね上げる首領の存在は、実際の運動の組織だった推進においても大衆的熱意の高揚においても重要であります。ロシア連邦国歌には≪От южных морей до полярного края Раскинулись наши леса и поля≫というくだりがありますが、たとえばナワリヌイ氏にこれほど広大な全ロシアを新しいロシアとして導く首領としての力量はないと言わざるを得ないでしょう。中村教授の見立ては、社会政治的な背景・条件にも主体としてのロシア民衆の機運にも斬り込めていません。
■あくまでも分析者の推測・憶測でしかないことが、いつの間にか既定路線にすり替わっている
また、「北朝鮮」報道においてもよく見られますが、相手側が言ってもいないこと、計画していないこと、あくまでも分析者の推測・憶測でしかないことが、いつの間にか既定路線にすり替わり、それが現実のものにならないことが分かるや否や「目論見、外れたり!」と騒ぎ立てる現象も見えてきました(※)。たとえば「「6月にロシアがなくなる?」木村太郎と4人の専門家が読み解く ウクライナ侵攻“結末のシナリオ”」(3/14(月) 17:24配信 FNNプライムオンライン)でジャーナリストの木村太郎氏は、例の「FSB職員の内部告発」を持ち出して「20万人を投入したが、例えば首都を制圧して大統領を殺したとしても、民衆を全部おさえるとすると50万人くらいの兵隊がいないといけない。それがいないうちに制裁が効いてきて、ロシアの経済は6月までに壊滅してしまう。それでロシアがなくなる」と述べています。
(※)チュチェ106(2017)年4月26日づけ「大規模砲撃演習を「極めて挑発的な威嚇」と認識できない単細胞な「世論」」から一部再掲します。
「4月25日核実験実施」という推測がいつの間にか既定スケジュールに脳内変換され、それが現実のものにならないと見るや、さらに脳内補完を強め、相手側の真意をまったく読み違える。自分たちの「推測」に過ぎないものが、いつの間にか「現実」のスケジュールに摩り替わっている・・・日本軍の戦略的敗北の過程――なぜかは分からないが連合国・連合軍の戦術・戦略を決めてかかり、それと異なる兆候を無視する――と瓜二つです。真偽不明の「内部告発」文書など検証不可能である点において取るに足るものではないのですが、あえて乗っかってみれば、そもそもロシア地上軍の総兵力は、防衛省の『令和3年版防衛白書』によると33万人であります(P82)。この33万人には中央アジア方面や極東方面に配置される兵力もすべて含むので、ウクライナにだけ投入できるものではありません。これに対してウクライナの人口は、おおむね4000万人です。一般に軍事的な占領統治のためには民間人100人に対して兵士1人程度の割り当てが必要と言われています。朝鮮人民軍陸軍が100万人弱の大兵力を抱えているのは、統一戦争によってかなりの兵士が死傷したとしても南の占領維持が理論上可能であるように初期兵力を多めに抱えていると言われているとおりであります。
いくらプーチン大統領が「裸のツァーリ」として自軍の練度や士気などの質的側面について景気の良い報告しか受けていなかったとしても、量的側面はごまかしようがありません。ウクライナ軍の善戦は予想外だとしても、ウクライナの国民が4000万人もいることは初めから分かり切ったことであり、ずっと前から変化のないことです。今、ウクライナ戦線に投入されている20万人弱の兵力では足りないのはもちろん、全兵力を束にしてぶつけても足りないことは、初めから算数の問題として分かり切ったことです。
私は当初から、用意された兵力規模から見てロシアにはウクライナを直接統治する気はないだろうと述べてきました。実際にロシア軍の進撃ルートと制圧エリアは、いわゆる「ノヴォロシア」とよばれる地域(全域が制圧されたへルソン州はノヴォロシアにあたる)は別として、いずれも軍事施設や重要インフラといった要所ばかりを狙って侵攻しており、広いウクライナ全土から見れば「点と線」の支配であります。
しかし木村氏の発言のニュアンスだとまるで、ロシアはウクライナ全土を直接統治したがっているが兵力が足りなくなってきており頓挫しつつあると言わんばかりであります。もとよりロシアはそんなことは狙っていないと思われます。全土制圧の可能性を云々していたのは、一貫して米欧発のニュースです。
ちなみに私も「内部告発」文書を一応読みはしました。つまるところ怪文書でありどれが正本なのか分からないので、もしかすると木村氏が指すものとは別の「ニセモノ」を読んでしまった可能性もありますが、私が読んだものについていえば、「ゼレンスキーのほかにリーダーに据えられる玉がなく、挿げ替えたところでロシア軍が撤退したら持たない。占領統治? そんな兵力は元々ないだろ!」といった文脈でした。「兵力が足りなくなってきた・・・やばい」ではありませんでした。
■文学・芸術的なアプローチを併用することの重要性
このような世相の中にあって、ロシア人気質をよく知る佐藤優氏の「「モスクワ川に浮くぞ」と警告が…佐藤優が見たロシア大衆の感覚「プーチンの恐さがなければ大統領はつとまらない」」(3/14(月) 6:12配信 文春オンライン)は非常に参考になる記事でした。
西側の人間が、自分たちのモノの見方の枠内でいくら考えても、コトはロシアで起こっているので自ずと限界があるものです。ロシアに政変があるとすればロシア社会の主体であるロシア人の発想・内的論理に則ってシミュレーションする必要があるはずです。この点、近頃私は、社会分析にあたっては「名作」と呼ばれる文学や歌謡などの芸術作品に表れている思想等を読み取ることが一層重要度を増していると思いを新たにしています。
キム・ジョンイル同志は党組織指導部や宣伝扇動部での活動からキャリアをスタートなさいましたが、政治家や思想家としての著作より先んじて『映画芸術論』を代表作的に発表されたことに私は注目したいと思います。同著の中でキム・ジョンイル同志は、作品中の登場人物は読み手にとって人生のモデルになると指摘されています。名作として誉れ高い作品中の登場人物は、読み手が生きる時代環境とその心情に深く合致しているからこそ名作たり得るわけです。
このような芸術観をベースとしつつ、それを社会の統一指揮としての政治に応用し、さらに思想として体系的に整理なさった点に、キム・ジョンイル同志の天才的偉大性があると言えます。キム・ジョンイル同志による芸術の政治への応用の実践例を見るに、可能性に満ちているように思われます。私が共和国の政治を「音楽政治」として歌謡歌詞から党の意図や方向性を探ろうとしている(たとえば、チュチェ110・2021年1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」)のは、このためであります。
また、ロシア文学者の大木昭男氏は、『現代ロシアの文学と社会―「停滞の時代」からソ連崩壊前後まで』(中央大学出版部、1993年)で、まさに今日でも発生している問題をはるか以前から指摘しています。大韓航空機撃墜事件について大木氏は「1983年9月に生じたソ連空軍機による大韓航空機撃墜事件は、ソ連に対するこれまでのマイナス・イメージを更に決定的なものにしてしまった感があった(中略)我が国ジャーナリズムの一部に、ソ連政府のこの事件に対する公式的態度をソ連の国民性の現われとみなす傾向が見受けられた」(P3)とのべ、脚注で「一例をあげれば、朝日新聞1983年10月6日夕刊の「経済気象台」の欄に、「今回の大韓航空機撃墜事件でソ連が示した反応は、ソ連の国民性の核といもうべき『過剰安全保障癖』の発現した交渉術(商法)の典型だった」とある」と書いています。まったく同じことがいま、ウクライナ侵攻批判とロシア民族批判の混同という形で再現されています。
大木氏は次のようにつづけます。「大韓航空機撃墜事件でソ連が示した反応は明らかに体制の論理によるものであって、民衆の思考・感情によるものではない。アフガン侵攻事件に関しても、ソ連の新聞にアフガンに出征した兵士の母の手記が掲載されたが、それは民衆と体制との乖離につながりかねない内容のものであった。(中略)我が国ジャーナリズムは体制の論理をソ連の国民性と混同して、それをソ連の国民性だと決めつけがちである。混同してはいけない、民衆の思考・感情こそはロシア人気質そのものであり、それこそがソ連の国民性の核をなすものというべきだ。第一級のソ連の文学・芸術家たちは民衆の思考・感情を把握して、その生活を作品の中に表現しているがゆえに、我々日本人はそれを通してソ連人の国民性をうかがい知ることができる」(P25)と。
もとより社会を分析するためにはその主体である人民大衆について、彼らがおかれている環境と、その思想状況について分析することから始める必要があるます。見るべきものが何であるかを絞らずにただ漠然と眺めていても、焦点が合うはずがなく「見えて」くるはずもありません。
人民大衆が置かれた環境とその思想状況を社会科学的な方法や統計学的な方法で集約することも勿論、依然として有用かつ強力です。しかし、より情緒的、より感覚的に、より「発想」レベルに迫ろうとするとき、文学・芸術的なアプローチを併用することも必要なのではないでしょうか?
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