「奴隷制はいらない」技能実習制度の廃止求め、政府に要請。全国で運動広がる■資本主義ニッポンにおいて、技能実習生を移民労働者として受け入れることが事態解決の道なのか?
6/13(月) 20:05配信
ハフポスト日本版
「労働者が、人間として安心して生活し、働ける社会を」ーー。
過重労働や賃金不払い、暴力や妊娠中絶の強要...。外国人技能実習生に対する人権侵害が後を絶たない中、技能実習制度の廃止を求める動きが全国に広がっている。【國崎万智、金春喜/ハフポスト日本版】
(中略)
外国人技能実習制度とは?
技能実習生は、外国人技能実習制度を利用して日本に在留する人たちを指し、約35万人に上る(2021年10月時点)。
制度の目的は、「人材育成を通じた開発途上地域等への技能、技術又は知識の移転による国際協力を推進すること」とされ、「労働力の需給の調整の手段として行われてはならない」と法律で定められている。
だが現実には、企業側にとっては「労働力の補充」、実習生にとっては「出稼ぎ」が実態とみられ、建前と本音が乖離していることが繰り返し指摘されてきた。
制度上、母国の送り出し機関を通じて来日する仕組みになっており、仲介手数料や教育費を支払うために多くの実習生が借金を背負っている。
さらに、転職が原則として認められていないことも重なり、実習生が人権侵害にさらされやすい構造的な問題がある。
(中略)
移住連の共同代表理事の鈴木江理子さんは、要請書の提出後にあった記者会見で「(外国人労働者の受け入れに関する)他の制度がないから、あらゆる産業が技能実習制度に依存しなければいけない状態になっている。それによって、技能実習生本人だけでなく家族や受け入れている企業も、制度の犠牲になっている」と指摘。
「この制度を続ける限り、適正化などあり得ません。今こそ政治が決断すべきです」と訴えた。
移住連の代表理事の鳥井一平さんは、「現実に直面しているのは(産業の)担い手の問題。一人の農家や一人の社長では解決できない問題が、技能実習制度のもとで個人個人に責任転嫁されてきたんじゃないか」と疑問を呈した。
その上で、「一次産業や製造業などあらゆる産業の担い手をこれからどうしていくのか、産業政策を考えていかなければならない」と強調した。
(以下略)
技能実習生が奴隷労働を強いられるにおいて制度の悪しき作用があるという指摘は一面において正しい指摘です。
労働市場にも評価経済の並みが押し寄せている現代日本においては、個々の労働者による「嫌だから辞める・無理だから辞める」のミクロ的な行動の積み重なりが、あたかもベクトル合成のごとくマクロ的に労働市場全体に大きなうねりとなります。低劣な労働環境が労働市場で競争淘汰されてしまうわけです。また、過去の階級闘争が挙げた成果として労働法制が現代日本においてはある程度整備されており福祉国家化しています。「戦う労働運動」がご無沙汰な日本ではありますが、こうした事情・経緯から今も労働者の待遇が一定の水準を保っているものと思われます。
これに対して、ブローカーへの高額な前払金の支払いや実習生自身が自由に勤め先を選択できない技能実習生の立場が、日本人労働者であればその日のうちに逃げ出すであろう低劣な奴隷労働的な労働環境をのさばらせていることは事実でしょう。「嫌だから辞める・無理だから辞める」のミクロ的な行動を取れず、法的な保護も不十分な境遇に置かれている技能実習生たち。奴隷労働的な低劣なる労働環境は競争淘汰されにくいでしょう。
こうした現実を出発点として運動体は、技能実習制度の廃止して技能実習生を移民労働者として受け入れることを提唱しています。日本人労働者と同じく労働法制による保護の対象とせよ、日本人労働者と同じ土俵に立たせよということであるようです。
果たして技能実習制度を廃止して技能実習生を移民労働者として受け入れることは事態を解決させるのでしょうか? このことは、日本が資本主義経済であることと関連させて考えることが絶対的に必要です。
■資本主義ニッポンにおける移民労働者受け入れは、もともと弱い労働者階級の交渉力を更に低下させる
技能実習生を奴隷扱いする受け入れ先企業の「論理」は、資本の偽りなき本音・本性です。
もとより労働者は労働力を販売する以外に商材がないので、労働供給の価格弾力性は低く、よって交渉力は低いというべきです。これに対して企業は事業の多角化などによって必ずしも労働需要の価格弾力性は低くはありません。
技能実習制度を継続するにせよ移民労働者受け入れに切り替えるにせよ、結局のところ労働供給を増やすことでありマルクス経済学で言うところの産業予備軍を増やすことに他なりません。勤め先の数は変わらないのに働き手の数が増えれば供給過多になり労働力の単価は低下します。労働者の労働市場における価格交渉力は低下します。現況のままでの移民労働者受け入れは、もともと弱い労働者階級の交渉力を更に低下させることにつながるでしょう。
目下の経済状況においては、資本がその本音・本性を一切隠さなくなっても不思議ではありません。現にサントリー新浪氏は「45歳定年制」なる妄言を「観測気球」的ではあるものの口にしました。幸いにして即座に「撃ち落された」ところですが、一昔前であれば口に出そうとも思わなかったであろう大妄言を観測気球とはいえ公言されたこと自体が、時代の大きな変化を示しています。技能実習生を奴隷扱いする受け入れ先企業は決して対岸の火事ではないのです。
■労働者の意思が企業統治に食い込む道を目指すべき
米欧で激しく展開されている移民排斥運動は、このことをある意味で直感的に理解したものとして解釈できるものです。もちろん、チュチェの社会主義を掲げる私が移民排斥を主張するはずがありません。あくまでも来日者との共存・協同の道を探るのが私の絶対不変の一貫した立場です。
日本にルーツを持つ労働者と日本以外の国にルーツを持つ労働者がともに共存する上では、その対極にある移民排斥運動を乗り越える必要がありますが、移民排斥運動の動機を考えたとき、移民労働者の労働市場への参入に起因する労働力の供給過多と、それによる賃金の低下等労働環境の低下・悪化という問題が重要な要素になります。そしてこのことは、資本主義の「自由」な経済と切り離して考えることはできません。
チュチェ109(2020)年6月28日づけ「コロナ禍に始まる不況下の「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について」など以前から述べているとおり、今必要な改革は、労働者自身が自らの運命を決定する過程に食い込むことであると考えます。このことを私は端的に協同化と述べてきました。究極的には協同経営を目指すべきだと考えていますが、当面は私有財産制度の枠内で、たとえば株式会社の既存統治機構に労働者の意向が一定の影響力を及ぼす道、労働者の意思が企業統治に食い込む道を目指すべきと考えます。
もちろん、「嫌だから辞める・無理だから辞める」路線や労働法制の活用、陳情型・要求実現運動型の労働運動も引き続き継続すべきではあります。
■協同化における課題(1):協同経営体がブルジョア的株式会社に退化する可能性
ところで、協同化においては少なくとも4つの課題があると思われます。
まず、根本的な問題として資本主義における協同化で問題が解決するのかという課題です。レーニンは『協同組合についての決議案』において、協同経営体は競争の諸条件に圧迫されているためブルジョア的な株式会社に退化する傾向があると指摘しました。この指摘は非常に重要なものです。
マルクスは協同経営について積極的な意義・可能性を見出しつつ、他方でその限界について次のように指摘しました。すなわち、『第一インターナショナル創立宣言』においてマルクスは、個々の労働者の偶然の努力の狭い範囲に閉じ込められている限り、ブルジョアにとってそれほど恐ろしいものではないということを見抜いていました。実際、ブルジョア国家が協同組合の創設や運営に積極的に財政措置を講じています。日本の協同経営の源流に位置する産業組合は、明治政府がブルジョア的搾取を「細く長く」続けるために始めた、大河内生産力理論的な意味での社会政策的なものでした。
協同経営は人民大衆の自主性を担保する社会としての社会主義社会の根幹であると私は考えますが、同時に資本主義体制においてはその災禍を緩和する機能も持ち合わせています。すなわち、資本主義体制における協同経営の存在は労働者の生活苦を緩和させつつ、ブルジョア的搾取を「細く長く」続ける大河内生産力理論的な意味での社会政策的な機能もあります。そして、レーニンが指摘したとおり、不況・恐慌といった資本主義の危機においては、激化した競争環境が協同経営体をブルジョア的な株式会社に退化させることで協同経営体までもが労働者を搾取するという本末転倒的な事態にさえ至りかねないのです。
協同経営を自然のままに任せるわけにはいかないと考えられます。そこで問題になるのが、資本主義体制下における協同経営の育成問題です。マルクスは『ゴータ綱領批判』でラッサール派の協同組合論を徹底的に批判し、ブルジョア政府等と無関係な協同組合の試みのみが有意義だと断定しました。しかしこの断定は一面的であるように私には思えます。もう少し強かに、使えるものは使い倒す姿勢が必要であるように思います。協同経営の育成方法においてまだまだ解決すべき問題は多いと考えられます。
■協同化における課題(2):ムラ社会的なメンタリティを引きずる日本文化が新参者の「ガイジン」を受容するか?
次に、とりわけ移民労働について考えたとき、協同経営において新参者の意見を古参勢が素直に受け入れられるかという問題があります。
協同化を実務問題として考えたとき、このことは非常に重要かつ厄介な問題となります。理屈ではなく感情の問題、もっと言えば差別意識に関わるだからです。とりわけムラ社会的なメンタリティを引きずる日本文化においては深刻な課題になるでしょう。
■協同化における課題(3):すべての労働者が必ずしも自主性を高く持っているわけではない
第三に、ミヘルスの「寡頭制の鉄則」を踏まえて考えたとき、「経済における民主主義」としての協同経営においても組織の巨大化につれて官僚制化が進み、少人数の指導部による多くの一般成員の支配が完成してしまうという問題です。
とくに警戒すべきは、すべての労働者が必ずしも自主性を高く持っているわけではないということです。たしかに自分でいろいろ考えることよりも他人の決めてもらう、他人の指導に従った方が「楽」ではあります。こうした怠惰心を奇貨としてブルジョアは指導役を買って出、自らに都合の良いルールを作り上げ労働者を搾取してきました。最終的にどうなるか分からない反抗を展開するよりも、唯々諾々と搾取を受け入れたほうが「楽」です。
こうした楽な方に流れる気持ちは非常に「人間的」ではありますが、自主管理社会としての協同社会の担い手として相応しい姿勢とは到底言えないものです。協同社会においてこうした他力本願的な姿勢は容認できるものではありません。こうした姿勢は協同社会の基盤を腐朽させ掘り崩しかねないものだからです。
■協同化における課題(4):新しいようで古い労働者のプチブル化
最後に、現代資本主義特有の課題があります。
キム・ジョンイル同志は『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』において次のように指摘されました。
第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が生じました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにつれて、肉体労働に従事する勤労者の数がいちじるしく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者のタイ語が急増し、勤労者の隊伍においてかれらは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。現代経済は知識経済ですが、ここにおいては長い時間をかけて知識を血肉化することが非常に重要になります。「個人」の努力が稼ぐ力において重要になります。それゆえ知識労働者はしばしば労働者でありながら小ブルジョア(プチ・ブルジョア)的・個人事業主的な発想に走りがちです。昨今はやりの「自己責任論」も、知識経済化に起因する労働者大衆のプチプル化と関連させて考えるべきでしょう。こうした労働者大衆自身のプチブル化の現状をいかに協同化の道につなげるかという問題が現代資本主義特有の課題として浮上してきます。
社会の発展にともなって勤労者の技術・文化水準が高まり、インテリの隊伍が増えるのは合法則的現象だといえます。
インテリの隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が拡大するのは確かです。とくに、革命的教育を系統的に受けることのできない資本主義制度のもとで、多数のインテリがブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されることは避けがたいことです。それゆえ、かれらを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
労働者大衆のプチブル化にかかる関連記事
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もっとも、この問題は新しいようで古い問題です。20世紀社会主義が直面した農業の集団化・農民の協同組合への組織化と構図としては非常によく似ているからです。
エンゲルスが指摘したとおり、個人所有に条件づけられた個人経営こそが農民を没落に追いやっている張本人であるにも関わらず、農民は自らの小土地所有にしがみつこうとします。農民がプチブル的な個人所有に条件づけられた個人経営にしがみつこうとする動機を単なる「意識の遅れ」としてみなすべきではありません。私は、農業生産は本質的に個人経営と親和的である点にその原因があると考えます。農業生産は本質的に個人経営と親和的であるからこそ、農民は個人経営的・プチブル的発想に「慣れ」、そのように物事を考えがちになるのです。
上述のとおり、知識労働は「個人」の努力が稼ぐ力において重要なので、知識労働は個人経営と親和的であると言えます。知識労働は個人経営的・プチブル的発想に「慣れ」、そのように物事を考えがちになると考えられます。この意味において、知識経済における労働者大衆を協同化の道につなげることは、20世紀社会主義が直面した農業の集団化・農民の協同組合への組織化と構図としては非常によく似ており、新しいようで古い問題なのです。
この問題については、共和国で現在実施されている甫田担当責任制のような、集団所有の枠内での個人実利の容認といった実務的な匙加減が非常に重要になってくると思われます。
■総括
このように、社会の協同化を実現するにあたっては非常に深刻な課題が山積しています。それでも私は社会の協同化こそが未来社会像であると考えます。課題が明らかであることはむしろプラスというべきでしょう。当ブログでも継続的に考えてまいりたいと思っています。
ラベル:自主権の問題としての労働問題 ☆