安倍元首相暗殺は“令和の「5・15」「2・26」”になるのか――専門家が容疑者の“英雄化”を懸念安倍晋三元首相が銃撃され亡くなりました。お悔やみ申し上げます。
7/9(土) 20:48配信
SmartFLASH
「現時点で、この事件をどう捉えるかは難しいですが、ひとつには代表制民主主義への不信感があると考えます」
と語るのは、『小泉政権』などの著書があり、比較政治が専門の東京大学・内山融教授だ。
7月8日に起きた安倍晋三元首相の銃殺事件。発砲した山上徹也容疑者ははその場で取り押さえられ、逮捕された。
「世界的に、既成政党への不満から過激な発言をするリーダーに期待を託すというポピュリズムが台頭しています。トランプ現象もその典型です。
トランプが犯した最大の罪というのは、民主主義を支える基本的な約束ごとや規範を壊してしまったこと。民主主義というのはお互いに血を流すのではなくて、票をめぐって、選挙で戦う仕組みです。『選挙で負けたら、その結果におとなしく従う』『自分が嫌う人物でも、相手の言論の自由は守る』といった、最低限のルールがあります。
ところがトランプは、権力を使って相手の言論を封じこめたり、誹謗中傷をしたり、選挙で負けると議事堂襲撃を煽って抗おうとするなど、基本ルールを壊していきました。そうした動きが、日本でも広がるのが怖いですね。今回の事件が、日本の民主主義を支えるルールが壊れる“蟻の一穴“になってほしくありません」
だが、内山教授の願いとは裏腹に、すでにネット上では、山上容疑者を「真の英雄」などと呼ぶ投稿が多数ある。もちろん、単なる炎上狙いの“戯言”であることも多いが、陰謀論などに触発されて、明らかに本気で、山上容疑者を称賛する声も出てきている。
「かつて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われていましたが、今の若い世代にとって、生まれたときから日本は凋落していました。そこへコロナの不安や物価高も加わり、閉塞感が強いのは間違いありません。でも、政治家は自分たちの声に耳を傾けてくれない。選挙では何も変わらないから、過激な手段に訴えようという流れが生まれてくると危険です。
5・15事件や2・26事件が軍国主義へ進む岐路になったと言われるように、20年後、30年後に、今回の事件が日本の民主主義崩壊への一歩だったと、歴史家に位置づけられないことを願います」(内山氏)
昨日からテレビ等ではこのニュースで持ち切りですが、ほとんどにおいて「暴力による言論封殺を許すな」や「民主主義への挑戦を許すな」といった体裁を取っています。安倍氏が今も政権与党に絶大な影響力をもつ元首相の現職国会議員であることを踏まえると理解できないことはない指摘ですが、どうも腑に落ちないのも率直なところです。
やはり「どんな理由があれ、人が人を殺すことは許されないことだ」というのが基本中の基本なのではないかと私は考えるのです。もちろん、テレビ等もそれは大前提としつつ「それプラス」として、人間・安倍晋三氏が同時に政治家・安倍晋三氏であることを以って「暴力による言論封殺を許すな」(※)や「民主主義への挑戦を許すな」と言っているのだとは思いますが、力点を置くところに違和感を感じざるを得ないのです。
※言論封殺と言論弾圧を混同・誤用している人が多くて残念。無職の山上容疑者が政権与党最大派閥領袖の安倍元首相の言論を「弾圧」できるわけないでしょw重要キーワードはさすがに誤用しないでほしい・・・
政治家である以前に人間である、この理解が大切だと私は考えています。私は生身の人間を重視すべきと考えます。
それゆえ、上掲内山融・東大教授の見解は、「政治家である以前に人間である」という理解、及び現時点で判明していることから考えるに、いくら何でも飛躍しすぎているように思えてなりません。
分析の論理が奇妙です。「かつて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われていましたが、今の若い世代にとって、生まれたときから日本は凋落していました。そこへコロナの不安や物価高も加わり、閉塞感が強いのは間違いありません」といいますが、「今の若い世代にとって、生まれたときから日本は凋落して」いたのなら、彼・彼女らは、閉塞感よりも「世の中そんなものだ」と考えるのではないでしょうか?
たとえば最近、日本では「マスクの外し時」が話題になっています。私を含むそれなりに齢を食った身:マスクなんて本当は冬に風邪を引いた時にするモノであり夏の盛りにするようなモノではないという観念を持っている身からすれば、新型コロナウイルスの特徴が分かってきたこのタイミングは「そろそろ潮時かもしれない」と思うに至るところです(とはいえ私は現状では、着けたり外したりする方が面倒なので、マスク着用を墨守しているところです)。しかし、聞くところによると小中学生など「マスク着用が当たり前」の環境で育ってきた世代は、医学的・科学的に感染リスクが低い場面でもノーマスクにかなり抵抗を感じているそうです。コロナ禍以前を知る世代にとってマスク着用は窮屈なイレギュラーな事案以外の何物でもありませんが、コロナ禍しか知らない・記憶にない世代にとってはマスク着用は当然のことで窮屈でも何でもないのです。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を肌感覚として知っている内山教授からすれば、現状は閉塞感しかないのかも知れません。しかし、そういう時代を知らない世代からすれば、「そんなもんだ」としか感じないものと思われます。
こういう事件が起こるたびに学者が「分析」を展開するものですが、この手の「分析」に共通することは、当事者の主張や見解を無視して演繹的に話を展開するところにあると私は考えています。内山教授の分析には、山上容疑者の動機供述も「今の若い世代」の具体的な意見表明も一切出て来ず、ひたすらに内山教授の「ぼくが かんがえた・・・」だけが展開されています。この点においても、生身の人間を重視すべきと考えます。
ところで、「政治家である以前に人間である、この理解が大切だ」としても、歴史を振り返るに暴力を用いることで時代の画期をなしたことが多々あったことも事実です。これらの歴史的事実とどのように向き合うべきなのでしょうか。民衆が話し合いを求めても一切それに応じない専制権力者はもとより、民主主義と単なる多数決主義を混同して少数派を無視して抑圧する多数派とはどのように接してゆけばよいのでしょうか。
このことを解決せずにただ「生命の貴重さ」を述べているだけでは、これは「ブルジョア博愛主義」と言われても仕方ないとは思います。私は現時点で、この壮大な歴史的評価を下せるほどの人物ではないことを率直に認めざるを得ません。それでも私は「政治家である以前に人間である、この理解が大切だ」という信念を、「ブルジョア博愛主義」と言われても維持したい。特に私が信奉する社会主義・共産主義界隈は歴史的に流血の事態を数多く経てきたので、真っ先に解決すべき問題であると言えます。
社会主義・共産主義の最終的な目的は、マルクスの『フォイエルバッハ論』などを踏まえるに、生身の人間の重視にあると私は考えています。その根本根底に立ち返りたいと私は考えています。ブルジョア的ではない博愛主義を模索したい。引き続き思索を深めたいと思っています。
ラベル:世界観・社会歴史観関連