2022年08月19日

信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある

https://news.yahoo.co.jp/articles/829ee3ab652d9d9e7ef160e37c687d7711045465
佐藤優「アメリカのウクライナへの支援が"ロシアを叩きのめさない程度"に抑えられているワケ」
8/14(日) 12:16配信
プレジデントオンライン

(中略)
■なぜ日本は勝てない戦争に突入したのか
 日本は、勝算の乏しい太平洋戦争になぜ突入したのか。これは、京都大学法学部教授を長く務めた国際政治学者の故・高坂正堯さんが唱えた「国際政治は3つの体系から成り立っている」という説を基に考えると、わかりやすいでしょう。ロングセラーになっている著書『国際政治 恐怖と希望』(中公新書)にくわしく書かれています。

 3つの体系とは、価値の体系、利益の体系、力の体系。国際関係は、この3つの体系が複雑に絡み合っているのです。高坂さんは、〈国家間の平和の問題を困難なものとしているのは、それがこの三つのレベルの複合物だということなのである。しかし、昔から平和について論ずるとき、人びとはその一つのレベルだけに目をそそいできた〉と書いています。

 古今の戦争も、この3つの体系のバランスから読み解くことができます。

 太平洋戦争は、力の体系から見れば、完全に無謀でした。利益の体系からすれば、日本に益があるのか、冷静な分析は行われませんでした。ところが、価値の体系が肥大してしまいました。欧米の白色人種の支配からアジアを開放するという理念だけが肥大し、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる「ABCD包囲網」を突破しようとして、暴発に至ったのです。

 力の体系と利益の体系という視点が、戦前の日本には欠けていました。必勝の信念さえあれば、物量を凌駕できると考えたのです。理念や信念は価値の体系ですから、力にも利益にも反します。価値の体系だけが肥大して、勝てない戦争に突っ込んでいき、壊滅的な被害を招いてしまいました。

■相手を殲滅するか、自分が玉砕するか
 私が以前から価値観外交に冷ややかなのは、価値が肥大すると、ろくなことが起こらないからです。価値は観念でありイデオロギーだから、肥大化しやすいのです。

 人間は、観念や思想で死ぬことができます。日本軍がなぜ玉砕を好んだかというと、殲滅の思想しかなかったためです。退却や撤退を価値の外に置いたせいで、相手を殲滅できない状況になれば、被殲滅すなわち玉砕戦術しか取りえません。これは、必ずしも軍部のエリートが望んだわけでなく、国民も望んだ相互作用の結果だと思います。

 しかし価値の体系が肥大化しやすいのは、日本人の独特な思考法ではありません。マリウポリのアゾフスタリ製鉄所に長く立てこもっていたウクライナのアゾフ連隊なども、それに近い。地下にこもって住民を巻き込んだところなど、沖縄戦によく似ています。

 日本軍は、最終的に退却を余儀なくされると、「初期の任務を達成したために転進する」と説明しました。ウクライナも、このフレーズを好んで使います。マリウポリでもセベロドネツクでも、「新たな反撃体制を構築するための目的を達成したので、移動する」。よく似ています。

(以下略)
コメ欄
佐藤氏のいうことは、とどのつまり、ゼニと力の前では、自分の意地と信念を捨てろということか。
会社でもよくあるが、上司に対して権力で勝てないわけで対立して子会社に飛ばされれば給料もさがる。だから、意地も信念もすてて自分を殺すと。 

確かにリアリストの佐藤氏らしい意見だと思う。多くの国民を抱える国家だからこそ損得で行動すべきだと。

しかし、ことは国家、国際社会の話しで、会社なんて矮小なはなしではない。
国家、国際社会が正義を捨てるなら、この世のどこに希望があるのだろうか。
希望の世界に意味はあるのか。辛くはないのか。
国家、国際社会だからこそ、それぞれの信念や意地を本気で戦わさせ理想国家に近づく努力が必要なのではないかと思う。

損得計算も必要だろうが、佐藤氏が言うほど優先されるのだろうか。
損得はある程度犠牲にしても信念を徹すことも大事だと思う次第。
典型的な藁人形論法。「私が以前から価値観外交に冷ややかなのは、価値が肥大すると、ろくなことが起こらない」と言っているだけで「ゼニと力の前では、自分の意地と信念を捨てろ」などとは佐藤優氏は一切述べていません。佐藤氏に激しく反発する当該コメ主ですが、平和な自室においてさえ冷静な判断ができていないようでは、損得はある程度犠牲にしても信念を徹す」などと大見得を切っていますが、肝心かなめの「ある程度」が具体的にどの程度なのか見極められるとは到底思えないものです(もともと日本人は目的意識性が低く情緒優先なので、「程度の問題」において絶妙な定量的匙加減をするのが苦手ですし)。佐藤氏が懸念する「価値が肥大すると、ろくなことが起こらない」という実例に自らなっています

だいたい、「国際関係は、価値の体系・利益の体・力の体系が複雑に絡み合っている」と指摘する高坂正堯氏の名著を引いておいて、佐藤氏がそんな結論を導出するわけないでしょう。文章の構造を冷静に読み解くことができていなければ、国際関係論の基本文献ともいうべき高坂氏の名著を踏まえてもいない(多分、読んだことないですよこれ)。こういった最低限の読解力も基本的な知識にも欠けたレベルの低い「信念」が戦争になると跳梁跋扈するのが人類史の実例であり、とりわけ今般の戦争ではそうした議論が過熱していますが、まだまだその一例の記録は終わりそうにありません。

この現実は重く受け止める必要があります。というのも、「それぞれの信念や意地を本気で戦わさせ理想国家に近づく努力が必要」という上記の演説は、一部チュチェ思想と通ずるところがあるからです。

キム・ジョンイル同志は名著『チュチェ思想について』において次のように指摘されています。
金日成同志は、抑圧されさげすまれてきた人民大衆が自己の運命の主人として登場した新しい時代の要請を深く洞察して、偉大
なチュチェ思想を創始することにより、自主性をめざす人民大衆の闘争を新たな高い段階に発展させ、人類史発展の新しい時代、チュチェ時代を開拓しました。
こうも指摘されています。
 人類の社会発展史は自主性を擁護し実現する人民大衆の闘争史です。
 金日成同志は、すべての革命闘争は人民大衆が自らの自主性を擁護するための闘争であると述べています。
 人類社会の長い歴史をつうじて、人間は社会的従属と自然の束縛から自らを解放するためにたえずたたかってきました。社会と自然を改造し人間を改造する闘争は、すべて人民大衆の自主性を擁護し実現する闘争です。
 社会を改造する闘争は、人民大衆が階級的および民族的従属から脱し、自主的な生活を享受できる社会的・政治的条件をつくる闘争です。人間が自主的に生活し活動するためには、自主性をじゅうりんし抑圧する古い社会制度を粉砕しなければなりません。古い社会制度を一掃し、人びとの自主性を保障する社会制度を確立してこそ、人民大衆は社会と自らの運命の真の主人となり、自主的に生きていくことができます。

朝鮮大学校学長のハン・ドンソン先生は『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』において次のように解説しています(P75〜P76)。
人間活動の根本目的は、自主性の実現にあります。人間は自らの自主的要求を実現するために自然と社会を改造する創造的活動を展開します。(中略)したがって世界は、人間の自主性が実現され世界の主人としてのその地位が高まる方向、すなわち、より人間に奉仕する方向へと絶え間なく改造され発展することになります。
自主性をめざす人民大衆の闘争が展開されるチュチェ時代においては、人民大衆の社会運動は、その自主性の実現と擁護のためにこそ展開されるものです。ここにおける自主性とは、「世界と自己の運命の主人として自主的に生き発展しようとする社会的人間の属性」であり、人間は「自主性ゆえに、人間は自然の束縛をふり払い、社会のすべての従属に反対し、すべてを自己に奉仕するように変えてい」く存在です。人間が自主性を持つのは、人間が自主的要求を持っていることと深く関係していますが、いかなる支配・束縛をも受けず生き発展しようとする・自然と社会そして自分自身の主人として生き発展しようとする自主的要求の源泉には、つまるところ価値観の存在が大であると言えるでしょう。

つまり、チュチェ時代においては価値観が人間行動に対して影響を与える部分が飛躍的に大きくなっているということなのです。ここで佐藤優氏の「価値が肥大すると、ろくなことが起こらない」という指摘を思い起こすと、実にチュチェ時代の国際社会は、「ろくなことが起こらない」可能性が有史以来もっとも高まっている時代であるという解釈が可能なのです。

価値観が非常に重要なウェイトを占めるチュチェ時代においてこそ冷静さが必要です。この点、チュチェ思想創始者であるキム・イルソン同志は既に範を示されています。4月15日づけ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか、同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか:キム・イルソン同志生誕110周年」において当ブログでは、「祖国を取り戻す」という大義を掲げつつ、冷静な現状分析に基づき一旦祖国を離れて渡満した首領様の革命歴史を取り上げ、本土決戦一億総玉砕的な徹底抗戦論だけが理想のため・価値観のために戦う唯一の方法ではないと指摘しました。

このことは端的には「『志遠』の思想に基づき価値観に対する目的意識性を持つ」とか「不屈の革命精神を持つ」と言えるでしょう。

チュチェ思想において意識とは人間の脳髄の高級な機能として定義されますが、具体的には、客観世界の反映(認識)、行動を計画する機能、そして行動を調節統制する機能として整理可能です。客観世界を冷静に見つめつつも自己の認識的フィルターを濾過することで取捨選択的に客観世界を認識します。そのうえで行動を計画して実践に移し、実践結果を再び認識することで次の一手を調節統制するわけです。このとき「志遠」の思想が非常に大切になってきます。敵とはあくまでも戦う。しかし軽挙妄動は厳に慎む。革命の道はもとより非常に遠く険しいものである。代を継いでたたかってでも必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神を持つというわけです。

しかしこのことは日本人が最も苦手とすることです。日本人は目的意識性が低いからです。「どうして、何のために」という意識が低いため、立派な計画を立ててもすぐに形骸化してしまうことは、たとえば新型コロナウイルス禍において嫌というほど見せつけられています。

たとえばマスク着用問題。いっときはノーマスクの人を見かける方が難しいくらい高いマスク着用率を記録した日本社会ですが、最近は「熱中症予防と感染拡大リスク低減との両立のため、風通しの良い屋外で会話のない場面ではマスクを外すべきだが、会話がある場合や換気が十分とは言い切れない電車内・店舗内では引き続きマスクを着用すべき」といった政府広報が伝播されているところですが、「マスク着用の呼びかけが緩和された」という印象論的理解で電車内・店舗内等でもマスクを着用しない人物をチラホラ見るようになりました。こういう人たちは、絶対にクシャミをしないという自信、あるいは常に必ず手で口元を覆えるという自信があるのか、あるいは何も考えていないのかのいずれかでしょう。

尾上健一先生は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』において次のように指摘しています。(P15)
 日本の社会変革をすすめるうえでも当面して重要な課題は、自主的な人間を育てることです。
 人間の育成を先行しながら、人間中心の政治、経済、文化をつくっていかなくてはなりません。
 資本主義か社会主義かという制度の問題よりも、まず人間を自主化し、日本を自主化していくことが重要です。社会制度の問題はその後で解決していくこともできます。
一理ある指摘ではありますが、とりわけ日本社会の自主化という観点から考えたとき、目的意識性の低さは看過できるものではないように思われます。自主的要求が一時の激情から軽挙妄動に至りかねないのが日本の社会意識なのです。

自主的な人間を育てることも大切ですが、特に日本においては、目的意識的な人間を育てることにもかなりの力を注ぎ優先的に取り組む必要があるでしょう。この国の程度の低さは酷いものです。
posted by 管理者 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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