https://news.yahoo.co.jp/articles/512bccb4c8d560056d4eda619402f9efc75a1055
世界最大の人権団体がウクライナ軍を非難…テレ朝・平石アナ「大きな悪の中に小さな悪が存在する可能性もある」■自衛隊は、「人間の盾」は使わないまでも、かなり際どい戦い方を予定しているということ?
8/16(火) 20:19配信
ABEMA TIMES
(中略)
ニュース番組『ABEMA Prime』に出演した防衛研究所主任研究官の山添博史氏は「レポートでは『ロシアも悪い』と書かれているが、ウクライナの問題点も述べている。実際に市街戦が行われているような都市では、使われていない学校や病院などを拠点にウクライナ軍が活動している。レレポートは『これは問題があるのでは?』という指摘だ。国際法に詳しい人の見方では、学校は夏季休暇中で『民間施設そのものではない』といった指摘もある。合理性があって、一概に『民間施設の軍事利用で違法行為だ』とは言えない」と説明する。
ジョージタウン大修士課程在学中で戦略コンサルタント時代は防衛・安保を担当した佐々木れな氏は「そもそもこの報告が事実かどうか怪しい」と話す。
「この報告書を書いたドナテラ・ロベラ氏は『軍に民間の避難支援や戦闘地域を離れるように勧めたが無視した』と批判しているが、一方で報告書を読んだ人から『自分の主張に沿った話しか取り上げていない』といった声もある。そもそも報告書を書いた人が、要は“人権ドン”みたいな人で、若干問題があったのではないか」
ネット掲示板『2ちゃんねる』創設者のひろゆき氏は「事実として民間施設の軍事利用があったときに、それが良いか悪いか、価値判断までアムネスティが持ち込んじゃったことが僕はよくないと思う」という。
「もともと兵隊じゃない人でも『銃を持って戦う』と言って国を守ろうとしているじゃないか。その中で『民間の施設も使うよね』となった。それが『人権侵害である』と価値判断まで持ち込むと『ウクライナは悪い』となってしまう。ただ『事実がありますよ』の報告だけに留めなかったことが、僕はアムネスティの失敗だと思う」
ジャーナリストの堀潤氏は「基本的には、犠牲になっている一般市民への支援や思いが軸だ。両国の政府、軍の行いがどうなのか、それを考える前に一般市民への関心を忘れてはいけない」とコメント。
(中略)
佐々木氏は「アムネスティ・インターナショナルが客観的であろうとするあまり、侵略者と侵略された者、要は侵略者と被害者を同列に扱ってしまって、誤った等価性みたいなものを作ってしまったのが今回の原因なのかなと思っている」と指摘。山添氏は「アムネスティはロシアの人権侵害にもいろいろ言っていて、ウクライナのことも言っている。ウクライナにもそういう問題があると知った上で、やはり全体としての問題は『ロシアにある』と、我々が気を付けて見ないといけない」と話した。
これらを踏まえて、司会のテレビ朝日・平石アナウンサーが「大きな悪の中に小さな悪が存在する可能性もある」とコメント。「小さな悪だといって目をつぶっていいわけではない」と述べた。(「ABEMA Prime」より)
頭がクラクラするような言説の連続。ここまで凝り固まっているのか・・・山添博史・佐々木れな・ひろゆきの各氏の言説についてそれぞれ検討してみましょう。
まず山添博史氏の言説。防衛研究所主任研究官、つまり自衛隊の人間がこれではマズいのでは? 通常、学校というものは民間人居住地域の中心部に位置するものです(病院もしかり)。人里離れた場所に学校を建設するケースは少ないものです。それゆえ、当該学校そのものが長期休暇により無人だったとしても、その周辺に民間人は残っているものと思われます。
もちろん既に一帯の民間人が退避・疎開済みであれば何の問題もありません。しかし、退避・疎開が進んでいるというニュースは今までほとんど報じられてきておらず、民間人を巻き込む形で戦闘が続いているものと思われます。アムネスティの指摘の要点はそこにあるのです。
なお、授業中の学校に陣地を作っていたらそれは「人間の盾」以外の何物でもありませんが、今回アムネスティはそこまでは言っていません。そうであるにも関わらず、防衛研究所主任研究官がこんなにも過剰反応するというのは、いったいどうしてなのでしょうか? 自衛隊は、「人間の盾」は使わないまでも、かなり際どい戦い方を予定しているということなのでしょうか?
■いささか異常なレベルの「誤った等価性」なる誤った理解――単純善悪二元論と勧善懲悪正義論に凝り固まっている
山添氏は「一概に『民間施設の軍事利用で違法行為だ』とは言えない」とも言います。アムネスティがそこを吟味せずに報告書を公開しているとでも? 「たとえばアムネスティの報告書に出てくるxx学校は、私が調べたところ違法な民間施設の軍事転用とは言えない」と反論すれば一気に山添氏の主張には信憑性が出てくるわけですが、そういうことは一切せず、あまりにも定番の印象操作に手を染める山添氏です。
相手の主張を突き崩すには何よりも、その主張では説明がつかない事実を提示することが肝要です。論理的・科学的な議論とはそういうものです。アムネスティが「違法だ!」というのならば、「おたくが槍玉に挙げているモノのうち、たとえばこのケースは、具体的・詳細的に検討すれば違法ではない」という風に反論するのが「議論のお作法・議論の筋」というものです。
無理があり苦しすぎる山添氏の非論理的な弁護の「動機」が気になります。歩調を合わせている佐々木れな氏の主張から類推できるので、続いて佐々木氏の言説について検討してみましょう。
この記事の「一番の見どころ」というべき大暴論を展開しているのが佐々木氏であると私は考えます。曰く「アムネスティ・インターナショナルが客観的であろうとするあまり、侵略者と侵略された者、要は侵略者と被害者を同列に扱ってしまって、誤った等価性みたいなものを作ってしまったのが今回の原因なのかなと思っている」と。彼・彼女らの発想が非常によく表れています。
そもそもアムネスティの主張は徹頭徹尾、戦闘地帯に取り残された非戦闘員の目線に立って、その生命や財産の安全つまり人権状況に焦点をあてたものです。弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりないのだから、今まさに命の危機に晒されている戦闘地帯に取り残された非戦闘員にとっては、侵略者が放った弾なのか祖国防衛者が放った弾なのかに違いはありません。それゆえ、もとよりロシアとウクライナを比較するような意図はアムネスティにはありません。どちらが善でどちらが悪かといった議論などはまったく予定していないものなのです。
これに対して「誤った等価性」なる理解を展開する佐々木氏、そしてそれに同調する山添氏。そもそも等価・不等価の問題ではないところにそういう尺度を持ち込む佐々木・山添両氏こそが誤っているのです。「『誤った等価性』なる誤った理解」と言わざるを得ません。
ちなみに補足しておくと、アムネスティが報告したロシア軍の戦争犯罪容疑は、まさに「枚挙に暇がない」というべき空前の水準であるのに対して、ウクライナ軍のそれは量的に遥かに少ないものです。そもそも等価・不等価の問題ではないと述べたばかりですが、仮に等価・不等価の問題だとしても、量的側面から見ればロシアの巨悪性はまったく揺らぎません。佐々木氏が自称する「戦略コンサル(防衛・安全保障)」がどういう職業なのか私にはまったく分からない(そんな職業あるんだ)のですが、ヤフコメならまだしも、ほんの僅かな(ウクライナにとっての)不都合の指摘さえも許さないという佐々木氏の姿勢に私は恐怖さえも感じます。
非常に単純な善悪二元論と勧善懲悪の正義感に凝り固まっているという他ない佐々木・山添両氏の反応です。アムネスティは一切そのような構図を描いていないのに、存在しない構図を勝手に持ち込んでいるわけです。開戦当初から当ブログではこのような世界観が蔓延していることについて取り上げてきました(3月4日づけ「日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)」、3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」ほか)が、おそらく無意識に藁人形論法を展開している彼・彼女らの世界観的理解の硬直性は、いささか異常なレベルであるように思えます。
ちなみに、8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」で取り上げた高坂正堯氏の名著『国際政治 恐怖と希望』(中公新書)においては、善玉・悪玉的な考え方は「知的な怠惰」(p14)と断じられています。
■「元はといえば」を持ち出すことの誤謬
このように申すとおそらく佐々木氏らは「元はといえば戦争を始めたロシアが悪い」と反論してくることでしょう。現に記事中でも「ウクライナにもそういう問題があると知った上で、やはり全体としての問題は『ロシアにある』と、我々が気を付けて見ないといけない」というくだり(山添氏)があります。
「元はといえば」――日本人が非常に好むフレーズです。狭く陰湿な日本のムラ社会においては自己の非や責任から逃げることが何よりも大切なので、過去を穿り返してでも責任逃れする傾向にあります。「戦争を始めたのはロシアだ、ロシアが加害者でありウクライナは被害者だ、ロシアが戦争を始めなければウクライナが学校に陣地を作ることはなかったんだ、だから全部ロシアが悪いんだ・・・」といったところなのでしょうが、今回のアムネスティ報告についていえば、飛躍しています。
「元はといえば」は責任回避の言い逃れに過ぎないので、もとよりそこに論理性がないのも当然といえば当然なのですが、この言い分がよく犯す間違いは、「相手側が醸成した現状に応じて、こちら側にも打てる手はある」ことを無視しがちだということです。「元はといえば相手のせいでも、こちら側にも打てる手は幾つもあったはずで、この結末を回避できたはずだよね?」「相手のせいでプランAが潰されてしまったのは分かったけど、プランBは考えていなかったの?」ということです。
「戦争を始めたのはロシアだ、ロシアが加害者でありウクライナは被害者だ」これはよいとしても「ロシアが戦争を始めなければウクライナが学校に陣地を作ることはなかったんだ」は論理として成立していません。「祖国を防衛すること=学校に陣地を造営すること」という等式は成立しませんし、もし、防御陣地として当該学校に地の利があるのならば、防御陣地として非常に適した場所がたまたま民間人居住地区であるのならば、一帯の民間人を総疎開させればよいのです。民間人が戦闘に巻き込まれないようにする手立てはあったはずなのにそれを十分に行ってこなかったと見なせる、だからアムネスティはウクライナ政府と軍の対応を問題視したのです。
「あの状況において仕方がなかった、ほかに打てる手はなかった」というのであれば、個別具体的に反論する必要があります。佐々木・山添両氏はそのような反論の組み立てをしていないし、8月13日づけ「蛇足的な過剰反応によって問うに落ちず語るに落ちる・・・これこそが国家権力」で取り上げたとおり、ウクライナ政府もそのような反論は展開していないのが現状です。痛いところを突かれているのでしょう。
■持論にとって都合の悪い指摘に対する定番中の定番たる反応
佐々木氏の「そもそもこの報告が事実かどうか怪しい」という言説についても検討しておきたいと思います。「持論にとって都合の悪い指摘に対する定番中の定番たる反応」というべきシロモノです。
人間、都合の悪い報告を無視できるときは無視しようとするものです。しかし何らかの理由でその報告を無視し得ない場合、次に「発言の信憑性」や「口にする資格」などを持ち出して逃げるものです。論点を整理して正面から堂々と反論せず、議論から逃げながら何とか臭いものに蓋をしようとするものです。
私が佐々木氏の主張を目にして最初に思い出したのが、たしか15年くらい前の『週刊朝日』だったと思いますが、ジャーナリストの日垣隆氏(最近まったく見なくなりましたね)が、半田保険金殺人事件遺族ながらも加害者の死刑を望まないことで知られる原田正治氏や松本サリン事件被害者遺族であり自身も被害者である河野義行氏らを念頭に「世の中には死刑を望まない殺人事件遺族がいるというが、そういう人は本当に家族を愛していたのか疑わしい」といった趣旨の発言をしたことでした。
河野氏はあまりにも一般知名度が高く、原田氏は河野氏ほどではありませんがその界隈では著名人です。日垣氏とて流石に無視できなかったのでしょう。日垣氏はそれゆえ「発言の信憑性」という切り口を採用せざるを得なかったものと思われます。
私はあまり個人の人となりを云々することは書かないようにしているのですが、佐々木氏について調べてみるとご立派な経歴で、発信内容においても実りある議論を展開されているようにお見受けします。私が片足どころか両足を突っ込んで沼に嵌り込んでいる「しょうもない言い争いの低レベルな世論空間」とは無縁であるように見受けられます。私はこういう低レベルな世論空間に身を置いて長いので、まさに「人の振り見て我が振り直せ」のごとく自らの言動に注意を払っているのですが、そういう世界とは縁遠い佐々木氏は意識せずに「定番中の定番」を口にしてしまったものと思われます。
こういうのを見ると、「知識人の下放」と言うと語弊があり過ぎるでしょうが、自分が普段暮らしている世界とは違った世界に接して見識を広めることがとても大切だという思いを新たにします。特に「しょうもない言い争いの低レベルな世論空間」というものは、子どもじみた理性なき世界というのがピッタリな世界なのですが、人間理性というものは碩学大儒といえども比較的容易に吹き飛ぶものなので、「人間の本能」を見る上ではこういう世界を知ることは大切だと思います。
■人間が価値判断から自由であることはない
ひろゆき氏の主張も一応とりあげておきましょう。「事実として民間施設の軍事利用があったときに、それが良いか悪いか、価値判断までアムネスティが持ち込んじゃったことが僕はよくないと思う」? まず、「アムネスティが価値判断を下しているのか」という論点、そして何よりも「人間が価値判断から自由であり得るのか」という論点が直ちに浮かんできます。
100年以上前の超古典的マルクス主義じゃあるまいし、人間が価値判断から自由であることはありません。事実というものは人間の主観とは独立して無数に存在しており、無数の事実から人間がそのモノの見方や価値判断に基づいてピックアップするものです。それゆえ、「ただ『事実がありますよ』の報告だけに留めなかったことが、僕はアムネスティの失敗」というひろゆき氏ですが、ただ「事実がありますよ」と報告するだけでも、その行為自体に報告者の意図があるはずです。
おそらくこの報告が「事実としてウクライナ軍が学校を拠点として戦闘行為を展開しています。以上」だけだったとしても「そんなことに目くじらを立てて報告をすること自体がロシアを利することだ!」という批判が出てきたことでしょう。
まあ、ひろゆき氏の主張についてはこのくらいにしておきましょう。
■主体的集団主義者として、戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならないと考える
先に私は「弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりないのだから、今まさに命の危機に晒されている戦闘地帯に取り残された非戦闘員にとっては、侵略者が放った弾なのか祖国防衛者が放った弾なのかに違いはない」と述べました。私は個人主義者でも全体主義者でもない、「人間は、組織集団生活において集団の自主性と個人の自主性を同時に達成する場合に真の幸せがある」という主体的集団主義者として、戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならないと考えます。
それゆえ、戦闘地帯に取り残された非戦闘員の目線に立つ今回のアムネスティ報告書は、内容の重要性はもちろんのこと、モノの見方においても重要な範を示したものであると考えます。また、上掲記事中、ジャーナリストである堀潤氏の「両国の政府、軍の行いがどうなのか、それを考える前に一般市民への関心を忘れてはいけない」という指摘もまったくそのとおりであると考えます。
そして今回、山添博史・佐々木れな・ひろゆきの各氏が展開した言説を見るに、一般市民への関心というものは斯くも容易に後景に押しやられるものだということが改めて明らかになりました。特に防衛研究所主任研究官の山添博史氏がこの調子では、「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないものです。7月26日づけ「敵が悪いのは当たり前」でも書きましたが、敵が悪いのは当たり前であり、その上で日本国民を守る責務は日本政府にあります。しかし、「元はといえば中国が悪い」ですべて片づけられてしまう「未来」が見えてきます。
なお、平石アナウンサーの「大きな悪の中に小さな悪が存在する可能性もある」「小さな悪だといって目をつぶっていいわけではない」という指摘については、前述のとおり「弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりない」のであり、今回はロシアとウクライナを比較して「どちらがより悪いか」ということをジャッジするべき問題ではないので、私の考えとは些か相違するものです。とはいえ、「どちらがより悪いか」という論点に至ってしまうことは、この国の社会意識・世論傾向から考えて現時点では不可避であることを考えると、「元はといえば」に対する牽制球としてであれば非常に重要な指摘であると思います。
■総括
それにしても、8月13日づけ「蛇足的な過剰反応によって問うに落ちず語るに落ちる・・・これこそが国家権力」で取り上げた、ゼレンスキー・ウクライナ大統領による斜め上のアクロバティックな「批判」を展開を超える山添博史・佐々木れな・ひろゆきの各氏の言説。とりわけ恐ろしいのが、戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢です。
「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄有事」とよく言われますが、私はこの認識を共有しています。台湾・沖縄有事で展開されるであろうプロパガンダの骨子が、すでに見られているからです。そう考えると、「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないと言わざるを得ません。
沖縄戦について、もっとちゃんと勉強しなきゃ・・・「軍隊は民衆を守らない」と言うと「反日」だの「極左」だのと罵声を浴びせかけられるものですが、今般の世相を見るに相当程度に蓋然性があると言わざるを得ません。
記者
ウクライナに戻りたいですか?
女性
いずれはマリウポリに帰りたいです。
でも、今ウクライナに戻ると、どうなるかわかりません。
攻撃が続いています。私は戻って攻撃で死ぬのが怖いんです。娘もいます。
私は、どの政権の下で生きようが構いません。ただ、平和に働き、生活したいのです。戦争のことを考えずに。
私の甥はまだウクライナにいます。徴兵され、戦場で命を落とすかもしれません。そんなことにはなってほしくない。
今の願いは、戦争が終わってほしいということです。
(引用終わり)
勿論「ロシアにいる」以上、ロシア批判発言はしづらいでしょう。しかし「とにかく戦争が終わって欲しい」という発言は一概に嘘とは言えないのではないか。徹底抗戦ばかりが「ウクライナ国民の意思」ではないのではないか。
キーウで20年暮らす中村仁さん(54)は26日、交流サイト(SNS)の音声通話で現地の状況を説明した。
「国の中枢機関が集中し、防衛態勢が整っているキーウが一番安全と考える市民は多い」と説明する。
当初は徹底抗戦する構えで祖国防衛の覚悟を示す市民も多かったが、「今は反露感情の強いリビウなど西部地域の人以外で、志願して戦場に赴こうという人は少ないようだ」とも語る。
一方で、最近出会った東部ドンバス地域出身の20代男性は、クリミアが併合された2014年から志願兵として戦地に赴き、今年4月、東部マリウポリで抗戦中に片足を失った。ドンバス地域はロシアの実効支配地。リハビリに励む男性は「ロシアが私たちの土地に入ってきたことは許せないし、ロシアが実効支配する地を解放するために戦う」と、年末までに戦線に復帰したいとの強い意思を示したという。
「キーウでは平時のような日常が戻りつつある中で、戦争への意識の地域格差をまざまざと感じた」
(引用終わり)
重要な指摘かと思うので紹介しておきます。
ロシアで「プーチン批判」が弱い理由として「総力戦とは言えず一部の軍人が戦ってるに過ぎないこと」がよく指摘されますが、実はウクライナも同じで「ウクライナ全土が戦場になってるわけではなく、総力戦とは言えないこと」がウクライナで抗戦支持が多い理由の一つではないか。
https://mainichi.jp/articles/20220829/k00/00m/030/007000c
「英雄部隊」には、暗い影がつきまとう。人種差別的なネオナチ思想とのつながりが指摘されてきたためだ。
アゾフ大隊は14年、極右グループを中心に民兵組織として結成された。創設者は北東部ハリコフ出身のアンドリー・ビレツキー氏。「フーリガン(暴力的なサッカーファン)の白人至上主義者」(英メディア「インディペンデント」)と評される人物だ。
(引用終わり)
「有料記事なので途中までしか読めませんが」ウクライナを美化する記事が多い日本においては重要な指摘かと思います。
コメントありがとうございます。
調査によると徹底抗戦論は依然として高いようですが、1割から2割程度はそうではなく、徹底抗戦ばかりが「ウクライナ国民の意思」ではありません。
1割から2割程度といえば決して少数のキワモノ意見とは言えないでしょう。
そうであるにもかかわらず、日本のメディア・言論空間は、まるでそういった意見が存在しないかのごとく、「ウクライナ国営放送の戦意高揚モノか?」と思わずにはいられないシロモノ溢れかえっていました。
例:4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」(http://rsmp.seesaa.net/article/486378548.html)
依然としてその潮流は大きくは変わっていませんが、ご紹介の記事は今春であれば「絶無」と言い切ってよかったところですが、わずかながらも出てきたことは注目に値すると思われます。
11月1日放送のNHKクローズアップ現代「戦火が引き裂いた心 ウクライナ市民たちの記録」によると、ウクライナ国内でも地域によって感情的な対立が生まれているようです。正直、ドンバス出身者に対するヘイトスピーチではないのかと思わざるを得ないような心ない罵倒もあるようです。「国民一丸となって侵略者に対して徹底的に戦っている」という描写は現実ではない、当たり前の事実――ガリツィアとドンバスでは、歴史的経緯も住民意識も大きく違うでしょう――ですが、これが「公共」放送で全国に報じられたことは非常に重要な兆候だと思います。
蓋し、島国国家ニッポンでは、一つの国の中に歴史的経緯や住民意識が大きく違うような事態があることを思考の枠組みに入れていないかも知れませんね。本当は日本にだって、たとえば沖縄という本土とは歴史的経緯を異にする独自の領域があります(ほかにもありますが、ここでは一例として沖縄)が、本土人は沖縄の独自性を認めておらず、北海道から沖縄まで日本を均質・均一的なものと考えています。その調子でウクライナについても「ガリツィアからドンバスまで均質・均一のウクライナ」と考えているように思われます。
アゾフ大隊についてのご紹介の記事については、すでに日本言論空間では「過去のもの」扱いになっているので、何を書いたところであまり問題にならないのかも知れませんね。