2022年09月06日

ロシア・ウクライナ戦争半年:「日本世論の反応」の回顧・整理

ロシアによるウクライナに対する「特別軍事作戦」なる戦争が始まって半年の月日が流れました。戦いは長期化・泥沼化の様相を呈しています。民間人・非戦闘員一人一人の身を案じればこそ私は、開戦当初から繰り返してきたとおり、一刻も早い停戦を願ってやみません。

当ブログはこの半年、ほぼこの戦争に関連した「日本世論の反応」を柱としてやってまいりました。今回は、過去ログの読み返しを通して半年間の出来事を振り返りつつ、改めてこの戦争に関連した「日本世論の反応」を整理したいと思います。

■一種の自己中心主義・自意識過剰性、善悪の次元で構図化しないと事態を把握できない思考回路が「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を軽視させた
何よりもまず強調したいのが、ロシアが始めたこの戦争であるにもかかわらず、肝心かなめの「ロシアの視点」や「ロシアの動機」が未だに非常に軽視されている点です。

開戦直前の2月23日づけ「ウクライナ情勢をめぐる日本世論について」では、当時人口に膾炙していた「NATO側からロシアを攻めることはないのに、ロシアは何を恐れているのか」といった主張を批判的に取り上げました。

当該記事で私は、軍事ジャーナリストであるJSF氏の記事を取り上げたうえで、これに対して批判的に論評しました。ロシアが情勢をどのように見ているのか・ロシアからは現状がどのように見えているのかという「ロシアの視点」への考慮が決定的に欠けていたからです。「「ロシア語には『安全』という言葉がないが、このことがロシア人の情勢認識を象徴している」と時折指摘されているとおり、基本的にロシア人は外国を信用していません。また、自分たちがそうしてきたからだとは思いますが、一旦既成事実が出来上がるとそこからなし崩し的に事態が悪化してゆくことも恐れているように思われます」と書きました。また、「「歴史的ロシア」ということになっているウクライナに欧米の軍事力が入り込むことは、ロシアの為政者としては政治的に許せないことなのでしょう」とも書きました。

相手の出方を探るためには、相手方の発想や内的論理になるべく沿う形で推理推測を展開する必要があるはずです。分からないなりに考え抜く姿勢が大切であるはずです。しかしながらこの戦争をめぐっては、JSF氏の記事が非常に典型的だったように、「ロシアの出方」を探ることを主題に挙げながらも「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説が氾濫していたものでした。

「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説が何故かくも席巻しているのでしょうか? 開戦初期の当ブログのテーマはそこにありました。

開戦直後の2月27日づけ「ウクライナ侵攻について」においては、廣瀬陽子・慶大教授の「「クールな合理主義者」でなくなったプーチン大統領」という見立てを「こうやって「あいつら」扱いするから予測を外すのでは?」と批判しつつ、テーマに沿って分析しました。

博学者たる大学教授は研究者として自負があります。それゆえ悪い癖としてしばしば、自分の見立てを絶対視し、それとは異なる見立てを「非合理的」と見なす一種の自己中心主義的なモノの観方をしてしまいがちです。廣瀬教授の反応はまさにその典型例というべきものです。自分には理解できないものを「非合理的」と切って捨てる一種の自己中心主義・自意識過剰性が「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説の根底にあるものと思われるのです。

また、一種の自己中心主義・自意識過剰性つながりとして、前掲2月23日づけ記事では、当時ヤフコメ等に溢れかえっていた「そんなにウクライナに離反されたくないなら、ロシアが魅力的な国になればいい」といった言説を取り上げて批判しました。国家間の友好関係と個人間のお友達関係とを混同した、個人レベルの感覚で天下国家を論じてしまう「個人」主義的な発想の存在が考えられました。

さらに、開戦から数日間のテレビ報道などを思い起こしていただきたいのですが、すべての根本であるはずの戦況報道が非常に貧弱で、「国際社会」の反応だの反戦デモがあっただのといった報道ばかりが氾濫していたことについて、3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」などで取り上げました。

戦争は政治の延長線上にあるもので、軍事力は「実力行使の政治」という点において政治的解決方法の一つなので、戦争報道は戦況報道を基本とすべきです。開戦当初の日本のテレビ報道・日本世論の関心は、本筋ではない部分ばかりに注目していたわけです。本筋的ではないところに関心が集まった事実からは、日本世論は、まず現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められない習性を持っているという可能性が考えられます。人間は普段から慣れ親しんだ考え方の枠に当てはめて新しい状況を把握するものです。まったく思考の枠組みがないところで事実を認識することはできません。

こうした反応から見えてくる日本世論の特徴は、まず現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められないほど「善悪の構図」が日本的発想に深く深く根ざしている可能性、そして天下国家の動向を自分が理解できる範囲内で解釈することに終始し、決して相手の視点や新しい視点を取り入れて認識を発展させようとはしない傾向にあるように見受けられます。

■治療困難な域に達した硬直的な二項対立的世界観
3月に入ると日本世論はますます深刻な病的振る舞いを示すようになりました。3月4日づけ「日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)」及び3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」では次のとおり整理しました。

(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立
(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない
(3)「個人の意志」の過大評価
(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する
(5)他力本願

私が最も驚き恐怖さえ感じたのが、「(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」及び「(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない」と関連して、侵攻開始から1週間以上たった3月4日になってやっとプーチン大統領の開戦演説(2月24日)がNHKニュースで全文和訳されたことです。1週間以上も「ロシアの動機」が十分に顧みられなかったのです。

停戦及び終戦のためには両国の動機をフォローする必要があるはずです。動機がなくならない限り停戦や終戦が実現しても遠からず戦火が再び燃え出してしまうからです。それゆえ、「ロシアの動機」に接近せずに「ロシアの出方」を探るというのは到底不可能なことと言ってよいでしょう。

もし、「ロシアの動機」に接近せずに「ロシアの出方」を探るなどということを本気で試みているとすれば、上述の、一種の自己中心主義・自意識過剰性は治療困難な域に達していると言わざるを得ないものです。ちょうど近代初期哲学者が認識論や存在論について頭の中でひたすら考えを巡らせ、荒唐無稽な結論に至ったのと同じ轍を踏んでいます。

「ロシアの動機なんてどうでもいいんだ、ウクライナは被害者でありロシアが悪い、このことだけで十分なんだ」というのであれば、「本土決戦一億玉砕の発想が現代に蘇ったのか?」と疑わざるを得ないような硬直的発想が大手を振っていると言わざるを得ないものです。既に廣瀬教授が典型的に示していた「自分が理解できる範囲内で解釈することに終始する姿勢」に、「ウクライナは被害者でありロシアが悪い」の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び、非常にな日本的な「悪党の主張には一切耳を傾けてはならない」が加わったことによって、日本世論は一気に好戦的かつ画一的に凝り固まったと総括することができますが、この硬直的な二項対立的世界観もまた治療困難な域に達していると言わざるを得ないものです。

当該記事でも書いたとおり、「ロシアの動機」を踏まえて対処しない限り、結局は殺るか殺られるかの二択しかなくなってしまいます。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されえません。これでは解決するものも解決しなくなってしまいます。

開戦から半年以上の月日が経過し、戦いが泥沼の長期化の様相を呈し、ウクライナ軍の損耗率が最大で50パーセントに上ったと指摘されていてもなお停戦の方向性さえも見えない今。現実は「『力の信奉』では解決するものも解決しなくなってしまう」ことを示しています

■未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にある
1週間以上も「ロシアの動機」が十分に顧みられなかったことと並んで私が非常に衝撃を受けたのが、橋下・グレンコ論争に典型的に現れた「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」でした。3月13日づけ「
最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論
」で取り上げました。

当該記事でも書きましたが、民間人保護をめぐって激しい論戦が展開されたこの論争においては、実は両者の主張には近しい点もありました。たとえばグレンコ氏は「まだ戦えるから戦っているという状態で、もし本当にどうしようもなくなってこれ以上の抵抗は犠牲が増えるだけで戦果につながる見込みが全くない場合は、苦しい判断をしなければならない場面も出て来るんですが、その時は(停戦等を)もちろん排除しない」と言明していました。しかしながら、この論争をネットニュース記事でしか目にしていないと思しき世論は、「橋下はウクライナに降伏しろと言っている!」などと曲解し、事態が大騒動と化したのでした。有馬哲夫・早大教授に至っては、日帝が果たせなかったヒロイズム・ロマンチシズムを勝手にウクライナに投影して悦に入っているという他ない大暴論を展開したものでした。

また、ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉悠氏は、橋下・グレンコ論争とは直接的には関係はありませんが同時期に、ウクライナの降伏について「ウクライナには何の非もないのに、ロシア側から侵攻された。早く降伏すべきだというのは道義的に問題のある議論」などと、正真正銘の「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先」する言説を展開したものでした。当該記事でも書きましたが、橋下・グレンコ論争におけるグレンコ氏のスタンスでは、戦況を見誤ることで市民の避難が遅れてスターリングラード攻防戦のような事態に陥る危険性があります。それに対して、有馬氏・小泉氏のとおりにしてしまうと、これはベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性があります。

グレンコ氏の徹底抗戦論と有馬氏・小泉氏の徹底抗戦論とは、天と地ほどの違いがあります。ヤフコメやネトウヨが中学生のような安易安直な徹底抗戦論を口にしているのはしばしば見かけたものでしたが、それなりに社会的地位のある学者や専門家、ジャーナリストなどが、斯くも時代錯誤的な徹底抗戦論を提唱するとは正直思ってもいませんでした。

「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」――よく言われるスローガンですが、私もこの見方をある意味において共有しています。私は、台湾・沖縄有事で展開されるであろうプロパガンダの基本的枠組みが今般のウクライナ情勢報道で予行演習的に試行されているものと考えています。地理的に遠く離れ国家間交流が活発とは言い難いウクライナでの戦況が連日、NHKニュース等でトップニュースで報じられるのには、何らかの意図があると見なさざるを得ません。ユーゴ内戦、コソボ紛争、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内戦・・・ここ四半世紀に限っても世界中で常に何らかの戦争がありましたが、ここまで四六時中、話題の中心であり続けたことはありませんでした。

たとえば4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」では、およそ批判的視点に基づくジャーナリズムを放棄したという外ない、非常に戦意が高く勇ましい「キーウ市民現地の声」だけを放映するTBS『報道特集』の惨憺たる様を取り上げました。本当は不安と恐怖でいっぱいなのに外国人ジャーナリストには口が裂けても本音を言えなかったウクライナ国民だっていたはずで、本来ジャーナリズムというものは、こういう無言の本音を掘り起こすところにその使命があるはずなのに、プロパガンダ臭の満ち満ちた現地取材に終始していました。また、6月25日づけ「現代に蘇った「転進」論」では、ウクライナ軍の撤退・敗走を「防衛にあたってきた部隊が別の拠点に移動することを明らかにしました」などと表現する、まさに現代に蘇った「転進」論といういう外ないNHKの報道を取り上げました。

まさに典型的な戦時報道・戦意高揚宣伝扇動。まだまだ露骨で稚拙なプロパガンダですが、まず間違いなく将来の台湾・沖縄有事においては、今回の予行演習を基にして更に巧妙化された形でプロパガンダ報道が展開されることでしょう。

■「台湾・沖縄有事」が「沖縄戦2nd」になりかねない
そして、予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ない今回の報道において時代錯誤的な徹底抗戦論が展開され、ある程度の宣伝扇動効果が上がったという事実は、いざとなれば日本世論は非常に容易に日帝レベルの徹底抗戦論に堕するということ、未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にあるということを明白に示したものと言えるでしょう。7月26日づけ「敵が悪いのは当たり前」及び8月21日づけ「戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならない:アムネスティ報告書が示した範とそれを読み取れない日本言論空間の現状」では、このことについて深堀して論じました。

当該記事で危惧したとおり、民間人の被害は「ロシアが悪い!」で終わらせている日本世論は、いざ日本が戦渦に巻き込まれたとき同じような反応を見せるであろうことが非常に容易に想像できます。弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりないのだから、民間人・非戦闘員にとっては、侵略者が放った弾なのか祖国防衛者が放った弾なのかに違いはありません。しかし、特に8月21日づけ記事で取り上げたアムネスティ・インターナショナルの報告書を巡る日本世論の反応からは、民間人・非戦闘員の目線に立つことが後景に押しやられている現状が覆い隠しようがないくらいに明白に示されてしまいました

たとえば防衛研究所主任研究官の山添博史氏は、学校など民間人居住地域を拠点としてウクライナ軍が抗戦していることについて「当該学校は長期休暇中だから問題ない」だの「一概に『民間施設の軍事利用で違法行為だ』とは言えない」だのと、アムネスティ側の指摘の趣旨・要点からズレた枝葉的な「反論」を展開しました。マトモな国語力があれば、アムネスティ側の指摘の趣旨・要点が分からないはずがありません。わざとやっているはずです。

なお、授業中の学校に陣地を作っていたらそれは「人間の盾」以外の何物でもありませんが、今回アムネスティはそこまでは言っていません。そうであるにも関わらず、防衛研究所主任研究官がこんなにも過剰反応するというのは、当該記事でも書いたとおり、自衛隊は「人間の盾」は使わないまでも、かなり際どい戦い方を予定していることを疑わせるものです。「台湾・沖縄有事」が「沖縄戦2nd」になりかねません。

佐々木れな氏は、もとよりロシアとウクライナを比較するような意図はアムネスティにはないのにもかかわらず、「アムネスティ・インターナショナルが客観的であろうとするあまり、侵略者と侵略された者、要は侵略者と被害者を同列に扱ってしまって、誤った等価性みたいなものを作ってしまった」なるまるでトンチンカンなこと・・・というよりもアムネスティ側の話をまったく聞いていないことを白状しました。そもそも等価・不等価の問題ではないところにそういう尺度を持ち込む佐々木氏の思考回路からは、非常に単純な善悪二元論と勧善懲悪の正義感に凝り固まっている様を見て取らざるを得ません。おそらく無意識的に、アムネスティ相手に藁人形論法を展開している彼・彼女らの世界観的理解の硬直性は、いささか異常なレベルであるように思えます。

「大義」を優先し、それによって発生する国民生活の被害は「敵が悪い」と述べるにとどまる・・・戦闘地帯に取り残された民間人・非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば敵が悪い」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢には恐怖さえ感じます。「敵が悪いのは当たり前。日本国民を守る責務は日本政府にある」という基本原理に見向きもしないという「未来」が見えてきます。「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないと言わざるを得ません。

■破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合し全体主義化する日本的発想の危険性
さて、4月3日づけ「ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏」で論じたとおり、「(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」及び「(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない」並びに「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」は連関していると私は考えています。

すなわち、「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあるため、ウクライナ国内における徹底抗戦論者の勇ましい主張やグレンコ氏・有馬教授のようなロマンチシズム的な主張が持てはやされ、これに水を差すような橋下氏のような主張が忌み嫌われているものと私は考えます。

当該記事でも指摘したとおり、グレンコ氏は橋下氏との論争において、民間人を巻き込むようなキーウ政権の徹底抗戦論について「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」と言い放って正当化しました。たしかにゼレンスキー大統領への支持率は当時90パーセントではありましたが、もとより政権支持率というものは政権の総路線に対する支持率であり、個別各論的な施策がすべて支持されているわけではありません。現に、「武器を手に戦う」と言明するウクライナ人は50パーセント程度、そして出国禁止命令の対象となる男性国民から脱出を試みるものが続出していました。また、政権支持率90パーセントいうことは、逆に言えば10パーセントの国民はゼレンスキー大統領の総路線を支持しかねているということを意味します。グレンコ氏は10パーセントの意見を無視しているわけです。

もっとも、アンドリー・グレンコという人物は、アパグループの近代史「論文」コンクールに入選することでキャリアをスタートさせた「そっち系」の人物です。「支持率90パーセント」を誇らしく提示することで、言外に残り10パーセントに属する「少数派」を無視する全体主義的な立場を自ら鮮明にしたグレンコ氏ですが、彼がそういう発想をすること自体は驚くには値しないわけです。ここで注視しなければならないのは、当時世論は、彼の全体主義的な主張を無批判に受け入れてしまったところにあります。戦後77年経っても、日本はかくも容易に全体主義に堕する可能性があることがこの度、明々白々になったと言わざるを得ないでしょう。

全体主義的な主張に堕したグレンコ氏の徹底抗戦論や、ベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性を内包する有馬氏・小泉氏の徹底抗戦論は、日本世論の悪いところの寄せ集めというべきものでしょう。破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合し全体主義化してしまう日本的発想の危険性がこの戦争で露になったわけです。

■「散華」は愛国的な戦いなのか?
有馬・小泉そしてグレンコの各氏らによる暴論が席巻していた今春、大義名分が肥大化しまさしく「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」風潮が激しかった今春。危機感を感じた私は、絶世の愛国者であられたキム・イルソン同志の革命実記を再研究することでこの風潮に対抗する理論武装を試みました。その一定の成果として発表したのが、4月15日づけ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか、同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか:キム・イルソン同志生誕110周年」及び8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」でした。

4月15日づけ記事で私は、キム・イルソン同志の抗日闘争史を振り返りつつ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか」という問いを立てて思索を展開しました。周知のとおり首領様は、祖国を取り戻すためにこそ一旦祖国を離れ満州に渡るという決断を下されました。上述のとおり日本世論は、ベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性を内包する徹底抗戦論が主流になってしまっています。しかし、首領様の決断を踏まえると一所懸命的な徹底抗戦、死守戦が祖国防衛のための唯一の道といわんばかりの言説は、事実に反する凝り固まった思い込みであると訴えたいと思います。

また、8月19日づけ記事で私は、軽挙妄動を避けるためには「『志遠』の思想に基づき価値観に対する目的意識性を持つ」とか「不屈の革命精神を持つ」ことが必要だとも述べました。敵とはあくまでも戦う。しかし軽挙妄動は厳に慎む。革命の道はもとより非常に遠く険しいものである。代を継いでたたかってでも必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神を持つ必要があるのです。

日本的発想は「散華」を好みますが、花と散ってしまうような戦い方が愛国的な戦いなのでしょうか? 愛国の名を借りた「悲劇のヒロイン・ワタシ」的な自己満足に過ぎないように思えてなりません。本当に国のことを思うということは如何なることであるのでしょうか? 日本的発想の硬直性が非常に著しいと言わざるを得ません。首領様の革命歴史はこのことを実証しているように思われます。

■「自ら血を流す」ことは日帝から引き継がず他力本願になりがった
もっとも、生身の人間の生活を軽視し大義や筋論などの抽象的なものを優先する価値観を自ら率先して実践に移すのならば、それはそれで「一つの生き方」と言えるかも知れません。ひとりで勝手にやる分には好きにしろということです。

しかし、「(5)他力本願」と関連して申せば、日本世論はウクライナ人の流血を新冷戦におけるロシア封じ込めに利用しようとしています。ウクライナを勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な役割を押し付けつつ、日本を含めて何処の誰もウクライナには直接的には加勢しようとしていません。いわゆる「ウクライナとの連帯」という美名の下で行われていることは、ウクライナ人をおだて上げてウクライナ人に負担を押し付けていることに過ぎません。ウクライナ人を「捨て駒」にしているのです。

この点、橋下徹氏は「ロシアが倒れるまでの間、ずっとウクライナの人たちに戦わせるのか」と世論を指弾しました。これに対する世論の反応は、よほど痛いところを突かれたのか、論点逸らしに必死にだったものです。結局、ご立派なことを言っておいて日本世論は徹頭徹尾、他力本願なのです。この点は日帝にはなかったものです。現代日本は、「生身の人間の生活を軽視し大義や筋論などの抽象的なものを優先する価値観」を日帝から引き継いだものの「自ら血を流す」ことは日帝から引き継がず他力本願になりがったわけです。

その意味では日本世論は、力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩しておらず、新たに卑劣な他力本願が加わったと言えるでしょう。まだ自殺攻撃的に「散華」した方が少なくとも潔いものです。これが現代日本の戦時世論であり、おそらく台湾・沖縄有事で展開されるプロパガンダの基本的枠組みになるものと思われます。とりわけブルジョア「個人」主義化した現代、個人同士の負担の押し付け合いが日常化している現代ですから、あの手この手・あからさまな屁理屈を駆使してでも、ますます卑劣で醜い他力本願が展開されることでしょう。

■開戦3週間で早くも「北朝鮮」報道化したロシア報道――ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのか
泥沼化して長期化しているこの戦争ですが、なかなか期待通りの動きが見られない状況に置かれると人間はどうしても、ちょっとしたニュースを針小棒大に評価したり希望的観測に飛びついたりしがちなものです。この戦争では早くも開戦3週間でその兆候が見えたものでした。対ロ経済封鎖でロシア経済はあっという間に崩壊するだろうと見込まれていたところ、まったくそのようにはなりませんでした。また、西側諸国で盛り上がったようにロシアでも遠からず反戦運動が盛り上がりプーチン政権が追い詰められるに違いないと予測されたところ、まったくそのようにはなりませんでした。それゆえ、3月20日づけ「「北朝鮮」報道化したロシア報道:怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ等々」で取り上げたとおり、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大に取り上げた報道、要するに「北朝鮮」報道のようなロシア報道が早々から見られたのです。

当該記事でも書きましたが、「北朝鮮」報道化したロシア報道でとりわけ興味深かったのは、歴史上一度たりとも民衆自身が新体制・新時代を開拓したことがない日本の世論が、やたらにロシアにおける民衆蜂起の可能性をめぐって盛り上がっていたことです。民衆革命に関する歴史的・社会的な経験・知見の蓄積が乏しいがゆえに日本世論は、いったい今のロシアで誰がプーチン打倒の首領たり得るのか、誰がポスト・プーチンの器なのか、そもそも打倒に向けた全人民的気運=革命情勢が整っているのかについては、案の定、ほとんど分析できず願望を並べることに終始しました。

また、「北朝鮮」報道においてもよく見られますが、相手側が言ってもいないこと、計画していないこと、あくまでも分析者の推測・憶測でしかないことが、いつの間にか既定路線にすり替わり、それが現実のものにならないことが分かるや否や「目論見、外れたり!」と騒ぎ立てる現象も見受けられました。

ロシアがウクライナ侵攻のために当初用意した兵員数は20万人弱でしたが、そもそもロシアの全軍を束にしてぶつけてもウクライナ全土の軍事的征服には足りないことは、初めから算数の問題として分かり切ったことです。いくらプーチン大統領が「裸のツァーリ」として自軍の練度や士気などの質的側面について景気の良い報告しか受けていなかったとしても、この「算数の問題」はごまかしようがありません(それゆえ私は当初から、用意された兵力規模から見てロシアにはウクライナを直接統治する気はないだろうと述べてきました)。

しかし、当該記事で取り上げたとおりジャーナリストの木村太郎氏は、まるでロシアはウクライナ全土を直接統治したがっているが兵力が足りなくなってきており頓挫しつつあると言わんばかりの構図を強引に描き出したものでした。また「5.9戦争宣言」憶測に至っては、5月10日づけ「「北朝鮮」報道化したロシア報道:「5.9戦争宣言」の予測を巡って」で取り上げたとおり、あくまでも英米など西側諸国の「分析」に過ぎずロシア政府筋がそれを匂わせたりリークしたものでは決してなかったのにもかかわらず、「5月9日の対独戦勝記念日を以ってロシアがウクライナに正式に宣戦布告する」という言説がまるで規定路線であるかのように定説と化していました。そして、その観測が(案の定)外れたことを以って「ロシアの弱体化」を騒ぎ立てる、まったくマッチポンプな強引なる議論が大々的に展開されたものでした。

ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論なのです。

■プロパガンダ報道と現実との折り合いがつかなくなった5月・6月
5月や6月になってくると、いままで日本世論が作り上げてきた構図が必ずしも現実世界の実相とは合致しないことがいよいよ明らかになってきたためか、いくつかの見立てが自然消滅するようになってきたものでした。たとえば、6月17日づけ「状況把握を願望ベースで判断する非常に危うい風潮がますます顕著に」では、プーチン大統領が国内のタカ派の声に悩まされているという分析が突如として登場してきたことを取り上げました。

開戦以来、日本メディアはこの戦争を「プーチン個人の戦争」として位置づけつつ「厳しい情報統制は早晩に瓦解するので、プーチンは遠からず反戦運動の高まりで追い詰められる」としてき、日本世論もその構図を受け入れてきました。しかし5月・6月にもなると流石にそのような構図で事態を理解するのには無理が生じてくるようになってきました。そんな中で登場した当該引用元記事。いままでの「プーチン個人の戦争」という構図とは真逆に「国内の好戦派の突き上げによってプーチンは追い詰められている」という内容が初めて報じられたのです。180度の転回というべきものです。

しかし、ここで注目すべきは、「好戦狂のプーチンが戦争を主導している」から「プーチンが国内好戦派突き上げを食らっている」に構図がまったく変わったのにもかかわらず、「プーチンは追い詰められている」結論だけはブレないという離れ業が展開されたことです。理由付けが180度変わったのならばそれなりに経緯を説明する必要がありますが、そのようなことは一切なかったのです。

理論と現実との乖離は現実問題としてはそれほど珍しい話ではありませんが、理由付けが大きく異なったのならばそれなりに総括する必要があるはずのところ、そうした説明なしに急に持論を引っ込めるのは、非常に日本的な現象というべきです。特に、ここまでくると「苦しい」という外ない「プーチンは追い詰められている」の強引なる維持。やはり日本世論は、ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ません。

■「プロパガンダの自家中毒」にかかった日本メディア
ところで、非常に深刻なのは、日本メディアはどうやらプロパガンダ報道だと自覚してやっているケースばかりではないと見受けられることです。「プロパガンダの自家中毒」にかかっていると思しき現象が見られていました。

5月17日づけ「マウリポリ陥落」において取り上げたとおり、たとえばNHKは、東部マリウポリ市内でロシア軍に包囲されつつも頑強に抵抗を続けていたアゾフスターリ製鉄所が白旗を上げる2日前まで「ウクライナ軍が東部で反転攻勢している」と報じていました。

アゾフスターリ製鉄所がウクライナ側の最終拠点だったこと、そしてその最終拠点が包囲され、包囲網がじりじりと狭まっていたことは既にかなり前から知られていました。補給が断たれ極めて厳しい状況におかれて久しかったのに、ウクライナ軍の瞬間的な優勢を「反転攻勢」などと針小棒大に報じていたのがNHKだったわけです。

NHKは自分で展開していたプロパガンダ放送に自分が引っかかり、自分でも何が何だか分からなくなっていたのでしょう。時系列的に見ればまさに「プロパガンダの自家中毒」というべき展開でした。

■台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習は4か月しか持たなかった
先に私は、今回のウクライナ報道は、台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ないとしましたが、結局4か月しか持たなかったと総括できそうです。6月以降、日本世論が開戦以降に構築してきた構図が軒並み、現実を説明できなくなってきたのです。その結果、ウクライナ情勢にかかる報道枠自体が急速に縮小していっています。

たとえば7月9日づけ「フランスF2とNHKとのウクライナ報道比較から浮き彫りになった日本世論の深刻な現状」。分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとしたため、日本世論は「親ロシアのウクライナ国民」や「ロシアともウクライナとも距離を置こうとするアフリカ諸国」を位置づけることに失敗し、そうした現地住民を無視するしかなくなりました。当該記事では、日本的対立構図では絶対に理解できないであろう南アフリカ外相の発言を取り上げました。しかしこのような報道は一般紙や地上波放送では、まったくと言ってよいほど見られません。ほぼ完全に無視されています。

また、NHKの各番組がそれぞれの思惑で断片的事実を「ぼくが かんがえた じゃあくな ロシア」像に沿った形で継ぎ接ぎしたため、番組によって「分析」が矛盾しNHK全体としては事実描写が支離滅裂になってしまっていました。具体的には、当該記事で取り上げたとおり、6月30日のニュースウォッチ9は、プーチン大統領のインタビュー映像を引きつつフィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請について「プーチン大統領にとって皮肉な誤算」としたのに対して、同日の国際報道2022は、まったく同じインタビュー映像をほんの少し前のシーンから放送することによってそういった見方を否定してしまったのです。プーチン大統領は、ロシアとフィンランド・スウェーデンとの間には、ロシアとウクライナとの間で懸案となっているような事実はないので、フィンランド・スウェーデンNATOに加盟することは問題ではないと言明していました。

何とかして「プーチンは藪をつついて蛇を出した」「自業自得」という構図に持ち込みたかったニュースウォッチ9は、インタビュー場面を切り取って印象操作を狙ったものの、こともあろうに同じNHKの国際報道2022がプーチン大統領発言を正確に引用したことで、ニュースウォッチ9での解説と矛盾する番組を作ってしまったわけです。

まったく同様の現象は7月1日のニュース7と同日のニュースウォッチ9でも展開されました。ニュース7はズミイヌイ島からのロシア軍撤退について「一部奪還 反転攻勢に」というテロップを出して報じましたが、他方、その僅か1時間半後に放送が始まったニュースウォッチ9では、防衛研究所の高橋杉雄氏による「ウクライナが(ズミイヌイ島を)奪回したことで黒海の制海権をめぐる情勢が大きく変わることはない」という分析を放映しました。制海権をめぐる情勢が変わらないのならば反転攻勢とは言えません。ニュースウォッチ9がニュース7を否定したのです。

ニュースウォッチ9と国際報道2022の両方を視聴した人はあまり多くないかもしれませんが、ニュース7とニュースウォッチ9を両方とも見た視聴者も随分といたはずです。「さっきと言っていることが違うぞ」と気が付く人も少なくなかったでしょう。

当該記事でも書いたとおり、日本メディアは、分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとして現実を上手く分析し切れていません。むしろ現実の理解を妨げてしまっています。また、事実を事実として報じることよりも断片的事実を継ぎ接ぎして溜飲を下げることを優先しているために、番組によって「分析」が矛盾しており支離滅裂になっています

このことは単なるメディアの編集姿勢の問題に留まるものではないと考えます。なぜならば、商業メディアは「売れてナンボ」であるために、読者・視聴者が求める情報を提供しようとするものだからです。つまり、日本メディアの報道姿勢は、日本人が非常に好むモノの見方・考え方に根差しているものであり、その意味で日本世論の深刻な現状を示すものであると言えるのです。

■総括
「日本世論の反応」を総括整理します。

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」、「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」及び「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という特徴が日本世論の3本柱として存在していると私は考えます。この3本柱は、破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合として理解できるとも考えます。

こうした反応からは、現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められないほど「善悪の構図」が日本的発想に深く深く根ざしている可能性が見えてきます

この破邪顕正的な感覚は、結局のところは「殺るか殺られるかの二択」に至るものです。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」からは「力の信奉」しか導出され得ないのです。また、これが大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚と融合することで日本的発想は全体主義に堕する可能性があると考えます。

「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」――よく言われるスローガンですが、私は、台湾・沖縄有事で展開されるであろうプロパガンダの基本的枠組みが今般のウクライナ情勢報道で予行演習的に試行されているものと考えています。

今般、およそ批判的視点に基づくジャーナリズムを放棄したという外ない「ウクライナ国営放送日本語版」かと見紛うような報道、かつて日帝が手を染めた「転進」論といういう外ない報道が見られました。まさに典型的な戦時報道・戦意高揚宣伝扇動です。まだまだ露骨で稚拙なプロパガンダですが、まず間違いなく将来の台湾・沖縄有事においては、今回の予行演習を基にして更に巧妙化された形でプロパガンダ報道が展開されることでしょう。

予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ない今回の報道は、ある程度の宣伝扇動効果を上げています。この事実は、いざとなれば日本世論は非常に容易に日帝レベルの徹底抗戦論に堕するということ、未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にあるということを明白に示したものと言えるでしょう。


「大義」を優先し、それによって発生する国民生活の被害は「敵が悪い」と述べるにとどまる――民間人・非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば敵が悪い」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢に私は恐怖さえ感じます。「敵が悪いのは当たり前。日本国民を守る責務は日本政府にある」という基本原理に見向きもしないという「未来」が見えてきます。「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないと言わざるを得ません。

しかしながら、日帝と大きく異なるのは、「自ら血を流す」ことは徹底的に忌避していることです。ウクライナを勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な役割を押し付けつつ、日本を含めて何処の誰もウクライナには直接的には加勢しようとしていません。卑劣で醜い他力本願に成り下がっています。

戦争が泥沼化・長期化するにつれて、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大に取り上げた報道、要するに「北朝鮮」報道のようなロシア報道が見られるようになりました。ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論でした。

その結果、日本メディアは「プロパガンダの自家中毒」にかかったと言わざるを得ない惨憺たる様を見せました。自分で展開していたプロパガンダ放送に自分が引っかかり、自分でも何が何だか分からなくなっていたのでしょう。

今回のウクライナ報道は、台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ないと考えますが、結局4か月しか持たなかったと総括できそうです。6月以降、日本世論が開戦以降に構築してきた構図が軒並み、現実を説明できなくなってきました。

日本メディアは、分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとして現実を上手く分析し切れていません。また、事実を事実として報じることよりも断片的事実を継ぎ接ぎして溜飲を下げることを優先しているために、番組によって「分析」が矛盾しており支離滅裂になっています

このことは単なるメディアの編集姿勢の問題に留まるものではないと私は考えます。なぜならば、商業メディアは「売れてナンボ」であるために、読者・視聴者が求める情報を提供しようとするものだからです。つまり、日本メディアの報道姿勢は、日本人が非常に好むモノの見方・考え方に根差しているものであり、その意味で日本世論の深刻な現状を示すものであると言えるのです。
posted by 管理者 at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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