この労作は、チュチェ思想が思想理論として体系化される重要な契機に発表された著作であると同時に、キム・ジョンイル同志の手によって存在論などの分野やマルクス・レーニン主義との差異を強調する方向に深化発展する以前の時期に発表された著作でもあります。この意味で、チュチェ思想発展の里程標として位置づけられる労作です。
以前から述べているように私は、チュチェ思想を指針として日本社会の自主化を目指しています。将来的には日本においても社会政治的生命体を形成することを目指すべきと考えます。しかし、チュチェ108(2019)年12月18日づけ「社会政治的生命体形成の構想」などでも述べてきたように、革命的同志愛と義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している現代資本主義社会において存在しているとは到底思えないところです。存在論にまで言及している共和国本国で発行されているチュチェ思想論文・解説書は、ブルジョア「個人」主義にドップリ浸かった日本での生活感情に慣れ切った人間には「キツい」内容であり、現実問題として日本の現状を変革する上では必ずしも参考にならないのです。
日本の現状に合致したチュチェ思想の活用が必要です。そもそも、チュチェ思想に依拠するといっても、それを実践する国・地域によって具体的な戦術は当然異なってくるものです。その点、チュチェ思想には、かつてのコミンテルンのような実践上の中心はなく国際研究所という学問上の中心だけが存在しています。共和国本国でのチュチェ思想実践と日本でのチュチェ思想実践はそれぞれの特性を踏まえて実践すべきものです。
とはいえ、チュチェ思想も一つの思想である以上は、その枠内に収まるとして許容できる解釈と逸脱として判断しなければならない解釈の問題がどうしても生じます。また、人類の進歩・発展が不断の歴史的積み重ねであるということ、そして歴史的な積み重ねを繰り返してゆく中で人類は常に質的に異なる問題に直面してきたということをも考慮する必要があります。平たく言うと、資本主義時代で直面する問題と、社会主義時代に直面する問題は異なるのです。このとき、チュチェ思想の本質が何であるかという理解が非常に重要になってきます。
チュチェ思想は非常に深奥な思想体系ですが、これが実践的に構築されているのは、資本主義を清算して未来社会としての社会主義社会を建設する朝鮮民主主義人民共和国です。既に共和国は社会政治的生命体を構築しそれを更に発展させるという、日本社会とはまったく異次元の高い空間に存在しています。それゆえ、日本人が朝鮮語の最新文献を翻訳して何か教訓や指針を得ようとしても、共和国があまりにもハイレベルなのに対して日本があまりにも低レベルなので、必ずしも参考にはならないのです。
未来社会追求においては「立ち遅れている」日本人は、チュチェ思想の深奥なる世界から自分たちに必要な内容を、その本質を踏まえながら自分たちの頭で考えて拾わなければなりません。チュチェ思想の本質を踏まえて逸脱を戒めながら、立ち遅れた日本社会の現状に合致した内容を拾うとするとき、私は首領様が50年前に発表された「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」は、まだ共和国においても社会政治的生命体の形成途上であった時期の労作であるだけに、非常に参考になるものであると考えます(このことは、「日本は、社会政治的生命体の形成という課題において、少なくとも共和国から50年は遅れている」ということでもあります)。
我々は遅れているのです。ならば、最新の文献ではなく敢えて古い文献から学ぶ必要があると言えます。そうした観点から当該労作を読み込んでみましょう。
■主語は「人民大衆」
まず冒頭で首領様は次のように指摘されます。
チュチェ思想とは、一口に言って、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力もまた人民大衆にあるという思想であります。言いかえれば、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという思想であります。ここで重要なのは、「人民大衆」が主語であるということです。チュチェ思想の文献においては、ときどき「人間」という言葉も登場し、あたかも「個人」を主体として位置づけているかのように文法的には読めてしまうこともありますが、そのように理解すべきではありません。マルクス・レーニン主義の伝統(首領様はこの労作中で「手工業的な技術であっても、協同したほうが個人農経営に比べてはるかにすぐれているという、マルクス・レーニン主義の命題」について、真理として肯定的に言及されています)からいっても朝鮮哲学の伝統からいっても、主語はリベラリズム的な「個人」ではなく集合体としての「人民大衆」であることに注意を払わなければなりません。「人間」というのは、漠然とした「個人」ではなく、あくまでも「人民大衆」を構成する一部分という意味での「個人」なのです。
この点を混同して迷走したのが「チュチェブログ」主宰者の@blog_juche_ideaことChon In Young氏でした。ツイッターを削除した彼は、いまや完全に放置されたブログ以外は何の痕跡もインターネット空間に残していませんが、最末期には「実存主義」への支持を表明していたものでした。主体の理解を誤るとチュチェ思想の看板を掲げながらその正反対の陣営に行きつきかねないわけです。
もちろん、これだけであれば、誰でも思いつきそうな内容ではあります。首領様も次のように認めています。
こうした思想は、決してわれわれが初めて発見したものではありません。マルクス・レーニン主義者であれば誰でもこう考えています。ただわたしは、こうした思想を特別に強調しただけです。しかし、こうした一般的な理解を具体的政策に一貫して盛り込むことは、簡単な話ではありません。具体的方法を考えるときに抽象的総路線にいちいち照らして整合性を取ることは、思ったよりも難しいことです。我々はその反面教師として、日本における新型コロナウイルス対策を挙げることができるでしょう。日々、四方八方から寄せられる要望・批判に対して医学という総路線に照らして正しい応答をすべきところ、必ずしも貫徹されず、批判回避を優先したとしか思えないような軽慮浅謀な「対策」が展開されたものでした。
■「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ
では、主体性を確立するというのはいったいどのようなことなのでしょうか。首領様は次のように指摘されます。
主体性を確立するというのは、革命と建設に対し主人らしい態度をとることを意味します。革命と建設の主人は人民大衆であるがゆえに、人民大衆は当然、革命と建設に対して主人らしい態度をとらなければなりません。主人らしい態度は自主的立場と創造的立場に表現されます。自主的立場に立ち創造的活動を展開することが主体性を確立したことを示すというわけです。
革命と建設は人民大衆のための事業であり、人民大衆自身が遂行すべき事業であります。したがって、自然と社会の改造において自主的立場と創造的活動が求められるのです。
自主的立場について首領様は次のように解説なさいます。
自主的立場を堅持するうえで何よりも重要なのは、政治において自主性を確固と保障することであります。人間が人間である証とは、社会的に自主性を持つということなのです。たしかに、人間は社会的動物です。「自主」という言葉は文法的に「自らが自らの主である」という意味合いを持っていると言えます。社会的動物たる人間が「自らが自らの主である」という状態とは、すなわち社会に参画をし社会を協同して運営している状態として解釈できるでしょう。
人間にとって自主性は生命であります。人間が社会的に自主性を失うならば、人間とは言えず動物と何ら変わるところがありません。社会的存在である人間にとっては、肉体的生命よりも社会的・政治的生命が大事であると言えます。たとえ命はつながっていても、社会的に見捨てられ、政治的自主性を失うならば、社会的人間としては屍も同然であります。まさに、そのために、革命家は他人の奴隷となって命を保つよりは、自由のためにたたかって倒れるほうが何倍も光栄であると考えるのです。
ちなみに、ここにはのちに社会政治的生命体論につながる萌芽を見て取ることができるでしょう。「日本は、社会政治的生命体の形成という課題において、少なくとも共和国から50年遅れている」とはいえ、しっかりと正統な道を歩めば、時間はかかっても社会政治的生命体構築という究極目標には到着するわけです。
この他首領様は、「チュチェ思想が政治における自主、経済における自立、国防における自衛として具現されるものと理解してもよいかという質問でしたが、まさにそのように理解するのが正しいのです。」とも指摘されています。
■「生活」を目的とすべきである
続いて首領様は、「国内政策にチュチェ思想を具現するため、当面して何に重点をおいているか」という問いに回答を与えています。すなわち、「朝鮮革命にチュチェ思想を具現するうえでもっとも差し迫った当面の問題は、祖国の自主的平和統一を実現すること」であり、また、「共和国北半部においてチュチェ思想を具現するために提起される当面の中心的課題は、3大技術革命を力強く推し進めて、人びとを骨の折れる労働から解放すること」であると指摘されています。ここでは特に後者について注目したいと思います。首領様は次のようにも指摘されます。
搾取と抑圧から解放された朝鮮人民にとって、これから解決すべき重要な問題は、骨の折れる労働から解放されることです。日々の国際ニュースに毒されている我々は、どうしても「祖国の自主的平和統一」に目が行きがちでしょうが、社会主義・共産主義運動の究極目標に照らしたとき、後者の方がより重大な課題であると言えます。「経済建設や技術革命それ自体に目的があるのでなく、それが人民に国家と社会の主人としての張合いのある生活をもたらす手段とならなければならない」というのは、ともすれば社会主義においても経済建設が優先され、一種の自己疎外が発生しかねないところ、それを厳に戒めているといえます。
労働生活は人びとの社会生活でもっとも重要な位置を占めます。労働条件における本質的な差をなくし、人びとを骨の折れる労働から解放することは、人びとの生活をより自主的で創造的なものにするうえで大きな意義をもちます。
人びとを骨の折れる労働から解放するためには、3大技術革命を推し進めていかなければなりません。われわれが提起した3大技術革命の課題は、自力で技術を全面的に発展させることにより、重労働と軽労働の差、農業労働と工業労働の差を縮め、女性を家事の重い負担から解放することであります。これらの課題が完全に遂行されれば、都市と農村で骨の折れる労働は基本的になくなり、労働生活のうえで労働者階級と農民の階級的差もなくなるでしょう。
われわれが漠然と重工業を発展させるとか、軽工業を発展させるとかいうのではなく、人びとを骨の折れる労働から解放するための3大技術革命の目標を掲げたのも、経済建設や技術革命それ自体に目的があるのでなく、それが人民に国家と社会の主人としての張合いのある生活をもたらす手段とならなければならないという、わが党の一貫した立場をはっきりと示すものです。すべてのことを人間を中心に据えて考え、人間に奉仕させるのがほかならぬチュチェ思想の要求であります。
このくだりは、どんなときにおいても、「すべてのことを人間を中心に据えて考え、人間に奉仕させる」というチュチェ思想の一貫した立場を余すことなくコンパクトに表現したくだりであると言えるでしょう。ここにチュチェ思想の一つの本質的特徴があると言えます。
■人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるがゆえに、人間の教育より重要なことはない
首領様は教育問題についても言及なさっています。
われわれは青少年の教育問題に大きな関心を払っています。それは、青少年が代を継いで革命を続けるべき朝鮮革命の後続部隊であるだけでなく、社会の発展において人間の教育より重要なことはないからです。このくだりは、主体としての人間と客観的環境について、経済決定論的マルクス主義とも観念論的リベラリズムとも異なる、正しい見解を端的に指摘していると言えます。
言うまでもなく、生活手段なしに人間は生きることも、進歩することもできません。そういう意味で、経済は社会生活の物質的基礎をなしていると言えます。しかし、生活手段はあくまでも人間のためのものであって、人間を離れては無意味なものです。また生活手段を創造し、生活条件を改善するのも人間であります。したがって、社会の発展でもっとも重要なのは、人間をより強力な存在に育てることであり、革命と建設を力強く推し進めるためには、対人活動、人を改造する活動を優先させなければなりません。
人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する、というのがチュチェ思想の基礎であります。自然と社会を改造するのも人間のためであり、また人間のなすことであります。世のなかでもっとも貴いものは人間であり、もっとも強力な存在も人間であります。われわれのあらゆる活動は、人間のためのものであり、その成果いかんは、対人活動をどう行うかにかかっています。教育事業は対人活動の重要な部門の一つです。
「経済は社会生活の物質的基礎をなしている」という見解はマルクス主義から引き継いでいるといえますが、「人間をより強力な存在に育てること」を重視する見解は、いわゆる生産力主義とは一線を画するものです。人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるという主体的見解が端的に表れています。
生産力主義に偏った古典的な教条主義的マルクス主義は既に瓦解して久しいものです。キム・ジョンイル同志はチュチェ81(1992)年1月3日づけ「社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線」において、ソ連・東欧社会主義崩壊の原因について「一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした」と指摘されました。
他方、昨今いわゆるリベラリズムやエコロジズムは、それとは逆に観念論の域に達していると言わざるを得ないほどに人間意識の偏重しています。リベラリズムやエコロジズムはまだ決定的な失敗を見せてはいませんが、たとえば当ブログがチュチェ108(2019)年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」で取り上げたとおり、人類史的重要課題である気候変動問題について正確な方向性を示せているとは言い難く、遅かれ早かれ社会歴史観的誤りを露呈することでしょう。
社会歴史観はいまだに極端から極端に振れ、社会の実相から遊離したところでフワフワと安定しないところ、首領様は50年も前から正しい社会歴史観に立脚していらっしゃいます。
こうした正しい社会歴史観に裏打ちされた教育論の詳細について首領様は次のように言及されています。
教育とは、人びとを知・徳・体の兼備した社会的人間に育成する事業であります。社会的人間となるためには、何よりも健全な社会意識を所有しなければなりません。革命の時代に生まれた若い世代が革命思想で武装せず、社会主義を建設する現代の人間として科学技術や文学・芸術も知らないのでは、社会的人間であるとは言えないでしょう。
人びとは社会的人間として当然所有すべき思想・意識水準と文化水準をそなえてこそ、すべての社会生活に主人らしく参加することができ、革命と建設も力強く促進させることができます。わが党がつねに教育事業をすべての活動に優先させる理由はここにあります。
われわれは、教育の中心問題は社会主義教育学の原理を貫くことであるとみなしています。社会主義教育学の基本原理は、人びとを革命と建設に主人らしく参加できる思想と知識と壮健な体力をもった、頼もしい革命の人材に育成することであります。
人びとの教育でもっとも重要なのは、思想・意識を革命的に改造することです。人びとのあらゆる行動を規定するのは、思想・意識であります。たとえ健康な肉体の所有者であっても思想的に立ち後れ、道徳的に堕落するならば、そのような人は、われわれの社会では何の役にも立たない、精神的不具であるとしかみなされません。だからこそわが党は、つねに人びとの思想を革命的に改造することに第一義的な関心を払っています。首領様の社会主義教育学は、のちに「社会主義教育に関するテーゼ」(チュチェ66・1977年9月5日)としてまとめられるものですが、その骨子は既にこの時点で示されています。
青少年教育においても、彼らを革命的思想で教育することに第一義的な意義を与えなければなりません。いくら知識や技術を所有していても、労働をいやがり国家や社会のために奉仕しないならば、そのような知識や技術は何の役にも立ちません。個人の出世や金儲けのためではなく、自国の人民と祖国のために奉仕しようとする社会主義的愛国主義の思想と革命的世界観に基づき、一つを学ぶにしても使い道のある知識を学ぶようにし、すべての青少年が労働を好み、国家と社会の財産を愛護し、革命と建設の先頭に立って進む共産主義的道徳品性をそなえた、新しいタイプの人間に育つようにしなければなりません。これが社会主義教育学の基本的要求であります。
もとより社会とは、財貨と人間関係を構成要素として人間が目的意識的に形成するものです。人間なくして社会は存在し得ず、社会の主人は人間なのです。もちろんマルクスの自己疎外論が指摘するように、ときに人間の意思を超えて社会システムが暴走することはあっても、それを正常化して再び人間の統制下に引き戻すこともまた人間がなせる業です。そう考えたとき、社会の主人としての人間を育成するためには、社会全般を統御し得る知・徳・体を兼備する必要があると言えます。
とりわけ思想・意識の革命化を重視していることに注視すべきでしょう。未来社会としての社会主義・共産主義社会は人民大衆の創造的・建設的労働によってのみ実現されるものです。人民大衆を未来社会の建設者として育成し、そうした人々が所与の条件の中から未来社会建設の突破口を見出すことによって社会主義・共産主義社会は実現され得るのです。人民大衆を建設者として育成せずして自ずと未来社会は実現されるはずがないし、所与の条件の中から未来社会建設の突破口を見出すことをせず、単なる啓蒙主義的道徳キャンペーンに終始するようでは、やはり未来社会は実現されるはずがないのです。
前述のとおり、社会歴史観はいまだに極端から極端に振れています。教条主義と啓蒙主義の両極端が社会の実相に合致していないことは既に歴史的事実が何度も示しているところですが、日本においても依然として両極端への支持には厚いものがあります。首領様が50年前から提唱している、ある意味で中庸的な見解の生命力は、ソ連・東欧諸国の瓦解から30年たち、また、リベラリズム・エコロジズムが現実的な処方箋を出せていない昨今においてますます生命力に満ちた可能性を示しているものと考えます。
■総括
社会変革における主語は「人民大衆」であるということ。「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ。人民大衆の諸活動は「生活」を目的とすべきであるということ。人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるということ。そして、そうであるがゆえに人間の教育より重要なことはないこと。
いずれも、現代日本の常識に照らしたとき、それほど違和感を感じるような内容ではないと思われます。これは、チュチェ思想は人民大衆の革命運動のさなかに形成され体系化されたものなので、突飛な発想ではないためです。冒頭で述べたように、「少なくとも共和国から50年は遅れている」日本は、50年前の首領様の労作から拾えるものを拾うことから始めるべきであると考えます。